32,星型の本音
3417字
「うぅ……ううぅぅぅう……!」
ビショ濡れの頭を抱えて、フランネルは時計塔内部の螺旋階段を上っていた。壁に肩をこすりつけるように、一段、一段と慎重に足を踏み込む。長い階段で疲れたのか、彼はその場に座り込んだ。しばらく上を見つめていたが、やがて力なくポケットから一冊のお友達ポケットを取り出す。濡れていて……落書きが一つもないノート。
彼は息を切らしながら、震える指で表紙を捲った。そして脚本が目に入った瞬間、泣きそうに顔が歪む。
≪神に忠誠を誓い、神の誕生を見届ける≫
アザリアと、全く同じ脚本内容だ。彼は叩きつける様にノートを階段に落とし、大きく深呼吸した。唇を冷たい風が通り抜ける。途切れ途切れだった呼吸も、徐々に整えられる。整えられるにつれ、彼の胸の悲しみは膨らんでいった。落ち着いた頭は、無理矢理現実を思考させてくる。言われた言葉が脳内を巡る。
「僕は……僕は、ッあぁ……」
濡れた顔を手で拭きながら、彼は立ち上がった。ノートを拾いもせず、エリカのいる扉を目指す。螺旋階段に、寂しく足音が響く。右往左往する視界、嘔吐しそうな体、呻くしかできない喉。随分と走ったはずなのに、彼のパーカーは全く乾いていなかった。
やがて扉の前までたどり着き、ノックもせず思い切り扉を押す。
「わ、わぁ誰だ!……あぁ、フランネルか。ノックはどうした?ボクが恥ずかしいことをしてたら、どう責任をとるつもりだったんだい!?」
半分おふざけ、半分マジギレで彼女は叫ぶ。しかし彼はふらつく足取りでエリカに一直線で進んだ。
「ボクは、明日の講演の言葉を考えてたんだ。あ!そうだ、折角だし君に一度読んでもらいたい。添削してもらって……フランネル?」
「エリカ……様。」
段差を前にして、彼はとうとう膝から崩れ落ちた。その首は真っ直ぐ地面を向いている。
「だ、大丈夫かい?よく見たら全身濡れてるじゃないか……。」
「エリカ……エリカ!僕は、僕は何を信じればいいんだ?」
段差を降りてきたエリカの肩を、彼は強く掴んだ。その顔は切なく歪んでいる。
「ちょ、濡れた手でそんな……」
「僕はあんたを信じてる。でもあんたは俺を信じてる?確認したいんだ。あんたは本当に、俺の信仰を肯定してくれてるのか?俺はあんたにとって、ただの駒じゃないのか……?」
「フランネル……」
エリカは、何も言わずその場に立ち尽くした。静かな王の間に、フランネルの呻き声だけが伝わっていた。普段から泣き慣れていないからなのか、やけに上ずっている。エリカの沈黙は彼の心にどう映るのだろう。
「フランネル。君の信仰は本物だ。宇宙は神だし、ボクはこれから神になる。だから君にはそれを見届けてほしい。」
「それって――」
「……君にだけ先に教えよう。ボクは、もうハルモニアを終わらせるつもりだ。ボク自身の脚本も、そういう形で締めくくる。長い時間で覚悟を決めたつもりだよ。」
直後、フランネルの泣き声が止んだ。
「……フランネル?」
正午の時計塔。ステンドグラスから差し込む色とりどりな光が、空気中の細かい埃を扇情的に照らす。後ろから差し込むその光はエリカの背に遮られ、フランネルには当たっていなかった。陰になっている彼の顔を見ようとエリカは目を細めるが、何も見えない。ただ一つ聞こえたのは……心が壊れる音だ。
「じゃあ……僕の……居場所は……」
「リアルの君は生死不明の重体に陥っている。君の命はボクがハルモニア管理者として管理している。君が望むなら現実世界に帰すし、そのまま死なせてやってもいい。ボクは死者だから、死後の世界とやらに向かうかも。」
誤魔化すようにエリカは笑う。しかしフランネルは力なく腕を地面に垂らし、俯いたまま立ち上がった。
