2. 家財道具がないなんて聞いてません。
――開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。
ジャスティーン・レインズフィールドは実の兄からの緊急と書かれた火急の知らせに、男爵家の令嬢の家庭教師の仕事を急遽キャンセルし、取るものもとりあえず、身の回りの必需品だけたった一つのトランクに詰め込んで文字通り領地に飛んで帰ることにした。
カレッジの正面玄関左口に存在する扉を開けて、転移の許可証を事務官に見せると、あっという間に許可がおりる。
緋色の絨毯の上で金色に輝く複雑な魔術具の陣の上に立って、魔力を叩きつけるように流せば視界がぐにゃりと歪み、馴染みある空間が眼前に現れた。
領地邸内の転移陣の中央に降り立ったジャスティーンは、すぐ後ろでトランクを持つ侍女のエレンと顔を見合わせると、絨毯を踏みしめながら真っ白な扉を押し開き、絶叫した。
「な、な、な、ナンジャコリャー!!」
すぐ後ろでガタン、とトランクが床に落下する音が聞こえ、おそらくエレンも同じことを思ったに違いない。
いや、それでも、どうして、落ち着け、とジャスティーンは呼吸を整えながらあたり一面を見渡した。
本来あるはずの壁にかかった絵画や、よく手入れされた飴色の調度品。その上に素朴だが品よく並べられた陶器の置物や正面の玄関の左右に並んでいた極彩色の大きな壺。それらが全くない。
曾祖父の代から伝えられてきた壁はめ込み式の水晶で作られた時を知らせる魔術具も取り払われており、ぽっかりと空虚な丸い穴が天井近くの壁に開いている。
「あ、ない、ぜんぜん、ない」
ガクガク、と口を開閉させて天井を見上げれば、先月の帰郷の際には確かに天井から吊り下げられていた先祖伝来のシャンデリアまでなくなっている。しかもここから見える範囲だと、大きいのが一つと小さいのが三つだ。
「これは、なに?どういうこと?え?泥棒でも入ったの??」
子供一人分くらいの大きさのある巨大なシャンデリアを天井から盗み出せるとしたら魔術師くらいだろうが、魔術を扱うことのできる人間はたいてい貴族と相場が決まっているので、貴族がそんな愚行を犯すとは考えにくい。
僻地貧乏貴族の先祖伝来とはいえほとんど資産価値のないそれらを持ち出しても意味がないとはわかるだろうし、盗んで売りさばく必要もないだろう。
ジャスティーンは金色の相貌を動揺に揺らめかせながら、ふらふらとした足取りで壁によりかかった。そして、ほぼ斜め正面左手にある二階へ上がる階段にこわごわと視線を移動させると、予想もしなかった事実を目の当たりにし、耐えきれずにその場に崩れ落ちた。
「あ、な。な、な」
「お嬢様!」
エレンが慌てた様子でジャスティーンに駆け寄ってくるが、それどころではない。
二階の階段に向けて、一階の玄関ホールから敷かれていた魔術印が施されている伯爵家家伝の魔術具の朱色の絨毯までなくなってしまっているではないか。
我が家はいったいどうしてしまったのだ。
「ジャスティーン!お帰り」
両手で顔を覆い絶望するジャスティーンの背中から、若い男性の声がかかった。
ジャスティーンが顔から手を外し、うるんだ瞳で背後を振り返ると、自分と同じ明るい栗色の髪の青年が片手をあげて足早に歩いてくる様子が目に留まる。
「エイワーズおにいさま」
「随分早かったね。想定よりだいぶん早い。エレンもご苦労だったね」
笑いかけながら、エイワーズは金色の相貌を柔らかく細めた。
我が兄ながら顔立ちは母譲りで二百点満点の実の兄を見上げながら、その面立ちがやや煤けて疲れている様子をジャスティーンは目ざとくも見つけてしまう。
自分のことを棚に上げながら、ジャスティーンは薄い茶色のドレスの裾をはたいて立ち上がり、軽く膝を下げて会釈をする。
「お兄様、その、お元気そうで。あの、何よりです」
肘まで袖をめくった白いシャツに濃い灰色のベスト、同じ色合いのスラックス姿の兄はジャスティーンの頭を軽く撫で、その場にへたりこむように座り込んだ。
「はーーーーーーー」
大きく息を吐きながら肩を落とした兄の頭頂部を見下ろすと、大きな埃が引っ付いている。ジャスティーンは人差し指でそれをそろっと取り外すと、ゆっくりと立ち上がった兄に視線をじい、と注いだ。
「また、お父様ですのね」
諦めたように零したその一言に、エイワーズの体がびくりと震える。
そしてやや強張った笑顔を張り付けたまま、乾いた声を零した。
「今回は、今回はね。ちょっと事情が違うんだ」
「事情が違う?それはどういう――」
エイワーズが神妙な面持ちで言葉を続けようとした時だった。
近くの部屋のどこかから数人の怒号か悲鳴ともつかない声が響き渡るのが聞こえる。
