(9)停戦
アレクシス皇子は、ローザの自室の窓にちらりと視線を送った。
(可愛く寝たふりしてるみたいだね。声は聞こえてるようだ…)
「僕には君たちへの敵意なんてないよ。長くなるから、中に入れてもらえると嬉しいんだけど」
「そちらの穴の底でしたら、ご案内いたしますが?」
「ぶれないなあ……君たちの様子から察するに、彼女の前世の記憶については、ある程度把握してるんだろう?」
「……」
「ノーコメントか。いいけど。彼女は、全ての記憶を語ってはいないはずだ。理由は、あまりにもナンセンスで、彼女には理解不能だから。しかもその記憶は、かなりの部分を改竄されてしまっている」
「……」
「たぶんローザは、前世の自分が僕に滅ぼされたと思っていて、君たちにもそう説明したんだろうね。でもそれは違うんだ。彼女は、僕や君たち……彼女が大切に思う全てのものを守るために、自分で自分を滅ぼしてしまったんだ」
「……」
「今世の彼女も、同じことをしてしまう危険がある。だから僕は彼女を帝国に呼び寄せた」
「呼び寄せた、とは?」
「彼女が逃亡先に帝国を選んでくれるように、好条件をたくさん用意したのさ。君たち全員を連れてきても、安心して楽しく暮らせるように、あらゆる根回しを完了させてね」
「ほう…」
「ああ、あの面倒くさい養父母や、彼らが勝手に決めていた、次のろくでもない嫁ぎ先のやもめ男とかも、こっちで全て処理しておいたよ。あの家に養女がいたという記憶は、あらゆる人間の記憶から、丁寧に消させてもらった。いまごろあの養父母たちは、熱心に領民を守ろうとする善人になっていると思うよ。やもめ男も似たような感じかな。資産を整理して、身寄りのない子どもたちを保護する福祉事業に参加するってさ」
アレクシス皇子の死角に潜んでいた使用人が、執事長にハンドサインを送ってよこした。
(養父母と次の嫁ぎ先に関しては、全て事実であると確認…か)
「では、お嬢様の元婚約者様につきましても、記憶の抹消を?」
「ああ、彼はちょっと事情があって、ローザに言われた最後の言葉だけ、記憶に残してある。婚約については完全に忘れてるけどね。それと、彼が流したローザの悪評も、全部消したよ。もちろん、君たちがくっつけた尾鰭背鰭もね」
「それはどうも。で、お嬢様の残された言葉の記憶を抹消なさらなかった事情とは?」
「それについては、申し訳ないんだけど、ローザの許可なしには話せない。彼女が君たちに明かしていない記憶につながる話だからね」
「そのことで、元婚約者様がお嬢様に害を為すといった可能性は、ございませんか?」
「それはないと断言できる。彼女への害など、誰だろうと絶対に許さないしね。それは君たちもでしょう?」
「当然でございますな」
「さて、本題に戻るけど、前世のローザは、自分の周囲の人間たちを守るために、自分で自分を消滅させてしまった。僕はこれまでに三度、目の前でむざむざと、彼女を失ってしまったんだ」
「!!!!!!」
使用人たちの強い怒りと動揺が、地震のような揺れとなって、屋敷を揺らした。
「落ち着いて、よく聞いてほしい。助けようとして、助けられなかったんじゃないんだ。助けようとしたから、失ってしまったんだ」
「どういう、ことですかな」
執事長の、憎悪と戸惑いの籠る視線を受け止めながら、アレクシス皇子は続けた。
「ローザが、膨大な魔導エネルギーを保持しているのは知っているだろう」
「……」
「あれは、彼女の抱える無限の虚無の裏返しでもある。いまのローザは、君たちを思う気持ちで、温かく満たされているから、虚無を感じることはない。けれども、虚無は常にローザの内にあって、彼女の意思の支配を抜け出し、全てを飲み込もうとしているんだ」
「……」
「ローザの抱える虚無の力は、伝承では神の力とされていてね。その神が滅びをもたらさないように、別の神が戦いを挑み、虚無に打ち勝って世界を守る……そんなふうに言い伝えられているけど、事実は違う」
「どう違うのですかな」
「ローザの虚無に打ち勝っているのは、ローザ自身なんだ。他の神なんかじゃない。ローザは全てを守ろうとして、自分を滅ぼしてきた。何度もね」
「それは…」
「ローザが、空気中に浮遊する魔力を利用して、無限に液体魔力を作ることができるのも、内に抱える虚無のためだ」
「特殊な固有魔法ということでは、ないのですかな」
「違うね。あれは魔法などではない。あらゆるものを無限に吸い込み消滅させるという、絶望的な虚無の力の、ほんの一部分だけを、彼女の意志と努力で安全に利用しているんだ。ローザしにか許されない、奇跡のような技術なんだよ」
「奇跡…」
「そう、血の滲むほどの努力で、ローザは自分の中の恐ろしい力を、君たちを守るための力に作り変えたんだ。今世だけでなく、前世でも、その前の人生でも」
「……」
アレクシス皇子を取り囲んでいた殺気が、少しづつ薄らいでいく。
皇子の語るローザの慈愛と献身とは、ローザを慕う者たちにとって、あまりにも自明のことだった。
「もう、みんな気がついているんじゃないかな。彼女は、君たちを守るためなら、惜しみなく命を捨ててしまう。君たちが、彼女を守ろうとして命などかけたりすれば、もはや躊躇なく自分を消してしまうだろう」
「ええ、そうでしょうとも…」
「ローザが抱えている無限の虚無は、彼女を満たしている幸福が少しでも危うくなれば、彼女の人格を押しのけてでも、世界を飲み込んで破滅させようとするだろう」
「……」
「いいかい? 君たちが不幸になるようなことがあれば、彼女は消えてしまう。まず、そのことを分かってほしいんだ」
侍従長は、怒りや殺気ではなく、試すような鋭い視線を皇子に向けた。
「一つ、聞かせていただきたいのですが」
「何かな?」
「前の世では、何が、お嬢様を失う原因となったのですかな」
「それは……」
「私どもには、お話いただけないような理由でしょうか」
アレクシス皇子は、ローザの部屋の窓をちらりと見てから、目を伏せた。
「悪いけど、それだけは話せない。ローザにも、思い出させたくない」
「お嬢様を、傷つけないためにでございますか?」
「危険だからだ。その記憶自体が、破滅の引き金になるかもしれないから。僕は、もう二度と、失敗したくない」
執事長は、皇子がローザの自室に向けて、音声遮断の魔術を発動したことに気づいていた。
「そこまでの危険があるのですな」
「そう」
「お嬢様は、ここまでの会話を聞いていらした?」
「聞いていたと思うよ」
執事長が屋敷に目線を送ると、扉が内側から静かに開いた。
「皇子殿下、ようこそおいで下さいました。ローザ様の配下一同、心から歓迎申し上げます」




