79.北部戦争終戦
巨大軍艦二階。
『恐怖』フィア、『震駭』エクスが役目を終えて恐国に帰還した後の話。
それは、突然生まれた。
それは、一つの感情だった。
それは、他者への憤怒だった。
それは、己の結末に対する狂喜だった。
それは、他者への激昂だった。
それは、己の結末に対する感嘆だった。
それは、他者への怨みだった。
それは、己の結末に対する興奮だった。
それは、他者への執念だった。
それは、一人の男だった。
他人への苦しみを抜き出し、幸福を与え続けた男だった。
抜苦与楽。
異名を授かってから、そうあるべくして生き続けた男だった。
楽国民を示す黄金の左目に、怒国民を示す朱色の左目。存在からして歪だった彼も、『与楽』であるときは、誇らしかった。楽国民であることを許されていたと思っていた。
だが、時折。
彼は一人で考えていた。
自分に対して、誰が与えてくれるのだ。
誰が、己の苦しみを抜いてくれるのだ。
誰が、己に幸せを与えてくれる。
どうして。
どうして。
『こんなにも他人に尽くしているのに、どうして幸福を得られるのは他人だけなのだ』
抜苦与楽。
それは、己以外に対する言葉だった。
ーー否
幸福を得る権利は自分にもあるはずだ。
感情を与え続けていた自分ならば、感情を与えられるべきだ。
それは、一つの感情だった。
それは、一人の男だった。
故に、『それ』は動き始めた。
『与楽』アミューズだった死体が、音を立てる。最初は静かに、次第に大きく。夥しい量の黄金のオーラが溢れだす。
あっという間に周囲を埋め尽くした『それ』は動きます。切り取られた頭部を核とし、泥のように流動する。
巨大軍艦二階に溢れた黄金の泥は、近くの楽国民を飲み込む。感情を奪い、命を終わらせる。
だが、足りない。まだ足りない。
己の渇望は満たされない。もっと、感情を返してもらわなければならない。
『それ』は、もはや生物ではなかった。感情を操作するという禁忌に触れた男の成れの果て。感情を回収する概念が、黄金の泥となって進み始めた。
「私とお前の戦いは、あそこで終わりでよかったんだ」
女の声が、泥に響き渡る。
彼女の前に『それ』が導かれたのは必然だった。
船体の側面にある舷門に彼女はいた。
ぽたぽたと水が滴り、彼女が一歩前に歩くたびに水たまりができる。溺死した幽霊のような姿の女は、周囲の水に魔力を張り巡らされた。
力の加わった水はふわりと宙に浮き、細かく散弾のように打ち出された。
無数の穴が開いた『それ』は一瞬だけ、動きを止める。だが、すぐに黄金の泥によって穴は塞がれた。
どろどろと泥の中から、アミューズの頭部が浮き出てくる。既に色の失った黒色の瞳が大きく開かれ、驚きの表情を浮かべる。
「オマエハ…」
「私は死んでも良かったんだ。デスペア様がいるならば、もう何も未練はない。はずだった」
女は再び水に魔力を込める。『それ』に物理的な攻撃は効かないのか、すぐに生まれた穴は修復される。
「だけど、嫌王の借りも残っているし、助けられてしまった。借りが残ってばかりで死ぬのは少し後味が悪い」
『悲惨』ミザリーは、空色の瞳で『それ』を睨む。
反応するように、アミューズの頭部も怒りの表情を浮かべる。反射的に、目の前にいる女は許せなかった。排除する対象だった。
「シニゾコナイガ!!」
「それは、頭だけになっても死んでいないお前のほうだろう!!」
無意味だとわかっていながらも、水による遠距離攻撃は続く。
『それ』は全身でその攻撃を受けながら、泥を溢れだし前に進む。アミューズだった頭部は、にたぁと口角をあげて笑う。
ーーダガ、コレハイイ
『悲惨』ではないミザリーなど、唯の魔力の高い女だ。細身の体と感情を全て吸いつくしてやる。
どろりと動き出した『それ』は、一直線にミザリーに向かう。
彼女は水を飛ばすことで反撃をしながら、舷門を開ける。突風が艇内に吹き込み、雨と波の音が響き渡る。彼女は、そのまま外に向かって走り出した。
外、即ち海だ。
彼女はそのまま海に飛び込んだ。
『それ』も凄まじい勢いで巨大軍艦の外に流れる。
海ごとミザリーを飲み込もうとした『それ』は、突如として横からくる爆撃によって吹き飛んだ。
空中で避けることできず、黄金の泥はいくつか消える。それでも、『それ』は動き続ける。巨大軍艦の中に残っている泥を集め、新しい標的が現れたことを実感した。
「おうおうおう。いよいよ見た目も化け物じゃねぇか」
「気持ち悪い。スライムみたいじゃない」
屈強な男は、巨大軍艦の外で海の上に生まれた地面に立っていた。その横にいる女も、体から溶岩を垂れ流し、新しい地面を生み出す。
「お前たち、集中しろ。相手は既に人間じゃない。何をしてくるかわからないぞ」
二人を諌めるように、小さな少年は呟く。
声をする方向に『それ』は視線を移す。
高い魔力反応が三つ。
感情の高ぶりを確認。
つまり、餌だ。
『それ』に思考する力は残っていなかった。知性は時間経過とともに失われていき、既にミザリーのことも忘れていた。己の渇きを満たすために、魔力反応の高いほうに導かれていく。
海面に自然落下しながらも、『それ』は黄金の泥を伸ばした。
その瞬間、『それ』に向かって高熱の何かが放出された。
爆撃は、黄金の泥を消し飛ばす『執念』だった。
溶岩は、黄金の泥を飲み込む『激昂』だった。
火炎は、黄金の泥を燃やしつくす『憤怒』だった。
彼は、巨大軍艦に執念でたどり着いた四怒将。
ヴェンジャー、スプレ―ション、フューリの三人は、怒りを『それ』に向かって撃ち放った。
感情大陸北部戦争は、一年という長い年月を経て終わりを告げた。