「おやめください!」
「旦那様!どうかお気を確かに!!」
ぎゃあぎゃあ声を轟かせながら、エイワーズが出てきた通路の奥の方から物音と共に物騒な声がジャスティーンの耳に届いてぎょっとする。
兄と視線を合わせ、ジャスティーンはスカートを捲し上げて声のする方に走って向かえば、開け放たれ、灯りの消された部屋の一室でもみ合うように蠢いている数人の使用人と目が合った。
「マーシル、エイディルネ!」
「お嬢様っ!」
「どうか旦那様をお止めください!」
「旦那様!どうかお気を静めてください!ジャスティーンお嬢様が帰ってこられましたよ!」
「放せマーシル!離せぇええええ」
先に駆け付けた兄が呆然と立ちすくんでいる横で、やや遅れて到着したジャスティーンが目を眇めると、薄暗がりの中で通常ではありえない位置に誰かが立って暴れているのが目に入る。
少しずつ慣れてきた目でよく確認すれば、ジャスティーンの父であるティム・レインズフィールド伯爵がテーブルクロスの取り払われたテーブルの上に土足で上がり、唯一残された金具だけのシャンデリアにロープをかけて首を吊ろうとしているところだった。
「もうダメだ。終わりだ。もうこれしか方法がないんだぁぁ」
ほっそりと枯れ枝のような体つきに、精神的な疲労からか目の下に大きなクマを作り、やや面立ちも青白い五十幾ばくを過ぎた自分の父親の姿を認め、ジャスティーンはこれまで溜めてきた怒りを噴火させるように鋭い声を放った。
「ふざけるな!」
小さな破裂音がしたと同時に、シャンデリアとティムの頭上の太いロープの中間がぶつっと切り裂かれ、ついでに鈍い音がする。
「どふっ」
残った縄と一緒にバランスを崩してテーブルから落下した実父を悪鬼のような形相で睨みつけると、ジャスティーンは侍女頭のエイディルネに部屋のカーテンを開けるように指示を出した。ついで、無様に床に倒れこんだ男に視線を送る。
「お父様」
ジャスティーンは腰に手を当てて、仁王立ちの状態でカッと目を見開いた。
「今度は何をやらかしたんです!?」
「ジャ、ジャス、ジャスティーン!お前、なぜ、あ、ここへ、え?カレッジ…は?」
「ジャスティーンへ私から急ぎ戻るようにと知らせを飛ばしたんです」
両肩を落としながら執事のマーシルが勧めた椅子にどっかりと腰を下ろして、エイワーズは前髪をくしゃりと撫でた。心底ほっとしたのだろう、長い溜息と共にしばしの沈黙が広がる。
ジャスティーンは目頭に寄った視線を人差し指で解しながら、エレンが椅子をすすめるのも構わず首にだらりと下がった縄をかけた状態で、茫然とこちらを仰ぎ見ている父親を見据えた。
「お父様。――わたくし、お兄様からの知らせを受けて急いで帰ってまいりましたの。今日は夕方から男爵家の家庭教師の仕事、夕方には養育院の子供たちと絵本を読んで焼いたクッキーを食べる日でしたのに、ぶち壊しですわ。で、今度はいったい、何をなさったの?」
ずいずい、と顔を父に寄せれば、はしばみ色の相貌の壮年の男性は誤魔化すように視線を彷徨わせた。
「あ、う、…その、あの」
「今度は何をやらかしたのかと思って急いで戻ってくれば、家財道具がほとんど、本当に最低限を残して全く残ってないじゃありませんか!!」
雷撃が落ちるように轟いたジャスティーンのひと言に、使用人は何とも言えない笑みを口に含んだ状態でその場に控えている。
ジャスティーンは父譲りの栗色の髪を揺らしながら、さらに詰め寄ると今度は女神のようににこりと笑みを深くした。
「さあ、今度は何をやらかしたんです?装飾品はともかくとして、家伝の魔術具の絨毯をいったいどこにお預けになったの?」
視線を逸らしてどもり続ける父親にしびれを切らし、ついにジャスティーンの両眼が見開かれた。
「正直におっしゃい!!」
「ヒッ。ヒィイイイイ、ゆ、許してくれ。許してくれー!フィオレンティーナ、許してぇええええ」
「わたくしはお母さまじゃございませんわ!娘のジャスティーンですわよ!」
父親の縄がかかった状態の白いシャツを握りこんで前後に大きくゆすれば、父はかつてないほど悲鳴を上げて、――気絶した。
「あ」
「あー」
白い泡を吹きながら気絶してしまったティムから手を放すと、体はあっけなく床に仰向けに転がり、マーシルが手早く指示をすると廊下で様子を見守っていた数人の男性の従僕たちが別室に運んで行った。
昼中差し込む窓からの光量は部屋全体を明るく照らし出すほどの力はなく、薄暗く闇落ちたサロンの一室は重い沈黙に包まれた。
数ある作品の中から拙作をお読みいただきまして、誠にありがとうございました!
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