1. 新興貴族の結婚事情
春の初め。
男爵令嬢パトリシアは、父の呼び出しを受け、執務室にやって来た。赤と金を基調とした豪奢な部屋は、朝日を吸って眩く輝く。パトリシアは手で目を庇った後、すぐにハッとして、頭を下げた。
部屋の中心に座すシェーン男爵が、吐息混じりに何事かを囁く。パトリシアは、翡翠のような瞳を細めた後、瞬きのうちに見開いた。
「お父様、いま、なんと?」
「辺境伯様と結婚しなさい」
稲妻のような衝撃が、パトリシアの脳天を駆け抜ける。淡々と吐かれた言葉に、はく、と唇が震えた。
「い──嫌、です」
パトリシアは長い黒髪を振り乱して首を振る。彼女の父親は、禿げ上がった頭を撫で、深くため息を吐いた。
「そんな名家に嫁いだら酷く扱われるに決まってます。パーティの時みたいに!」
「パトリシア……」
「金で爵位を買った商家如きが辺境伯爵夫人だなんて、恐れ多いわ! 考え直して、お父様!」
パトリシアの脳内で、王城のシャンデリアが煌めく。夜を塗り潰す光源の下で、薄汚い差別が蔓延している事を、彼女は身をもって理解していた。男爵は豪奢な椅子にふんぞりかえったまま、面倒くさそうに娘を一瞥する。
「お前の気持ちも分かる。しかし、これはまたとない勝機なのだ。我々の地位を押し上げるには、お前の結婚に賭けるしかない」
パトリシアは唇を噛んだ。
父親の瞳が、醜い光を放っていることに気づいたからだ。
辺境伯家と言えば、国の西端を陣取り、隣国からの侵攻に耐え続ける旧家である。3代前の当主が運良く鉱脈を発見し、パトリシアの祖父の代で爵位を買う運びとなった新興貴族が、繋がりを持てる家では無い。本来ならば。
近年、隣国からの侵攻は激化しており、辺境伯領での小競り合いは増していた。練度の高い騎士団を保持する辺境伯は1度たりとも負けなかったが、代わりに財政難に陥っていると聞く。
辺境の地は、元々名産品なども無い、財源に乏しい領地である。近年では歴史的な冷夏により、農作物の収穫量も減っていたそうだ。
(お父様は金で結婚相手を買ったんだわ。お爺様が爵位と領地を買ったように、自分の地位を固めるために)
パトリシアは、この結婚の裏に何があるのか、正確に理解している。そして、自分に拒否権が無いことも。
「嫁に行け、パトリシア」
父の低い声に押され、パトリシアは首を縦に振った。そうするしかなかった。
パトリシアは今日、辺境伯領に向けて出発する。
男爵領から辺境伯領まで1ヶ月はかかる。
その距離を、騎士団の無い男爵家が護送できるわけもなく。移動中は、辺境伯領の騎士団が護送する事になっていた。
身綺麗にされたパトリシアは、庭先に立っていた。辺境伯領の一行がやって来たら、1番に出迎えられるように。
彼女の身を包むのは、瞳よりも幾分か柔らかな色をした、若草色のドレスである。裾に繊細な銀糸の刺繍が施されているそれは、些か派手だが品が良い。
パトリシアは刺繍を眺めるふりをして俯いた。
(怖い。怖いわ。まともなままでいられるかしら。環境に耐えられなくて気が狂ったらどうしよう)
男爵は彼女の真横で控えている。澱みない瞳で正面を見つめる彼は、娘の様子に気がつかない。
「来たぞ」
無情な宣告がパトリシアの胸を突いた。
恐る恐る顔を上げると、黒を基調とした一段がやってくるのが見えた。中央の馬車を囲うように、騎兵の隊列が組まれている。
「……なんということだ」
父親の呻き声は、パトリシアの耳に届かない。
隊列の先頭を飾る男に、釘付けになったからだ。
「パトリシア。あれが、ルーセント・ルドビカ辺境伯様だ……。まさかご本人がいらっしゃるとはな」
男は一等逞しい馬に跨っていた。
柔らかな赤毛から、冷え冷えとした淡い碧眼が見え隠れしている。目元まで伸びた髪から、容姿に無頓着なのが察せられた。しかし、手を入れていないだろうに、その顔立ちは精悍で、冴え渡っている。あまりの美しさに、パトリシアは人外めいたいものを感じた。
彼は獅子の意匠が施された重厚な鎧を纏って、真っ直ぐに男爵家へやって来る。
パトリシアの眼前まで迫った時、辺境伯は口を開かなかった。代わりに、辺境伯の脇を固めていた長い金髪の男が馬から降り、首を垂れる。
「お初にお目にかかります、シェーン男爵様。パトリシア様。私はルドビカ辺境伯様の第一の騎士、エウドキアです」
人の良さそうな笑顔を浮かべるエウドキアは、近くの騎士から書類を受け取り、男爵に手渡した。
「シェーン男爵様。今回の護衛に関して、改めて日程をお伝えしたいのですが、今よろしいですか?」
「あ、ああ。構わない。時間が惜しいからな」
去り際に、父親から「上手くやるように」と目配せされたパトリシアは、小さく頷く。しかし、件のルドビカ辺境伯は、ここに来てから一度も唇を開いていなかった。そんな相手に、どうコミュニケーションを取れば良いのか。
パトリシアは、そっと辺境伯を盗み見た。
いつの間にやら馬から降りていた彼は、パトリシアと目も合わせずに、男爵とエウドキアのやり取りを見守っている。
時折、少しだけ口角を上げて馬を撫でてやっているから、きっと優しい方なのだろう。少なくとも、馬には。
(私と同じく、口下手と聞いていましたが。これは、口下手以前に、とても無口な方なのでは……)
パトリシアの不安は、より一層強まった。




