18. 離し難い
風の音に混じって、獣の咆哮が聞こえる。
覚醒直前の指先が、土を掻いた。
ガシャ、と、鎧と腰の剣が擦れる。身じろいだ拍子に、頭部が硬質なものにぶつかった。
白む意識を必死で繋ぎ止めながら、思い返す。私は敵兵を迎撃した後、拠点を放棄した。次の拠点に移って、前線を押し上げるために。
拠点を潰したのは、時属性と天属性、そして王家の魔法式を組み込んだ魔法陣を、跡形も無く消し去るためだった。
そして、次の拠点を求めて移動している際に、運良く獣の群れに遭遇し。受け取りの刻限が迫っていたから、血で魔法陣を……。
ハッとして目を開く。
深い暗闇の中で、血と紅葉で赤々とした樹々が見える。その周囲に散乱するのは、獣の死と、物資の山。そして、血で描かれた魔法陣だった。
目の前に広がる光景が、寝入る前と同じである事を確認して、胸を撫で下ろす。
同時に、なけなしの魔力を込めて、腕を払った。
現れた流水は、樹々をすり抜け、勢いよく去っていく。後に残ったのは、飛散した血と、樹々と、獣と、物資のみ。自然とため息が漏れて、四肢の力が抜けた。
(急拵えだったが、一先ず移送が成功して良かった。しかし、雑な魔法陣とはいえ、魔力枯渇を起こすとは……。ビセスが居ないという事は、彼に充填した魔力も消費して、このザマ──ッ!)
鋭い頭痛に襲われて、眉を顰める。
追ってやって来たのは、纏わりつくような気怠さだった。辺りに充満する血の匂いが、体の重さに拍車をかける。
細く、長く溜息を吐くと、長ったらしい赤毛が眼前で揺れた。出立前は肩につかない長さだったソレは、鎖骨の辺りを漂うようになっていた。
血を思わせる赤毛は、闇夜でも目立つ。
早く纏めなければ、夜目の効く獣に見つかるだろう。
(見つかったところで、斬り伏せられる……しかし、リスクは減らした方がいい)
重い腕を動かして髪を掴む。
耳の下で軽く結って、木を支えに立ち上がった。
(怪我でもすれば、彼女が泣く)
出立の日。熱い涙が頬を打ち、胸が騒めいた、あの感覚。忘れる事などできない。
私の事を心配する人間など、居るはずもないと思っていた。しきりに“守る”と言ってくれたのは、ひとえに辺境伯夫人としての義務を感じているからだと。
『お前が戦場で殺される事はないのだろうな』
父の声が、脳の中で反響する。
臓腑に沁みる重い声。逆光で表情が見えなくなった父は、私と義母を交互に見た後、そう言った。血に濡れ、呆けるばかりだった私と──床に倒れ伏し、胸を押さえたまま微動だにしなくなった義母を見て、淡々と言ってのけたのだ。
腹の底が冷える感覚と共に、強烈な吐き気が込み上げる。思わず口元を抑えて、首を振った。
(私が戦場で殺される事は、ない。あり得ない)
噛み締めながら唱え、呼吸を整える。
脊髄を駆け上がるのは、悪寒と、どうしようもない切なさだった。刃を伝う肉の感触。滑った血の温もり。これまで戦場で味わってきた全てが、這うようにして蘇る。
(ああ、どうして今ここに、貴女が居ないんだ。パトリシア)
浅く呼吸しながら、彼女を想う。
命が怖いと。人の温もりが恐ろしいと震える彼女は、見送りの日、抱きしめても震えていなかった。克服できたのだろうか。だとしたら、この上なく喜ばしい。
彼女の気持ちは、痛いほど分かる。
命は恐ろしい。
生き物から体温が喪われていく様は、胸の奥底を撹拌させる。母を失った時の衝撃が、未だに心に爪を立てているのだ。私も、パトリシアも。
妻として迎える以上、絶対に不自由はさせないと誓っていた。しかし、彼女に自分と通ずる物があると分かった時、神はいるのだ、と思った。同時に、彼女を救えるのは、自分だけなのだろう、と。
痛みを取り除いてやりたい。
苦しみの無い世界で笑っていてほしい。
こんな地獄を味わわなくていいように。
──まさかそれが、かえってパトリシアを傷つける事になろうとは。
(思えば、私はパトリシアと自分を重ねていたのかもしれない。似ても似つかないというのに)
彼女は結局、自力で過去から脱した。
キッカケさえあれば、何処までも羽ばたいていける人間だったのだ。蒼白してばかりだった彼女は、頬を赤らめて、穏やかに笑うようになった。翡翠のような瞳が、若草を思わせる温もりを帯びた時、衝撃で息が詰まった。
こんなにも愛らしく笑うのか、と。
