蓬莱珈琲店の忘れ物
1
広い広い関東平野を北西から南東にかけて流れる荒川沿いに、北原という小さな町がある。町の南半分は荒川に面した市街地になっていて、北半分は見渡すかぎりブドウ畑が広がっている。ブドウ畑はいつも静かでひと気がなく、広い空から強い風が吹きつけていた。
ブドウ畑の真ん中を県道が南北に走っている。この道路を進んでいくと、背の低いブドウの樹がどこまでも続く単調な風景の中に、突然真っ赤な看板が現れる。
「蓬莱珈琲店 この先すぐ」
少し進むと、煉瓦造りのひどく古びたアパートメントが見えてくる。ここの半地下に蓬莱珈琲店があった。
手すりのついた狭い階段を下りて、アールデコ調の重い扉を引き開けると、真鍮のベルがころんころんと鳴り、モダンジャズのくぐもった音色と一緒に、コーヒーの香りとタバコの煙が入り混じった重い空気が流れてくる。
店内は薄暗く、目が慣れるまでどこに何があるのか分からない。窓は入り口の上部だけなので外の光はほとんど入ってこない。天井の数か所でオレンジ色の電球が弱弱しい光を放っている。目が慣れてくると、床も壁の腰板も天井もその他のものも、全てが黒ずんだ胡桃材で作られているのが分かる。まるで穴倉の中に入ったような感じだ。
入り口の正面にレジスタがあり、左手が客席になっている。五つのスツールがあるカウンタと、二人がけのテーブル席が三つある。店内は手狭で、うなぎの寝床のようだ。奥の突き当りに衝立があり、その向こうには化粧室がある。カウンタのすぐ向こうがキッチンで、調理の様子は客席から見えるようになっている。
提供するものはブレンドコーヒーに、シフォンケーキに、サンドイッチに、スパゲティに、カレーライス。典型的な場末の喫茶店という感じだ。営業は二十四時間で、定休は日曜日。客筋は町から町を渡り歩く営業職や、トラック運転手や、タクシー運転手などが多い。蓬莱珈琲店では濃い目のコーヒーと、量のたっぷりした食事を出すので、こうした職業のひとびとに人気があった。ほとんどの客はむっつりと黙ったまま食事をし、たばこを吸い、コーヒーを飲んで、すぐに去っていく。店はいつもどことなく陰気だ。そんな風にして、ブドウ畑の中で三十年間にわたって、蓬莱珈琲店は営業を続けていた。
十八歳の猪瀬亜矢は大学に通うために、鳥取の実家から北原に引っ越してきた。北原の南市街は家賃が安く、近隣の大学にも通いやすいので、学生たちに人気があった。亜矢は北原駅からすぐ近くにある総合大学の教育学部に通うことになっていた。
亜矢の学費と家賃は親が面倒を見てくれたが、それ以外は自分で賄わなければならなかった。亜矢は自分にできそうなアルバイトで、かつなるべく高給の職場を探して、蓬莱珈琲店にいきついた。
亜矢は小柄でぽっちゃりしていて、丸い目に愛嬌があり、鼻に掛かった甲高い声で話す。服装のセンスはまだまだ垢ぬけなくて、いつもパーカーにだぶだぶのパンツに古びたスニーカーという格好でいる。そのせいで、亜矢は中学生ぐらいにしか見えなかった。
亜矢は学業もスポーツも人並みで、人に威張れるような特技もなかった。おまけに、ぼんやりと空想にふけるくせがあり、授業中でも、人と会話をしているときでも、あらぬことを考えていて、人にしょっちゅう注意された。電車に乗っているときなどは、窓の外の雲を見続けながら、あの雲は走る馬に似ているな…どこへ行くのかな…などと考えているうちに、降りる駅を二つも三つも乗り過ごしてしまう。
そんな彼女の取り柄といえば、人に怒られてもすぐにケロリとしていられる神経の図太さと、頭にばかが着くほどの正直さぐらいのものだった。そんな亜矢のことを、実家の父はあきれたように「どつかれても音のせん奴じゃ」と呼んでいた。
亜矢が蓬莱珈琲店に初めて行った日は、オーナーの辰見隆典が奥にある従業員用のロッカールームで亜矢を面接した。室内にはロッカーのほかに、書類が雑然と積み重なったデスクと、やたらと大きい金庫が二台もあり、身動きがほとんどできなかった。亜矢は小さなスツールに座って、デスクの椅子に座った辰見と向き合った。
辰見は六十歳ぐらいで、背が高く、体つきもがっしりとしていた。顔立ちはいかつくて、目つきは鋭い。豊かな銀髪をきれいに五部分けにして、真っ白な頬ひげを蓄えていた。亜矢は辰見を初めて見たとき、世界史の教科書に出ていた昔のアメリカの大統領を思い出した。なんという大統領だったか…などと彼女がぼんやり考えているうちに、辰見は店の規則についてひとしきり説明を終えて、
「以上がこの店の決まりだが、ちゃんと守って仕事できるかね」
と言った。亜矢は何も聞いていなかったのだが、つい反射的に返事をした。
「え、あ、はい。まあ」
「よし。じゃあ、明日から頼む」
そう言って、辰見は彼女に店名を刺しゅうした前掛けを手渡した。
店にはもう一人、兎月圭というアルバイトがいた。こちらは蓬莱珈琲店で五年も働いているベテランで、亜矢の通っている大学の工学部の院生で、二十三歳だった。亜矢から見ると、圭は大変な大人に見えた。おまけにきりっとした美男子で、俳優のように太くてうるおいのある声をしていた。亜矢は圭と一緒に仕事ができるのが嬉しかった。
圭は真面目な男で、仕事の仕方や時間の管理に厳しかった。そのため、ぼんやりの亜矢はしょっちゅう圭に怒られた。
「下げものが遅いぞ」
「テーブルを拭いてない」
「タイムカードの押し忘れだ」
「コーヒー豆の測り方が違う」
「製氷機が空だぞ」
「レジの打ち間違えだ」
「トーストが真っ黒こげだ。こんなもの、お客に出せるか」
…こんな具合で、一日のうち十回は注意が飛んできた。おまけに、こんな場末の小さな店なのに、客はひっきりなしにやってきて、目の回るほど忙しい。亜矢は喫茶店の仕事が思った以上に過酷なので驚いたが、「どつかれても音のせん」のが彼女の取り柄である。叱られたそばから、そのことは忘れて、とりあえず目の前にあることに大わらわになっているうちに、日々は過ぎていき、客の少ない時間帯なら一人で店番できるぐらいまで、仕事を覚えることができた。
蓬莱珈琲店には「入り口から見て一番奥のテーブル席に座った客は、よく忘れ物をする」というジンクスがあった。実際、亜矢はこのテーブルを掃除すると客の忘れ物を拾うことが多かった。たいていはまだ中身のあるたばこのカートンや、ボールペンや、名刺などだったが、ときには衣類や、鞄や、書籍や、鍵やスマートフォンなどもあった。圭が五年間溜めたデータによると、忘れ物のある確率は、他の席が平均して一パーセント未満なのに、奥のテーブル席は十パーセントもあるということだった。