「嫌だ……僕はそんなの、絶対嫌だ。ここにいたい。ハルモニアは不滅の楽園なんだろう?ナハツェーラとか脚本とか怖いものはいっぱいあるけど、僕の探していた理想と希望はハルモニアが持ってるんだ!」
「やめたまえフランネル!」
エリカが叫び、彼は一歩後ずさる。直後、一匹の回転木馬が地面をすり抜けてフランネルの真下から出てきた。
「ッ!?」
フランネルは反射的に回転木馬の支柱にしがみついた。木馬はエリカを中心にゆっくり回転し、彼をバルコニーまで運んで消失した。木馬が消えることで彼は尻から落下し、痛む腰を少しさすった。エリカがフランネルに歩み寄る。
「や……やめろ!ここから落とすつもりか!」
「そんなことはしない。ただ、君ももう現実を受け入れて――」
「ハルモニアを続けよう!人口が少なくなったことなんて今まで山とあるだろう!?いつもみたいに、なんとかなる。せめてもう少し時間をくれないかエリカ。僕とアザリアでなんとかする!同じ家族としてテレジアやアメリアもいる!まだ夢は続くんだ!」
「ボクはもう決めたんだ!泣く泣く決断したものを、そんなに否定しないで……」
「僕に夢を見せるって、約束してくれたんじゃないのかッ!」
フランネルがそう叫んでエリカに掴みかかろうとした、次の瞬間。
――パパァーーーン!!!
愉快なラッパの音が周囲に響き渡った。エリカが目を開けると……
「フランネル!」
さっきの回転木馬がどこからともなく高速で現れ、フランネルを轢いた。
木馬を正面から食らったフランネルは勢いで吹き飛ばされ、バルコニーの手すりに上半身を乗り出すような体勢になった。
「こんな高さから落ちたらタダで済まないぞ!」
エリカはフランネルの服の裾を掴もうと手を伸ばしたが……手が届く直前、エリカの胴体は何者かに引っ張られ室内に放り込まれた。その次の瞬間、これまたどこからともなく観覧車のゴンドラが一つ飛び込んできた。ゴンドラはバルコニーに直撃し、バルコニーごと吹き飛ばした。突風がエリカの顔を叩くが、お構いなしに彼女は壁の穴から顔を出して下を見下ろした。
「フランネルーーーッ!!!」
もう随分遠く。バルコニーの鉄格子や花壇と一緒に宙を舞うフランネルがいた。全身から血を噴き、何が起きたのかも思考できず落下していく。
「あァ……ア゛ア゛ア゛ッ!!!」
相当な高さなもんだから、もの凄い風が吹いていた。彼女はまた何者かに室内に引きずり込まれた。絶叫する彼女は当分その場でうずくまって泣いていたが、少し落ち着いてきたタイミングで、ようやく誰が二回自分の体を室内に引き上げたのかと考える余裕が生まれた。恐る恐る振り返る。
「アァぁ――」
エリカの後ろにいたのは……エリカの心を投影した一体のナハツェーラだった。全身の穴からはイルミネーションの朧げな光が見え隠れし、回転木馬の王冠が綺麗に輝いている。涙の亀裂をぶら下げる瞳には、時計塔の針が映っていた。見つめていると、時々ぐるりと回転する。
「あぁ……そうか……」
彼女は自身の脚本を思い出していた。
≪永遠の楽園、ハルモニアを完成させる≫
永遠の楽園、ハルモニア。永遠の楽園。永遠。永遠。永遠。
自ら滅ぼすことを選択し、彼女はハルモニアを捨てる決断をした。
「……これがボクの生きざまであり、死にざまにもなるのか――」
彼女は立ち上がり、安定しない足取りでいつもの王座についた。エリカそっくりのナハツェーラは嗚咽交じりに少し笑うと、体を溶かし始めた。やがて液体となったその肉体は床に溶けるようになって消えた。
「ボクは、ハルモニアと一体化する。そして全てを滅ぼし、神となる。」
『家族一覧』
家族ナンバー:1
名前:エリカ(線が引かれている)
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『ナハツェーラ』
〇「ハルモニア」エリカ
危険度レベル:7




