2 夫がブチ切れているようです
そう、確かにわたくしには結婚前、護衛騎士を務めていた友人がいた。
しかし浮気だなんて有り得ない。
だって、あの人は──
言い返そう、そう思ったわたくしの肩をヴェルナーがそっと押さえた。
恐る恐る振り返り、ヴェルナーの顔を仰ぎ見る。わたくしはゾッと肝が冷えた気がした。
「……ソルタン殿下。発言をお許し願えますか?」
ヴェルナーの目が据わっている。声も普段とは全く別人のような冷たい声だった。
……ものすごく怒っている。
「ああ、発言を許しましょう。いやあ公爵も大変ですねえ。妻が浮気した挙句、托卵までしてくる淫婦だなんて。その血を引くアンナレーナも似たり寄ったりでしょうからね!」
ヴェルナーが本気で怒っていることに、まだ気付いていないのだろうか。ソルタンはくすくすと笑っている。
アンナレーナですら、父の怒りにブルッと震え、道を開けるように数歩下がった。怯えるアンナレーナをルーカスがそっと支えている。
ヴェルナーはわたくしを庇うように一歩前に出る。
大丈夫だと言うかのように、わたくしの肩に軽く触れてから、ソルタンと対峙した。
「アンナレーナを不義の子とおっしゃいましたが、証拠はあるのですか? 私の髪の色は暗い金髪ですが、私も少年の頃にはアンナレーナと同じ淡い色合いでした。目の色は言うまでもなく、私に似ていますが」
「もちろん! それはアンナレーナの誕生日ですよ。妊娠期間は十月十日と言うではありませんか。一ヶ月は三十日なので十月十日なら三百日と十日のはず。しかしアンナレーナはご両親の結婚式の日から、たった二百と五十日ほどで産まれていますよね? いくらなんでも早すぎると思いませんでしたか? それこそが不義密通をした証拠です!」
「……は? いえ、アンナレーナは早産でしたし、それに……」
わたくしが説明しようと口を開くが、ソルタンは気取った仕草で制してくる。
「ああ、それ以上の言い訳は結構!」
この男はわたくしが何を言おうと信じるつもりはないのだ。
わたくしは惨めな気持ちで唇を噛んだ。
「まだあります。エリアルト公爵、このリザという娘に覚えはありませんか」
ソルタンは、隣にべったりと張り付いているリザを前に押し出した。リザは小動物のように小首を傾げ、歯を見せて笑う。
「君は……確か、ムーロ男爵家のご息女だったね。申し訳ないのだが、私とは特に関わりはなかったと思うが」
「いえ、エリアルト公爵、このリザは貴方の隠し子ですよ。よく見てください! ほら、どことなく面影があるでしょう?」
ソルタンは胸を張ってそう言うが、リザとヴェルナーは髪の色も目の色も、まったく異なるし、顔立ちにも似ているところは見つけられなかった。
「隠し子? まさか、ありえませんな。特に似ているとも思えません。それに私は妻一筋ですよ」
「いーえ、私のこと、お父様は知ってるはずです!」
「だから、君に父と呼ばれる筋合いはないよ」
馴れ馴れしいリザに、ヴェルナーは若干の苛立ちを隠せない。それでもまだ紳士としての態度を保ち、声を荒げはしなかった。
「あん、ごめんなさぁい。でもぉ、だって、私、前にお会いしましたもの。一年前にも学園の卒業パーティーにいらっしゃったでしょう?」
「ああ、ルーカスの卒業パーティーに参加した。それが何か」
リザは目をキラキラさせ、胸の前で手を組み、話し始めた。
「私ぃ、あの時、お手伝いで参加していたのですが、転んでしまったんですぅ……。その時、誰よりも早く私に手を貸してくれて、ドレスの汚れも落としてくださいました。転んだ時にドレスの襟元がちょっぴり裂けてしまったけれど、お父様がドレスに巻くようにとご自分のスカーフを差し出してくださいましたわ。そして『何か困ったことがあったなら、いつでも頼ってくれて構わない』そうおっしゃってくださいましたもの。公爵が見ず知らずの小娘にそんなに親切にしてくれるものかしら。ね、本当は私の本当のお父様なんでしょう?」
呆気に取られ、空いた口が塞がらない。
完全に妄想の類である。
ヴェルナーはアンナレーナと同じ年頃の少女が転び、ドレスを台無しにしてしまったのを見て、ただの優しさから手を差し伸べただけなのだろう。
現にスカーフの話を持ち出され、ようやく思い出した様子だ。
「……ああ、確かにスカーフは渡した。しかしそれだけだ。君の母親のことも知らない。隠し子というのはただの勘違いだよ」
衆目での婚約破棄に、周囲は固唾を呑んで見守っていたが、リザの妄想話が始まったことで失笑が湧き起こっていた。ソルタンの言うことにも、一気に信憑性がなくなったのだ。