オーナーの辰見は、客の忘れ物をロッカールームの金庫に保管し、いつ・どの席で・どういった客が・何を忘れたのかを帳面に詳しくまとめていた。どんなにつまらないものでも、例外はなかった。よほどの貴重品であれば持ち主がすぐに名乗り出るので、忘れ物は金庫から取り出されて、辰見の帳面には「返品」と記載された。しかし、たいていの場合は持ち主は名乗り出ないままで、金庫の中身とリストは増え続けていた。二台ある金庫はすでに満杯に近づいていて、このままでは三台目がロッカールームに登場しそうないきおいだった。
圭が見かねて辰見に意見をしたことがある。
「こう忘れ物を溜め続けちゃ困りますよ。ロッカールームがどんどん狭くなっちまう。保管期限を決めたらどうです」
辰見は鋭い目つきで圭をにらみつけた。この目つきに合うと、さしもの圭も言葉が出なかった。
「忘れ物について、この店のルールを覚えているか」
「…忘れ物の管理はオーナーに一任する。従業員はその処置について意見しない」
「その通りだ」
話はそれきりになった。辰見は従業員の話をよく聞く経営者だったが、自分が決めたルールについては、意見を受け付けない偏屈なところがあった。
辰見の帳面のうち、奥のテーブル席の忘れ物については赤いペンで星印がついていた。亜矢も圭も意味ありげな星印が気になっていたが、辰見に尋ねてもどうせ答えてはくれないだろうと思って、それきりにしていた。
2
亜矢が蓬莱珈琲店に勤めるようになって半年が経った。季節はすでに秋だった。ブドウ畑の収穫は早々と終わり、茶色くなった葉も瞬く間に落ち尽くして、寒々とした空の下に裸の枝が曲がりくねった姿をさらしていた。
ある金曜日のたそがれどきに、亜矢は一人でシフトに入った。この時間は客が少なく、亜矢だけでもなんとか仕事をこなすことができた。辰見はコーヒー豆の買い付けに行き、圭は工学部の研究室に閉じこもって論文を書いていた。
急に客足が途絶えて、亜矢一人きりになった。穴倉のような薄暗い店の中には、亜矢の知らない古い時代のジャズが流れている。亜矢は何もすることがないので、キッチンのワークトップに手をついて音楽に合わせて体をゆすぶりながら、夕べ見たテレビドラマの今後の展開をぼんやりと想像していた。
入り口に取り付けたベルが鳴った。亜矢は反射的にそちらを向いて、
「いらっしゃあい」
と間延びした声をかけた。入ってきたのは若い男だった。短く刈り上げた髪を茶髪に染めていて、顔は不精髭に覆われている。スウェットの上に汚れたジャンパーを羽織って、カーゴパンツを履いている。たぶん配達ドライバーが休憩のために立ち寄ったのだろうと亜矢は思った。
男は妙にせかせかした様子で店を見渡し、亜矢の案内を待たずにまっすぐ一番奥のテーブル席に腰を下ろした。亜矢はお冷を持っていった。
「いらっしゃい」
男は貧乏ゆすりをしながら、怒鳴りつけるように言った。
「メニューがないぞ」
「あ、ごめんなさい」
亜矢がメニューを持っていくと、男はそれをひったくるようにしてテーブルの上に広げると、両手をジャンパーのポケットに突っ込んだ格好で、やはり貧乏ゆすりをしていた。亜矢はキッチンに戻って、何気なくに男の様子を見続けていた。すると男は険しい目つきで亜矢をにらみ返した。
「何じろじろ見てるんだ」
「いいえ、別に、じろじろだなんて」
「いいから注文だ。早く来い」
亜矢は男の横柄な態度にむっとしたが、仕事だと思い直して無理に作り笑いをすると、伝票を取って男のそばに立った。男はサンドイッチとコーヒーを注文した。
亜矢はキッチンに戻った。男にまた文句を言われたくなかったので、奥のテーブル席のほうは見ないようにした。それでも、キッチンには客に分からない位置に鏡が据え付けてあるので、男の様子をうかがうことができた。男はジャンパーのポケットに手を突っ込んだまま、何かを思いつめているように空間の一点をじっと見つめていた。男の表情がやけに険しいので、亜矢は少し気味が悪くなった。
亜矢は注文を持っていった。男はサンドイッチの端を前歯で少しだけかみちぎり、コーヒーを一口すすった。亜矢は棚を整理する振りをしながら、鏡を見ては男に注意を払っていた。
入り口のベルが鳴り、客がもうひとり来て、カウンタに座った。ゆったりした背広を着た中年の男で、亜矢には一目でタクシーの運転手らしいことが分かった。
「いらっしゃいませ」
別の客が来たので救われたような気持で、亜矢はすぐにメニューとお冷を出した。亜矢が新しい客の注文を取っているあいだに、最前の客は席を立って、入り口側にあるレジスタの前に移っていた。男は亜矢が他の客の相手をしているのにもかかわらず、大声で怒鳴った。
「おい。会計だ。早くしろ」
亜矢はさすがに腹を立てた。男に負けない大声で、
「はあい、ただいま!」
とやり返すと、レジスタを乱暴に叩いて、
「千二百円です!」
とぶっきらぼうに言ってキャッシュトレイを男の前に突き出した。男は相変わらず険しい目つきで亜矢の顔をにらみつけながら、ポケットから現金をつかみだしてトレイに置いて、店を出ていった。
「ありがとうございました!」
もう二度と来るな、という気持ちで亜矢は男の背中に怒鳴りつけた。奥のテーブルを見ると、男はサンドイッチにもコーヒーにも、ほとんど手を付けていなかった。
新しい客にコーヒーを出してから、亜矢は奥のテーブル席を片づけた。すると、男の座っていた椅子の上に、白いリボンで結わえた小さな紙の小箱があった。亜矢は思わず舌打ちをした。またしても、奥の席の忘れ物だ。しかも、よりにもよって、あんな嫌な奴の忘れ物だなんて。
紙の箱は亜矢の手のひらにすっぽり収まる大きさだった。リボンは一度ほどいたものを結び直したらしく、形が崩れていた。
カウンタの客が出ていくと、また客足が途絶えた。入り口の上にある窓を満たしていた夕日もいつしか消えて、真っ黒な夜が替わりに貼りついていた。
亜矢は時間が経つのがひどく遅い気がした。退屈を紛らわせるものを探そうと思って、亜矢はふと、カウンタの内側に置いたままの紙の小箱に目を落とした。よく見ると、地味だが上質な紙で作ってある。軽く振ってみると、かなりの質量があるものが入っているらしい。亜矢は興味を覚えて、リボンを解いてみた。
箱の中には緩衝材が詰められていて、その中に白金の指輪が埋まっていた。サイズからして明らかに女物だった。実に凝った作りで、絡み合う蔦を模したような複雑な曲線に、小さなダイヤモンドがいくつも埋め込まれていた。この意匠のために、指輪をほんの少し傾けるだけで、色とりどりの光があふれだしてきた。亜矢は指輪の美しさに見とれた。一級の品物であることは一目瞭然だった。
どうして、あんな男が、こんなものを持っていたのか…。
亜矢はそんなことを考えながら、指輪を照明の下に持って行ってしげしげと見つめた。それから、ちょっとだけ、という気持ちで、右の薬指にはめてみた。ところが、指輪は亜矢の厚ぼったい指にはサイズが小さすぎて、抜けなくなった。慌てた亜矢が指輪を抜こうとして四苦八苦しているときに、入り口が開いてベルが鳴った。