ふと、頬を擦る。いつの間にやら、口角が上がっていた。荒かった呼吸も、内側を嬲るような吐き気も、徐々に静まりつつある。
(こんなところで腐っている場合ではない。パトリシアの努力に報いなくては)
刹那、草木を踏み締める音が聞こえた。
一等大きく感じられたソレに、反射的に抜剣し、構える。
飛び出してきたのは、辺境伯家の黒装に、金の髪を持つ男。数刻前に別れた我が騎士、エウドキアだった。
「閣下、良かった、ご無事で……うわ、なんだ、なんか踏んだ!」
「気をつけろ。ここは物資の山と獣の死体でいっぱいだ」
エウドキアは素早く片足を上げた。
みるみる青白くなる彼は、私に目線を向けると、噛み付くように口を開く。
「ええ、ちょ、獣はまだしも、物資の方は先に仰っていただけませんか!? 蹴っ飛ばしちゃうかもしれないんで! オレが閣下やスヴィと違って、夜目効かないの、ご存知でしょう!」
「すまない」
「ていうか、え、もしかして。此処でアレやったんですか……? 色々と危険ですよ、何考えてるんです!」
「その件に関しても、すまない、としか言えない。緊急事態だった」
エウドキアは私の隣に立ち、低く呻いた。彼の右手に収まる細身の剣は、月夜に照らされて輝いていた。柄に嵌った宝石は大地の煌めきを呈し、刃は鮮血で滑っている。
(エウドキア自身は返り血を被ってない、とすると、相手は思考を読みやすい存在か。ならば)
「大公国の勇士か」
第一の騎士は怪訝な表情を浮かべた。
「何の……あ、オレが切った相手の話ですか?」
息も絶え絶えに言葉が紡がれる。
よくよく見ると、彼の額には汗が浮かんでいた。肩も小さく上下している。私が魔法陣を行使するために隊列を離れた後、よっぽど探し回ったのだろう。素直に申し訳なく思う。
得心した顔で頷いた彼は、私が謝罪を述べる前に、口を開いた。
「仰る通りです。いやぁ、なんで此処にいるのがバレたんでしょうね。オレ達すぐ出立したのに。着けられていたんでしょうか」
腕を組んだエウドキアは、視線を落とした。
疲れからか、終始口調が崩れている。珍しい。私の前では、なんだかんだ必ず取り繕っていたのに。ともあれ、指摘するような事でもない。私としても、気安い方が話しやすかった。
剣をしまいながら、エウドキアを見やる。
「向こうも焦って、索敵範囲を広げたんだろう。我々が深追いするのは初めてだからな。それに、拠点を大袈裟に埋めすぎたのもある」
自分の声が頭に響き、眉に込める力が強くなっていく。頭を上げ、私の顔を眺めたエウドキアは、何か言いたそうに唇を振るわせた。けれど、すぐに視線を逸らして、口を閉じる。
長く使ってきた前線基地には、魔法陣を刻んであった。時属性と天属性、王家の式を転用したアレを残すわけにはいかなかったので、破壊を命じたわけだが。大公国への牽制になれば、と、欲をかいたのが災いしたのかもしれない。
エウドキアが大地の宝石を一瞥する。
彼の得意魔法を補助できる、土の力が備わったソレは、今回の拠点埋めに大層役立った。エウドキアは剣を何度か振った後、深くため息を吐いた。
「勿論、閣下がバレるの前提で指示したのは分かってますよ。ですが、それを加味しても、早すぎるというか」
頷き、一帯を見渡した。
この血の匂いに、獣だけでなく、大公国の者も混じっているのだろう。
数ヶ月戦い続けているというのに、彼らは未だに、この地にやって来る。ここまでの大出血を強いれば、如何に大公国と言えど、タダではすまないだろう。とすると、考えられる可能性は一つだけ。
「今回の侵攻で終わらせるつもりだとしたら、別段可笑しい行動ではないな」
エウドキアはハッとして、私を見つめた。
汗で張り付いた金髪の下で、双眸が光る。
「成程。オレたちと同じですね」
「ああ」
「じゃ、派手にかましましょう。連中が2度とバカな真似出来ないくらいに」
歯を見せて、好戦的に笑うエウドキア。
瞳を覆う、鈍い光の奥底に、隠しきれない興奮を垣間見た私は、深く頷いた。
「背中は任せた、エウドキア」
「お任せください。必ず御身を奥方の元へお送りします」
剣を抜き放つ。
ほんの少し前から、辺りは研ぎ澄まされた殺気で満ちていた。
頭が痛む。剣が重い。情けなく吐き気を引きずっている。魔力は殆ど尽きていた。それでも、私は負けないだろう。パトリシアと約束したし──それに、元よりそのようにできているのだから。