「……あの方、少々空想癖があるみたいなんです。いつもああなので……あまり同性の友人もいないみたいですし。殿方にはそういうところが可愛いとおっしゃる方もいるようでしたが」
アンナレーナが眉を寄せて言う。
周囲もそれに同意のようだ。
最初のようなどよめきではなく、哀れなものを見る目や、嘲笑がソルタンとリザに送られている。流れが完全に変わった。
しかし二人はそれには気付いていないのか、機嫌良く笑ったままだ。
彼らには空気を読む能力すらないようである。
ソルタンは芝居がかった動きで両手を広げた。
「ご理解いただけましたか、エリアルト公爵? アンナレーナとの婚約は破棄しますが、ご安心ください。僕は、貴方の本当の娘であるリザと改めて婚約を結びます。これで王家とエリアルト公爵の関係にも問題ないでしょう!」
ソルタンはつかつかとヴェルナーに歩み寄り、肩をポンと叩く。
次の瞬間──
「──ぶへぇっ!」
ソルタンはカエルがひしゃげるような声を出して吹っ飛んだ。
その場には右手の拳を固く握り締めたヴェルナーの姿があった。
「……ふざけるな!」
とうとう我慢の限界になってしまったらしい。
ソルタンは何メートルも吹っ飛び、置かれていたテーブルを薙ぎ倒しながら床に転がる。
「きゃああああっ!」
リザの悲鳴が響き渡った。
──死んでしまったかも。
そう肝が冷えたが、ソルタンはその場でひっくり返った虫のように手足をばたつかせている。
吹っ飛ばされたソルタンの体がかすりでもしたのか、リザはその場で腰を抜かしてガタガタと震えていた。
しばらく後、ソルタンは喚きながら起き上がった。
ヴェルナーは頭に血が上りながらも、一応本気は出していなかったようだ。
彼が本気を出していたら、今頃ソルタンの命はなかっただろう。
愛する夫が王族を殺さずに済んだことにホッと息を吐く。
「お、お前ぇっ! な、何をするっ!」
「……愛しい我が妻ユリアと大切な娘のアンナレーナを、事実無根の戯言で深く傷つけておいて……貴様こそなんのつもりだ」
ヴェルナーはギロリとソルタンを睨む。
その迫力にソルタンはびくりと肩を揺らした。
ソルタンは殴られた頬を腫らし、鼻血まで出ている。唇も切った様子で、みるみるうちにたらこのように腫れ上がった。床に白いものが落ちている。おそらくは歯が折れたのだろう。
「ぼ、僕は王太子だぞ! よくもこの僕を殴ったな! ふ、不敬罪で……」
「それ以上、口を開くなと言っている。王太子だと? だからなんだ。もしや、王族は問答無用で偉く、貴族は何を命じられても必ず従うとでも思っているのか? 私の大切な人を傷つけられて、唯々諾々と従えるはずなかろう!」
そうピシャリと怒鳴りつけた。
ああ、わたくしの夫、格好いい。
若かりし頃、乗っていた馬車が賊に襲われたことがあったけれど、賊どもの汚い手をわたくしに指一本触れさせないと、十人はいた賊をバッタバッタと薙ぎ倒した時のように。
胸がキュンとする。
婚約が決まった時からずっとヴェルナーに嫁ぐことを楽しみに生きていたのだ。浮気なんてもってのほかである。
「まず、貴様の言う十月十日の計算は大間違いだ。あれは十月目の十日、という意味であり、一ヶ月は二十八日として計算していた昔の言葉だ。その計算だと出産予定日は二百六十二日目とされている。アンナレーナは少し早産だったが、誤差の範囲内。なんら問題ない日数だ」
「……へ?」
ソルタンはぽかんと口を開ける。
そうして口を開くと、前歯が一本なくなっているのがよく見えた。
「それから、ユリアが婚前に仲良くしていた元護衛騎士は一人しかいない。確かにアンナレーナによく似た金髪と青い瞳だが、それは当たり前の話だ。その護衛騎士とは、私の妹なのだからな!」
「いも、うと……?」
「そうです! ヴェルナー様の妹君、アーレント伯爵家に嫁いだテレーザ伯爵夫人は婚前に護衛騎士をしていました! わたくしの大切な友人です!」
「叔母と姪の髪や目の色がそっくりで、なんの問題がある!」
まさか、こんなくだらない勘違いだとは思わなかった。
テレーザは女性の護衛騎士で、凛々しく麗しい人だった。学校でも同級生だったし、義理の妹であり、今でも大切な友人である。
彼女は確かに格好いいと令嬢から黄色い悲鳴を浴びていたが、男装をしていたことすらない。
おそらくは護衛騎士という情報だけ聞いて、勝手に男性の騎士を想像してしまったのだろう。