「いらっしゃ…」
言いかけて亜矢は息を飲んだ。コーヒー豆が詰まったジュートの袋を抱えているのは、オーナーの辰見だった。
客の忘れ物で遊んでいる所を見られて、亜矢が辰見から大目玉をもらったことは言うまでもない。指輪は結局、サラダ油をまぶして何とか抜き取った。
辰見は指輪をきれいに洗浄してから、箱の中にしまい、丁寧にリボンをかけた。それから亜矢に忘れ物をした客のことを尋ねて、帳面に細かく記載し、赤いペンで星印をつけた。そして箱を手に取ると、腰に下げている金庫の鍵を取り出し、キッチンからつながっているロッカールームに行きかけたが、何か思い直したように引き返してきて、レジスタの引き出しを開いて、奥に箱をしまった。
客の忘れ物をそんなところにしまうのは常にないことなので、亜矢はおそるおそる辰見に尋ねた。
「あの…いいんですか。それ。そこに入れといて」
「近いうちに取りに来るような気がする。これはここでいい」
亜矢はまたあの男が、あの態度で店に来るのかと思って、うんざりしたが、指輪のことは、この日はこれで済んだ。
3
その翌日、圭から亜矢に電話があった。この日の遅番は圭のシフトだったのだが、どうしても外せない急用ができてしまって、二十二時から二十四時の間だけシフトを入れてくれないかというのだった。
「一つ貸しですよ」
「すまん。今度めしをおごるよ」
それで亜矢は遅番に一人で入ることになった。
土曜日の夜だから平日ほどの忙しさはないだろうと、亜矢は高をくくったのだが、なかなかどうして、かなりの客入りがあり、息つくひまもなかった。注文は遅れるし、洗い物は溜まるし、レジスタには列ができている。亜矢は出来る限りの努力をしたつもりだが、それでも仕事がまったくこなせていないような気がして、心の中ではべそをかいていた。
二十四時近くになって、客がいちどきに一人もいなくなった。亜矢は疲れ果てて、機械的にカウンタを拭きながら、これほど忙しい日に仕事を押っ付けられたんだから、圭には食事をうんとおごってもらおうと考えていた。
清掃と洗い物をすませると、お定まりの退屈な時間が戻ってきた。亜矢はカウンタの中をぶらぶら歩きまわったり、壁の腰板にできた大きなひび割れを見つめたりしながら、とめどもない空想にふけっていたが、ふと思い直したように、レジスタの引き出しを開けた。引き出しの奥には、昨日の指輪が入っていた。亜矢は美しい指輪を、もう一度じっくり見てみたかったのである。
亜矢は指輪を指でつまんで、照明がよく当たる位置でじっくりと回転させてみた。どの角度から見ても生きた蔦のような形はおもしろく、小粒なダイヤモンドは回転に合わせてリズミカルに光を放った。じっと見つめているうちに、曲線と七色の光が複雑に干渉しあって、奥行きのある神秘的な風景を作り出していく。こんなに小さな指輪なのに、まるで宇宙の美しいものすべてがここに集まっているようだった。亜矢は思わずため息をついた。
こんな指輪、どこに行けば手に入るんだろう…。
亜矢がぼんやりとそんなことを考えたとき、入り口が開いてベルがなった。亜矢はどきりとして、思わず体を固くした。辰見ではないかという気がしたからだった。
入ってきたのは、深夜には珍しい若い女の客だった。小さな革製のハンドバッグを持っていて、白い清潔なワンピースに手編みらしいカーディガンを羽織っている。長い髪を赤いヘアピンでとめていて、卵型の顔に整った目鼻があった。亜矢はきれいな人だと思った。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
「ありがとう。カウンタでいいかしら」
亜矢がうなずくと、女は静かな足取りでカウンタの中央に座り、濃い目のブレンドを注文した。
亜矢がサイフォンを操作しているのを、女は黙ってじっと見ていた。背筋を伸ばしてリラックスしていて、どことなく品がいい。くすんだ色の服を着た男たちばかりを相手にしている亜矢は、普段と違う客筋の相手ができるのがうれしかった。
コーヒーができた。
「ありがとう」
女はスプーンに少しだけ白い砂糖をすくい、コーヒーに入れてゆっくりとかきまわした。眼は亜矢を見ていた。
「ねえ、さっき、指輪を見ていたわね」
「ええ。えっと、はい」
「変わった指輪ね」
「えっと、その、わたしのじゃないんです。お客さんの忘れ物で、それでその、ちょっと点検をしていて」
亜矢がどぎまぎと返事をすると、女はにっこりと笑って、
「よければ見せてくれないかしら」
亜矢は女に指輪を渡した。女は指輪を目元に近づけて注意深く調べながら言った。
「これは一点ものね。かなり高価なものよ。持っていた人は、きっと大切にしていたに違いないわ」
「そんな大切なものを、こんなところに忘れていくでしょうか」
「きっと、ほかの大変なことに心を奪われていたのね」
女はそう言って、亜矢に指輪を返そうとした。亜矢は女が差し伸べた指先を見た。華奢でしなやかな指先だった。亜矢は指輪を受け取ってから、ふと思いついた。
「お客さんなら、きっと似合うでしょうね。はめてみませんか」
「え」
女は驚いたようだったが、またにっこりと笑い、左手を亜矢に差し伸べた。亜矢は指輪と女の指を見比べてから、女の手を取り、薬指に指輪をはめた。サイズはぴったりで、女の白い肌と指輪のなまめかしいデザインはよく調和した。
「よく似合ってますよ。いいなあ。わたしなんて、指が短くて不格好だから、とても似合わなくて」
亜矢は心底羨ましくてそう言った。女は嬉しそうに手のひらを何度もひっくり返して、指輪の輝きを確かめていたが、やがてふと悲しそうな表情になった。まるで、大事なものを失ってしまったかのような、慰めようもない辛そうな表情だった。亜矢は女の突然の変化を見てどきりとしたが、女はすぐに元通りの穏やかな笑顔に戻り、指輪を亜矢に返した。
「この指輪は、持ち主にちゃんと返してあげてね」
「ええ。高価なものらしいですから、きっと取りに来ますよ」
「わたしは、待っていても、取りに来ない気がするの」
「どうしてですか」
女は答えなかった。代わりに、亜矢にこんなことを教えてくれた。
「その指輪の側面に、波を打ったような独特の模様が彫ってあるわ。一点ものの模様には職人ごとに違った特徴があるものなの。それを手がかりにすれば、作り手と作らせた人が分かるかも知れない」
亜矢は女に言われて、指輪の側面に目を凝らした。確かに波のような模様があって、それが陰影を複雑にする効果を出していた。
「ね、その指輪、必ず持ち主に返してあげてね」
亜矢はシリアルナンバーを見つめながら答えた。
「はい…必ず」
