17,愚かな正義
2128字
誰かの手記の一部
≪かつて、私は運搬業の父と家庭医の母の元に生まれた一人っ子でした。大した贅沢はできたものではありませんでしたが、食べたいときに食べ、寝たいときに寝て、着たいものを着れた幸せな生活の中にいたと感じています。父は仕事の関係でほぼ家に顔を出さず、私は実質母と二人暮らしをしていました。稀に「ぱぱ」を自称する知らない男女が、母の紹介で家に訪れたこともありました。私は見ぬふりをしていました。そんな幼少期でした。
私は一人の女に恋をしておりました。しかし随分と昔のことなもんですから名前は思い出せません。仮にナイチンゲールと名付けましょう。私は幼馴染のナイチンゲールに、子供ながら恋心を寄せていたのです。彼女の母は私の母とも仲が良く、よく学校近くの公園で談笑をしているのを見かけることがありました。その間子供という外野の存在は、暇と呼ばれる一種の自由に囚われてしまうものです。私とナイチンゲールは手を取って公園の野原を駆けていました。彼女の体は男の私より一回り小さく、私が彼女の歩幅に合わせるのです。春になるとチューリップが植えられたりもしました。花に詳しい彼女は、親たちの談笑を真似るかのように私に花のことを教えてくれました。
いつ頃でしょうか。十二の誕生日を迎えた翌週くらいでしょうか。街はずれの喫茶店に一人出掛けていると、ナイチンゲールの母が店員の人と陰でキスをしているのを目撃致しました。私はその時「出掛けていた」と申しましたが、厳密には子供らしく「街を探検していた」と言い表せます。誕生日に買って頂いたポケットカメラを取り出し、キス現場をしっかりと撮影してしまいました。計三枚。内二枚はブレてしまいましたが、初めの一枚は綺麗に投影できました。私は、大人たちのリアルなグロを目撃してしまったことに対し、かなりのショックを受けました。そんなもんですから、撮影する以外アクションは起こさず、嗚咽交じりに帰路についたものです。
それから数日程が経過し、いつも通り母たちが談笑している時のことです。ナイチンゲールは砂場に私を呼びこみ、耳打ちしてきました。
「私、もうあなたに会えない。」
どういうことかを訊きました。どうやらナイチンゲールの母が良くない出来事を起こした可能性が浮上し、真偽を巡って夫婦間で裁判が行われているそうです。良くない出来事、と言い方を濁されましたが、私は咄嗟に「あの不倫」のことだと気が付きました。ナイチンゲールは首を傾げ呟くのです。私は母が好きだ、だから母を最後まで信じる……と。彼女の父は酒の力に身を任せて暴力を振るうような人間でした。だからナイチンゲールが母を愛するのも無理はない話です。しかし私には葛藤が生まれていました。証人として写真を提出すれば、「正しさ」は遂行されるがナイチンゲールを失ってしまう。事実を隠せば己の良心を殺すことになる。私は人一倍正義感が強い子供だったので悩みました。結果、第三者にヒントを落とすことにしました。
学校の教師に例の写真を少し見せ、相談しました。教師は模範的な人間であり、子供である私の話を真正面から真剣に聞いてくださいました。私が「これは二人の秘密にしてください」と願うと「承知致しました」と返してくれるほどです。その返答にどれだけ安心したことでしょうか。
しかしその翌月でしょうか。ナイチンゲールの両親の間で繰り広げられていた不倫疑惑の裁判は急な終わりを迎えました。結果は、証拠アリで父の圧勝でした。結果夫婦は離婚し、ナイチンゲールは父に引き取られて遠くの地へ旅立ってしまいました。そしてこれは随分後から聞いた話ですが、どうやらナイチンゲールは旅立った先で自殺を図ったそうです。後を追って父も死んだのだとか。
私は裁判が終わった晩、用意された夕飯を残し、ずっと毛布にくるまって泣きました。これを殺して泣きました。そして考えました。誰が証拠を提出したのか。私の知る限り、事件の全貌を知っている第三者は私とあの教師のみです。あの模範的な教師が子供との秘密を破るでしょうか?しかし裁判が終わりを迎えた翌週から、凡人は到底買えないような貴金属のアクセサリーをたくさん身につけて、教師は教室に姿を現しました。情報を裁判所に売ったのか?そんな疑問を抱えた頃から、私は裁判の裏で起きていたことを悟りました。
私のせいだ。私が教師を信頼して情報を渡してしまったがために、ナイチンゲールは儚き夢を抱えて散っていった。それから私の精神は罪悪感によりズタズタに引き裂かれ、いつからか人より睡眠時間が長くなりました。長い夢を見る様になりました。そうして、このハルモニアに辿り着いたのです。
私なんぞの阿保な昔話に付き合って頂きありがとうございます。私は今ハルモニアのとある本屋に身を置いています。只今階下の友から呼び出しを食らいました。それでは、行って参ります。≫
この手記は廃墟となったボイジャーに落ちており、誰に気付かれることもなく風と塵に抱かれて眠っていた。