亜矢が目を上げると、女の姿はなかった。まるで、初めから誰もいなかったかのように、コーヒーだけが湯気を立てていた。
「お客さん?」
亜矢は店内やトイレを点検したが、やはり誰もいなかった。出入口を通ったのなら、ベルの音がしたはずだ。この店には通り抜けができるバックヤードもないし…。
亜矢はコーヒーを調べてみた。カップに口をつけた様子もなく、砂糖を混ぜたはずのスプーンは濡れていなかった。そういえば、あの女の人が歩くとき、まったく足音が聞こえなかったような…そう考えたとき、亜矢は背筋に寒いものを感じた。一刻も早く圭に来てもらいたかった。
二日の休みを経て、亜矢が朝六時からの早番に出勤すると、カウンタには前掛けをした辰見と圭がいた。辰見は休みのはずの日である。亜矢はシフト表を間違えたかと思って戸惑ったが、辰見は亜矢をカウンタに座らせて、コーヒーとトーストを出しながらこう言った。
「土曜日の遅番は、お前が入ったそうだな」
「はい」
「お前はあの指輪を女の客に見せたそうだな」
亜矢は土曜日の出来事を思い出して、ふたたび寒気を感じた。この二日間、あれのせいで寝覚めが悪かった。それでも正直者の彼女は業務日誌に一部始終を記しておいたのである。亜矢は神妙な顔をして辰見にうなずいた。
「その時のことを、もう一度詳しく教えてくれ」
亜矢は辰見に、覚えている限りのことを物語った。辰見はキッチンの中で立ち働きながら、亜矢の話に二つか三つの質問を差しはさんだ。女の年齢、服装、声の様子、何か匂いがしなかったかなど、亜矢にしてみればどうでもいいような質問ばかりだったが、辰見の態度は真剣だった。
話が終わると辰見はレジを開いて、指輪の箱を亜矢に渡した。
「今週は有休を取れ。その間に、この指輪を持ち主に返してこい」
「え、どうしてわたしが」
「お前はその客に必ず返すと約束した。いいか。この約束は守れ。圭にも手伝わせる。こういうことになったのは、不慣れなお前に土曜の夜を任せたせいだ」
「こういうことって、どういうことですか」
辰見は例の鋭い目つきで、亜矢の顔をじっと見た。それ以上のせんさくをするなという意味だと、亜矢には分かった。亜矢は黙って、辰見から指輪の入った箱を受け取った。箱の重さをてのひらに感じたとき、亜矢はこの指輪と、あの消え去った女と、辰見の態度には神秘的なつながりがあるような気がしてきた。亜矢はその日から、辰見の言う通りに有休を取ることにした。
その日の午後に亜矢は教育学部のキャンパスで圭と落ち合った。圭のいる工学部のキャンパスはかなり遠くにあったが、圭は講義が終わってからわざわざ亜矢を訪ねてきた。
二人は学食のテラス席に座った。そこは学内の遊歩道沿いで、色づき始めた銀杏並木が午後の穏やかな光の中で、黄と緑のコントラストを美しく見せていた。遊歩道を行き交う学生たちは、美男の圭に目を停めて、それから子どもみたいな亜矢を見た。教育学部には女子が多い。圭と一緒にいればきっと噂になるだろうと考えて、亜矢はなんとなく心浮き立つ気持ちだった。
しかし、圭はやけに深刻そうな顔つきをしていた。亜矢は圭になぜわざわざ学部の違うキャンパスまで来たのかを尋ねた。
「辰見さんが言っただろ。指輪を返すのを手伝えって」
「ええ。まあ」
「土曜日の真夜中は、不慣れなバイト一人にさせない決まりなんだ。ときどき妙な客が来ちまうから。おれも、今度のことでは気が咎めるんだ」
「妙な客って、どういう…」
「それは、あんまり詳しく聞くな。とにかく、指輪を早く持ち主に返すんだ」
「でも、手がかりがないのに、どうやって」
「手がかりは指輪そのものだ。手作りの一点ものなら、作者の特徴が細工の仕方に現れているだろう。それを徹底的に人に尋ねていって、誰が作ったのかを突き止めるんだ」
圭はそう言って、鞄から分厚い紙の束を取り出した。そこには人名と連絡先の一覧が細かな文字でびっしりと印刷してあった。亜矢がぽかんとしていると、圭はさらに説明をつづけた。
「これは北原の周辺でオーダーメイドの白金細工をしている職人のリストだ。全員に指輪の写真を添付したメールを送ってある。これから二人で片っ端から電話をしていって、指輪に見覚えがあるかを尋ねていくんだ」
「わざわざ電話するんですか」
「メールをしても、面倒がって返信をしないやつもいる。電話で追いかけたほうがいい。電話をするときには、ここに書いてあることを伝えるのを忘れるな」
圭はそう言うと、亜矢にさらにもう一枚の用紙を手渡した。そこには指輪の特徴と、指輪を忘れていった男の特徴が、事細かに書いてあった。亜矢はまさかここでこんな仕事がはじまるとは思いもよらなかったから、目を丸くしながら圭に尋ねた。
「本当に、一人ひとり電話するんですか」
亜矢がそう言ったときには、圭はすでに一人目に電話を始めていた。
日が暮れるころには、リスト先への電話は一通り終わり、五人の職人が自分の作品かもしれないと名乗り出たが、いずれの職人も実物を見ないことには確信は持てないと言った。圭はそれぞれの職人に来訪の約束を取り付けて、亜矢にその住所を控えさせた。亜矢はどぎまぎして、これからどうするのかを圭に尋ねた。
「明日からお前が一人ひとり指輪を見せにいくんだ」
「えッ…五人もですか。圭さんは手伝ってくれないんですか」
「シフトとゼミがある。おれはしばらく北原を離れられない。それに、これはどうしても亜矢でなけりゃいけないって、辰見さんが言うんだ。すまないけど、訪問は亜矢ががんばってくれ。おれのほうでも、電話をするのと、SNSで情報を集めるのはやっておくから」
亜矢は改めて五人の職人の住所を確かめた。北は前橋から、南は鎌倉まである。関東平野を縦断する行程だ。亜矢はとんだことになったと思った。
翌日から亜矢は辰見に与えられた有休を使って、白金細工の職人たちを訪ね歩いた。近郊もあれば遠方もあった。亜矢が会った職人たちは、指輪を手に取って調べると、誰もが自分の作品ではないと言い、ひょっとしたらあの人の作品かもしれないと言って、別の職人の連絡先を亜矢に教えた。亜矢は新しく知った職人たちにメールを送り、電話をし、指輪を携えて実際に訪問した。すると、誰もが自分のものではないと言い、別の職人を紹介するのだった。
候補者のリストは次々に入れ替わり、三日間で亜矢が出会った職人は十二人になった。亜矢はほとほとうんざりした。見知らぬ街で足を棒にして職人の居所を捜す手間にも閉口したし、交通費もばかにならなかった。
捜索の四日目。指輪は間違いなく自分のものだと言ってきた職人を、亜矢ははるばる西伊豆まで訪ねていったのだが、結局違っていたことが分かり、すっかりしょげて北原駅まで帰ってきた。
亜矢は駅からブドウ畑まで、刈り取りの終わった田んぼのあぜ道をとぼとぼと歩いていった。青黒い闇の中でカジカが弱弱しく鳴き、残照が遠くの山の端を物憂げなあかがね色に染めていた。風は刺すように冷たかった。亜矢は疲れ果てていて、足取りは重たかった。どうしてわたしがこんな苦労をしなけりゃならないのか、という恨みがましい気持ちでいっぱいだった。同時に、指輪を亜矢に託したあの女の辛そうな顔が、目の前に執拗にちらついて、消えようとしなかった。
蓬莱珈琲店はそこそこの客入りで、シフトには圭が入っていた。圭は亜矢が入ってくるのを見ると、黙ってカウンタの一番奥に座るよう促し、コーヒーを淹れて、亜矢が好きなたらこスパゲティを出した。亜矢は食欲がなかったが、圭に勧められてスパゲティを口にすると、自分がどれほど空腹で、暖かいものを求めていたかを思い知った。亜矢は無心でスパゲティを食べた。そうしていると、何となく涙ぐんでききて、たらこと鼻水で口の中がしょっぱくなった。圭が声をかけた。
「どうだった」
亜矢は黙って首を振った。圭も気落ちした様子だった。
「すまないな。お前に任せちゃって。いつもなら、この手のことはおれがやるんだけど、オーナーがどうしてもお前じゃないといけないっていうから」
「なんだか、見つからないような気がしてきちゃった」
亜矢は肩をすぼめてオジギソウのような格好でカウンタの上にうなだれた。すると圭はカウンタから両手を伸ばして、亜矢の肩をやさしくつかんだ。大きくて分厚い手だった。亜矢ははっとして顔を上げた。目の前に圭の真剣な顔があった。
「そんなことないよ。きっと見つかる。明日はおれも非番だ。もう一度手分けして探そう」
圭に見つめられて、亜矢は顔が熱くなるのを感じながら、こくりこくりとうなずいた。
翌日から亜矢と圭は手分けをして職人を訪ね歩いた。圭はさすがに要領がよく、職人を訪ね歩く順番と交通手段をあらかじめ綿密に決めて置いて、訪問する前に電話で要件を伝えておくのを忘れなかった。亜矢一人では一日に二人が限度だったのが、一日で六人を訪ねることができた。そのおかげで、ふたたび本命とおぼしき職人が見つかった。その職人は連絡先を公開していない、知る人ぞ知る名人ということだった。
その職人の工房は渋谷のはずれにあった。坂の曲がりくねった路地の奥に山茶花の垣を巡らせた小さな平屋建てがあり、誰がどう見てもふつうの民家だが、馬場とある表札の下には「白金細工」という札が下がっていた。
この日、圭は時間が合わなかったので、亜矢が一人で訪ねた。入り口の引き戸を開けると、コンクリートで固めた土間に背の低い棚がこちゃこちゃと置いてあって、その上に商品が並べられていた。いずれも複雑な意匠を凝らした見事なものばかりだった。奥にはカウンタがあり、その向こう側で店主と思しき髪の抜けあがった老人が、キズミルーペを使って腕輪の加工をしていた。老人は亜矢が入って来ても声をかけるでもなく、自分の仕事に没頭していた。そのせいで亜矢は声をかけるのが何となくためらわれた。
しかし、いつまでも入り口に突っ立っているわけにはいかないから、亜矢は意を決して老人に声をかけて、要件を告げた。老人は仏頂面で亜矢の顔をじろりと見て、指輪を見せるようにと言った。亜矢は指輪を箱から取り出して老人の手の上に乗せた。そのとき、老人はまるで感電したかのように全身をぴりりと震わせた。禿げた頭から汗の球がじわりと浮き出して、鼻の上を伝っていった。亜矢には老人の様子がなぜ急に変わったのかが分からなかった。
老人はキズミルーペを使って細工を確かめると、まるで毒虫を捨てるように、亜矢の持っている箱に指輪を戻した。
「そいつは、たしかにうちの品だ」
「本当ですか」
「自慢じゃないが、この曲げ加工ができるのは、日本じゃおれくらいのもんだ。それに、波の模様がはじまるところに、流れ星のシンボルが彫ってあるだろう。間違いなくおれの仕事だ」
老人の答えを聞いたとき、亜矢は頭の中が急に晴れ渡っていくように感じた。亜矢は弾む声で、息せききって尋ねた。
「それって、男の人の注文でしたか。からだのおっきい、顔のいかつい、声のでっかい人」
「そうだ。間違いない。注文履歴は控えてある」
「それなら、ご面倒でしょうけど、その人に、これを送り返してあげてくれませんか」
老人は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「あんたの店に忘れたってことは、いらないってことじゃないのか。おれは知らないよ。持って帰ってくれ。そいつに触ったとたん、なんだか気分が悪くなっちまった。今日はもう店じまいだ」
馬場は亜矢を追い払うように手を振った。亜矢はこの邪険な態度にむっとして、カウンタに身を乗り出すと、馬場の胸元に指輪の入った箱を押し付けた。
「お願いですから、とにかく送り返してください。郵送の費用はこちらで負担しますから」
亜矢としては、不毛な探索の旅に何としてもここで終止符を打ちたかった。馬場老人は亜矢の強引な態度にたじろいで、しぶしぶという様子で指輪の入った箱を受け取った。
店を出ると亜矢は文字通り肩の荷を下ろしたような、軽やかで爽快な気分になった。坂道を渋谷駅のほうへ下っていきながら、亜矢はさっそく圭に電話で首尾を報告した。
「お疲れ様。これでオーナーにも報告できるな」
圭の声は明るかった。秋空は麗しく晴れて、センター街には人々が賑やかに繰り出している。亜矢は浮かれた気分になって、雑貨店やカフェを冷やかしてから、その日の遅番に入るために蓬莱珈琲店にやってきた。
ところがシフトに入るや否や、思いもよらない客が来た。不機嫌そうな顔をした馬場老人が現れて、驚いている亜矢の目の前に、指の入っている箱を突き出した。
「あの指輪の持ち主に電話したよ。そしたら、そんな指輪は知らない、おれはいらない、もしも送ってきたら送り返す、喫茶店の誰だか知らないが、持ってきた人にくれてやれって言いやがった。だから、これはおたくに返すよ」
馬場の話を聴いて、亜矢は胃袋の中に冷たく重い石をいきなり放り込まれたように感じた。亜矢の顔色が変わったので、コーヒーカップをぬぐっていた圭も、何かただ事でないことが起こったことを察した。
「そんな…だって、送り返すって、引き受けてくれたじゃないですか」
馬場老人は荒い息を吐きだしながら首を振った。
「おれはこの指輪に関わるのはごめんだ。おれは昔の仕事を振り返りたくない。それに、こいつはどうも気味が悪い。まるで意志を持っておれに付きまとっているみたいだ。とにかく、これはもうあんたのものだ」
亜矢は茫然として馬場老人の話を聴いていたが、急に頭にかあっと血が上ってくるのを感じた。さんざん苦労してこの嫌な老人を探し出して、指輪を送り届けてやったのに、拒むなんて、あの男は底意地が悪いにもほどがある。こうなったら、あいつに直接指輪を持って行って押し付けて、大いに文句を言ってやる!
亜矢は普段はぼんやりだが、逆上するとてこでも動かない強情な一面を発揮する。亜矢は反射的に馬場に言った。
「持ち主の名前と住所と電話番号を教えてください」
「どうすんの」
「わたしが直接持っていきます」
「しかし、客の個人情報だからね。関係ない人に教えるのは、商売の上では…」
亜矢は目をむいて馬場に食って掛かった。
「こっちは関係大ありなんです。教えてください」
馬場は亜矢の剣幕に驚いて息を飲んだ。傲慢な態度のわりに、気の小さい男のようだった。馬場はまるで詫びるような調子で、
「そんなら、そちらさんで話をつけてくれよ」
そう言って、方桐秀一という名前と連絡先を教えてくれた。亜矢は方桐に電話をしてもどうせ同じやり取りの繰り返しになると思い、翌日無断で住所に押し掛けることにした。
4
亜矢は方桐を訪ねてうら寂しい山沿いの町にやってきた。町はずれに大企業のプラントがあるほかには目立つものは何もなく、町中は閑散としていて、売地の札が立った空地とがやたらと多かった。
方桐の住まいはさび付いたような古いアパートの二階にあった。亜矢は方桐の部屋の呼び鈴を鳴らしたが、応答はなかった。亜矢はこぶしでドアをたたき、方桐の名を呼んだ。すると、隣の部屋のドアが開き、太った中年の女が顔を出した。
「うるさいね。方桐さんは仕事だよ」
「仕事ですか。あの人の職場、どこですか」
「あんた、なんなの」
「えっと…妹です。田舎から訪ねてきました」
「お兄さんの職場も知らないの」
亜矢は口ごもった。変な嘘をつかなければよかったと後悔したが、女は亜矢を年端のいかない子どもだと思ったらしく、急に態度がやさしくなって、
「お兄さんはね、この道沿いに行った中古車屋で働いているよ」
と教えてくれた。亜矢は礼を言って、アパートを去った。
中古車ディーラーはかなり広く、方桐は敷地内の整備工場で働いていた。工場はリフトが三台あり、作業服の男たちが忙しく立ち働いていた。ガソリンのにおいがする空間に、金属同士が触れ合う鋭い音が絶えず響き渡っていた。男たちは黙々と働きながら、作業着の袖で額の汗をぬぐっていた。
亜矢はガレージの入り口に近づくと、目を凝らして方桐を探し出そうとしたが、みんな同じ格好をして、帽子を目深にかぶっているので見分けがつかなかった。亜矢は面倒になり、口の前で両手をラッパの形にして怒鳴った。
「すみませえん。方桐秀一さんいませんか」
亜矢の声がガレージの天井まで響き渡った。作業員たちは驚いて一斉に亜矢のほうを向いた。亜矢はその中に方桐の顔を認めると、真っすぐに近寄っていった。方桐はリフトしたセダンのそばでレンチを握ったまま、思いがけない訪問者を唖然とした表情で見つめていたが、そばの同僚に二言三言告げて、ガレージを出てくると、亜矢に目配せして、工場の裏手に回った。亜矢もその後を着いていった。
工場の裏手は空地になっていた。一面のススキの穂が曇り空の弱い光を浴びて銀色に光っていた。一斗缶を加工して作った灰皿のスタンドがあり、そのそばに椅子代わりの伏せた木箱があった。他に人の姿はなかった。方桐は灰皿の前まで来ると亜矢に振り返り、慳貪でありながらどこか怯えたような口調で言った。
「何しに来たんだ」
「わかってるじゃありませんか」
亜矢は指輪を取り出した。
「これをお返ししにきました。受け取ってください」
「おれはもう、それはいらない。あんたに譲る。自分のものにするなり、売るなり、捨てるなり、好きにしてくれ」
「わたしはこの指輪をもらうつもりはありません。売ったり捨てたりするなら、持ち主の方桐さんがやってください」
「何だってそう、聞き分けがないんだ」
「聞き分けがないのはそっちじゃありませんか。さあ」
亜矢は指輪の箱を方桐の前に突き出したが、方桐も強情にポケットに手を突っ込んで、黙りこくったまま、受け取ろうとしなかった。その表情は妙に苦しそうだった。亜矢は方桐にこれまでの苦労を話して聞かせた。さらに、その端緒が不思議な女の訪問にあることを話した。
「その女の人に、必ず指輪を返すようにって、言われたんです。知らない女の人だけど、約束したから。だから、受け取ってくれないとわたしが困るんです」
亜矢の話を聞き終わると、方桐の顔からは血の気が引いて、死人のように白くなっていた。亜矢が差し出した箱を見やる目は瞳孔が開いていた。亜矢は方桐の心臓が止まってしまったのではないかと思い、自分もまた恐怖にかられた。
ぜんそくで苦しむ人のように、か細い声が方桐の喉から出た。
「追いかけてきたんだ…愛理が」
「え。何ですか」
「その女、どんな格好をしていた」
「えっと…白いワンピースと、赤い髪留めをしていて、小さなハンドバッグを持っていて。きれいな人でした」
「カーディガンを羽織っていたか」
「はい」
「その女は死んでるよ。あんたは死人に会ったんだ」
「エッ……」
亜矢は全身の神経が凍り付いたように感じた。
方桐は船酔いに罹ったようによろめいて、前にのめって倒れそうになったので、亜矢はとっさに方桐の体を支えた。分厚い作業着の上からでも、全身に冷たい汗をかいていることが分かった。亜矢は方桐を木箱に座らせて、ハンカチで額の汗をぬぐってやった。
「大丈夫ですか。人を呼んできますか」
方桐は首を振り、亜矢の顔を見た。その眼付は弱弱しかったが、亜矢に対する邪険な敵意は消えていた。亜矢は今なら方桐から真相を聞き出せそうだと直覚した。
「方桐さん。どうして指輪をうちの店に置いていったんですか。わざとやったんでしょ」
「それは…長い話になるよ」
亜矢は黙ってうなずいて、方桐の隣に座った。方桐は話し始めた。
…どこから話し始めればいいのか、正直よく分からない。だから、思いつくままに話すよ。最初に長い話だと断っておいたから、しばらく辛抱して聞いてほしい。
おれは…おれのこれまでの人生は、あんまりいい人生じゃなくってね。生まれた家は貧乏で、親父はしょっちゅう家を空けてギャンブルに入れあげていたし、おふくろも素行が悪くて、他所に男を作って家に居着かなかった。おれは家にいられなくて、夜通し街を歩き回ってばかりいた。
中学の担任が、このままでいたらよくない、きちんと勉強しなさいって、励ましてくれて、勉強に少しだけ身を入れたこともあったんだけどね。でも、おれの親は大学に行く金を出してくれなかった。おれの将来のことなんて、あいつらにとってはどうでもよかったんだ。おれはあいつらにとって、望まずに生まれた厄介な子供でしかなかった。だから、おれはさっさと家を出たんだ。
高専を出て最初に勤めたのは、引っ越しと運送をやってる会社だった。ひどい会社でね。仕事はきついのに残業代はほとんどでないし、大卒の社員は高卒の社員を差別してあごでこき使うんだ。高卒だと昇進もほとんどできなくて、せいぜいが現場の班長どまりだった。半年で跳び出したよ。
それ以来、おれはいくつかの勤め先を転々とした。あんたみたいな喫茶店の仕事もやったんだよ。でも、どこも長続きしなかった。どこにいても、周りの人間がおれのことをさげすんでいるような気がしてならなかったんだ。おれはずっと、居場所を追われ続ける野良犬みたいな気持ちだった。おれはそのせいで、誰に対しても反抗的な態度ばかり取っていた。だからどこに行っても嫌われ者だった。
おれはふるさとからも逃げ出した。何をしてもうまくいかない気がしていたし、親父とおふくろが、おれの稼ぎを宛てにしてたかってきたからね。あのままでいたら、おれは自分の親をどうかしていたかもしれない。それくらい、おれはすさんでいた。
ふるさとから出て、埼玉にやってきて、しばらくの間はいくつかのアルバイトを掛け持ちして食いつないでいた。その中の一つに、ある会社の社食のバイトがあってね。調理の下ごしらえの手伝いとか、会計とか、掃除をするバイトだ。この社食のバイトが転機だったな。給料は安かったけど、きれいな新しい社食で、同僚も親切で、気持ちが良くてね。それに、売れ残りがまかないで安く食べられる。おれは大食らいだから、人の倍食べて、食べきれなかったのは持って帰って晩飯にしていたよ。
同じバイト先に、愛理がいたんだ。初めて会ったときは、そんなに美人だと思わなかった。化粧っ気がなくて、髪はヘアゴムで止めているだけで、いつもだぶだぶのトレーナーを着て、その上にスタッフ用のエプロンをして、マスクまで着けて、ずっと洗い場でうつむいて仕事しているんだから。なんだか年寄りくさい陰気な女だと思っていた。
最初、おれは愛理と喧嘩をした。その日は社食でも一番人気のジャンボとんかつが出る日でね。おれは売れ残りをどうしても食べたくて、キッチンの後片付けを大急ぎでやった。社員たちがいなくなって、午後三時になってからが、おれたちの賄いの時間だ。社食のカウンタの上に、残ったものがずらりと並んで、めいめい好きなものを取るんだ。ジャンボとんかつはほとんど残っていなくて、おれは最後の一枚を何としても自分のものにするつもりだった。
そしたら、おれが手を伸ばすのより一瞬早く、愛理がそれを横からかすめ取っちまった。おれは怒ったね。
「おい、横取りすんな。ちゃんと並べ」
なんて言ってね。そしたら、愛理は別に悪びれる様子でもなく、とんかつを持って、何も言わないで行っちまった。おれは心底腹を立てて愛理を追いかけていった。
「それは、女が食うには多すぎる。だから、おれにも半分寄こせよ」
そんなことも言った。笑うなよ。まだおれがあんたと同い年ぐらいだったときのことだ。
たいていのやつは、おれが怒るとたじろいだものだ。愛理もおれの剣幕に驚いたようだけど、怖がる様子はなくて、いたずらっぽく笑った。おれはあの日、愛理の笑顔を初めて見た。意外とかわいいんだなと思ったよ。愛理は、とんかつを器用に半分に切り分けて、おれに分けてくれた。愛理は最初から、おれをからかうつもりで、とんかつを取ったんだ。
その時から、おれはなんだか胸にぽっかり穴が開いたようになって、愛理の笑顔が焼き印みたいにおれの頭の中にくっきりと残って、消えなくなった。なんだか分からないけど、無性にうれしいような腹が立つような変な気持ちになって、夜通し愛理のことを考えて、寝られなかった。
おれと愛理は、その後も職場で顔を合わせるたびに、わざと互いに角付き合うようなことをした。パントリーの整理ができていないとか、お湯がないとか、掃除の要領が悪いとか、そんな些細なことで互いをちょっとずつ責め合うんだ。でも、本当は、心の中ではじゃれ合っていた。おれは愛理には腹が立たなかったし、愛理はおれを怖がったり、さげすんだりしなかった。野良犬のつもりで生きてきたおれに、こんなにも気を許せる誰かがいるなんて、信じられないような気持だった。
出会ってから一月後にデートをしたよ。金がなかったから、電車で海まで行って、砂浜を一緒に歩いた。家族連れや釣りをしているじいさんたちがいた。いい天気で、砂も海も同じようにきらきら光っていて、やけにまぶしかったな。カモメの声がやかましくて、干潟には白い小さな蟹がちょこちょこ走っていた。愛理は色々なことを、とめどもなくしゃべっていた。二人でキッチンカーのケバブを食ったな。そんな細かなことを、今でもよく覚えてる。
愛理はおれとよく似た境遇だった。母子家庭で、大学に行けなくて、高卒で仕事についたけど、このままでいいのか悩んでいた。やりたいことが見つからないまま、若い時代が失われて行きそうで、怖くてたまらないと言っていた。おれも愛理と一緒に悩んだ。愛理の悩みをずっとこのままにしちゃいけないと思った。
愛理と付き合うようになって、おれは生まれて初めて、おれの人生はおれだけのものじゃなくて、誰かのためのものでもあるって、考えるようになった。愛理は悩んでる。それなら、おれが愛理を支えてやらなきゃいけない。支えの基準になるのは家庭だ。おれも愛理も家庭では苦労した。それなら、おれたち二人が一緒になれば、悪い家庭になるのを注意深く避けながら、いい家庭を築くことができるはずだ。
愛理は、おれの考えは間違っていると言った。悪い家庭から出てきた人間どうしが結婚しても、うまくいかない。それに、結婚にも子育てにもお金がかかりすぎる。アルバイトで食いつなぐ二人じゃ、どうにもならない。
愛理はおれから離れていこうとした。離れられてなるものかと、おれは思った。金が要るなら、金を作ればいい。だから整備の資格を取るために学校に通ったんだ。もともと、おれは機械が好きだったし、何よりも愛理のためなら、もう一度勉強に打ち込めると思った。そしたら、愛理もコンピュータの勉強を始めた。
おれたちはひと部屋のアパートに一緒に住んで、仕事が終わってから、小さなテーブルに二人分の参考書を広げて、夜通し勉強したよ。働きづめの後だからしんどかったけど、お互いの存在が励みになった。
おれは愛理よりも先に資格を取って、小さな会社に勤め口をもらった。愛理はそれを喜んでくれた。おれはいよいよ、新しい家を作る準備ができたと思った。
おれは、愛理が離れていかないようにするために、はっきりした婚約をしたかった。じゃれ合いや、口約束や、言い訳はたくさんだった。おれと愛理のためだけの、他にはない約束の形が欲しかった。
だから、おれはあの指輪を作ったんだよ。あの指輪は、愛理の手だけに合うように作ったものなんだ。あの指輪で、おれのわずかな貯金はぜんぶ吹っ飛んだ。でも、それがどうした。指輪の値打ちなんて、愛理の値打ちに比べたら、物の数じゃない。愛理は一生涯の伴侶だ。おれの宝だ。そう思っていた。
指輪ができた日、おれは職人の工房まで行って、指輪を受け取ったよ。満足のいく出来だった。おれは嬉しくて、すぐに電車に飛び乗って、愛理の家に向かった…。
方桐はここまで話すと、口をつぐんだ。顔は最前よりもさらに白く、青ざめた唇をかたく引き結んで、脂汗がぐっしょりと髪を濡らしていた。まるで嘔吐をこらえているように見えた。亜矢は方桐の背中をさすった。方桐は少し落ち着いたように見えた。しかしとうとうこらえかねた様子で、だしぬけに立ち上がり、腹部を抑えながら吠えるような声でえずいた。黄色い胃液があぶくを吹きながら、黒い土に吸い込まれていった。
亜矢は方桐の口をハンカチでぬぐってやった。方桐はまるで半病人のように力なく木箱に座り、話をつづけた。
おれが指輪を手に入れた日、おれは愛理に、うまいステーキを作ってくれと頼んだんだ。お祝いの日には、ステーキと赤ワインがふさわしかった。だから愛理はその日、家の近くの商店街で、肉屋に行って、酒屋にも行ったんだ。道幅の狭い、車道と歩道の区別のない、よくあるごみごみした商店街だった。
あの日、商店街の路上でトラックにはねられて、愛理は死んだ。酒屋を出てすぐのところで、愛理は自転車に乗っていて、その後ろでトラックが徐行していた。亜矢の前にベビーカーを押している母親がいて、赤ん坊がベビーカーの中でゴムまりで遊んでいて、そのゴムまりが転げ落ちて、愛理の自転車の前輪の前に転がり出た。
愛理がハンドルを誤ったとき、たまたまトラックの運転手は愛理を追い抜こうとして、アクセルを踏んだところだった。
事故の知らせを聞いて、おれは現場に飛んでいった。見ていた人の証言だと、愛理はトラックにはねられて、三メートルぐらい先の地面にたたきつけられて、トラックのタイヤに顔面をつぶされたそうだ。愛理にはもう顔がなかった。赤い粘土をこねたようなものになってしまっていた。おれは愛理を膝の上に抱き寄せて、泣きながら笑っていたらしい。感情の働きがまったくおかしくなってしまっていたんだ。遠巻きに見ているやじ馬たちの騒ぎも、駆けつけた警察官の話も、おれには全く聞こえなかった。
そのあと、おれは何もかも投げ出してしまった。仕事も、あそびも、飯も、風呂も、眠ることもしなかった。顔のない愛理がいつもおれのすぐそばにいて、何かを言おうとしているんだが、おれには何も聞こえない。おれはどうすればいいか分からなくて、ただ苦しくて、苦しさを忘れるために酒ばかり飲んでいた。酒を飲んでいると夢の中にいるように気分がとろけていくんだ。でも、酒が覚めると、また顔のない愛理がそばにいる。それが嫌だから、おれは酒ばかり飲んでいた。やがて、酒を飲んでいないといてもたってもいられなくなった。まるで、いつも誰かに追いかけまわされているような気分がして、不安で仕方がないんだ。典型的な中毒の症状だった。おれは仕事ができなくなって、せっかく雇ってもらった会社は首になるし、体も壊して、それで半年間の入院さ。
病院のお陰で、どうにか仕事には復帰できるようになった。でも、おれは今でも薬と酒がやめられないんだ。顔のない愛理がおれに付きまとっている。おれは同じことばかり繰り返し繰り返し考えている。どうしてあの日に愛理に買い物を頼んだのか、どうしてあの日に指輪を取りに行ったのか、どうして指輪なんて作ろうとしたのか…。
おれは愛理を殺したのが、おれのような気がしてならない。おれが指輪なんてものにこだわったせいなんだ。おれはもう、顔のない愛理のことを思い出すのも、指輪を手元に置いておくのにも耐えられない。そうかといって、捨てることにも、売ることにも踏ん切りがつかなかった。
だから、おれは遠くの町まで行って、おれの知らない場所に、指輪を置いてきたんだ。二度と訪れないところに置いておけば、遺失物として、誰か別の人のものになるだろうと思った。浅はかなばかげた考えだとは思ったが、それ以外に、指輪から安心して離れられる方法が思いつかなかったんだ。
でも、指輪は追いかけてきた。愛理がきっとおれを恨んでいるからだ。おれはもう、どうすればいいのか、分からない…。
方桐の話を聴いているあいだ、亜矢はずっと、指輪の箱を手に持っていた。方桐の話を聞いて、亜矢は涙をこぼした。方桐にも死んだ愛理にも何の過ちもないのに、不意の暴力とその後の苦痛が続いていることは、理不尽で恐ろしいことだと思った。
しかし、方桐の話を聴くと、亜矢はなおさら指輪をこのままにはしておけなかった。むしろ、指輪を何としても方桐の手元に戻さなければいけないという決意をより堅固にした。
「方桐さん。指輪をうちに置いていって、それで気持ちは楽になったんですか」
方桐は答えなかった。
「愛理さんが方桐さんを恨んでいるなんて、本気で考えているんですか」
方桐のこめかみが痙攣した。方桐の心の中で、矛盾する感情が狂暴に戦っていることが亜矢にも見て取れた。亜矢は指輪を取り出して、寒々しい午後の白い光に当てた。指輪の輝きは弱弱しかったが、それだけ優しく微細な色彩を放っているように見えた。亜矢は方桐の前に片膝をつくと、重ねた両手の上に指輪を載せて差し出した。
「愛理さんがうちのお店に来たとき、わたし、愛理さんにこの指輪をはめてあげたんです。きれいな手にサイズがぴったりで、とてもよく似合っていました。愛理さん、笑っていました。嬉しそうで」
「そんなこと…」
「嘘じゃありません。わたし、絶対に嘘はつかないんです。愛理さんは指輪を受け取って嬉しかったんです。だから、それを方桐さんに伝えたくて、わたしをここまで寄こしたんです。愛理さんは方桐さんといられて幸せで、その幸せを、方桐さんにないがしろにしてほしくなかったんですよ」
方桐は亜矢の言葉を聞いたとたん、まるで雷に打たれたように全身を震わせた。一瞬のうちに方桐の心の中に死んだ愛理との間にあったすべてのことが蘇ったらしかった。しかしそれでも、方桐は自分の心に確信が持てず、指輪を手に取るべきかどうか迷っていた。亜矢はとっさに方桐の手を取り、指輪をてのひらの中央のくぼみに置いた。そしてその手をわが手で包み込むようにして握らせた。
亜矢の手の中で、硬くこわばっていた方桐の手が次第に熱を持ち、柔らかくなっていった。やがて亜矢は方桐の手がしっかりと指輪を握りしめるのを感じ取った。方桐の両目は涙で潤んでいたが、落ち着きとかすかな喜びを取り戻していた。亜矢は手を離して立ち上がると、にっこり笑った。
「忘れ物、たしかにお返ししました」
5
季節は冬になった。蓬莱珈琲店は相変わらずである。忙しいときは目の回るほど忙しいが、ひまなときは耐え難いほどひまである。
亜矢は相変わらず、ひまな午後番や深夜番に一人で入っているときなどは、薄暗く暖かいキッチンでパントリーに手を突きながら、とめどもない空想にふけっている。時折ふと、ベルの音がしないのに入り口の扉を見やることがある。そんなときには、方桐秀一と愛理のことを考えている。
方桐は指輪を受け取ったあと、平和と幸福を取り戻しただろうか。
愛理は、指輪がその後どうなったかを確かめるために、また蓬莱珈琲店を訪れてはくれないだろうか。
しかし、空想は空想のまま、時間と共にゆっくりと過ぎていった。蓬莱珈琲店には、辰見の好きなジャズと、サイフォンのこぽこぽという音が、今日も聞こえている。
(おわり)