12.『恐怖』分岐点1
沈む。深緑の渦に飲み込まれ、どんどん沈む。
私の体は動くことなく、闇に沈んでいく。
感覚は正常に機能している。冷たい水に飲み込まれたのか、沼に飲み込まれたのかはわからないが、意識は鮮明だ。
ーー体が全く動かない
参った。これが『恐怖』フィアの魔法だ。裏通りの連中は、この攻撃を受けて体の自由を奪われたのだろう。
精神魔法といったところか。別空間に飛ばされてしまった。沈む体は、気がつくと浮かび始めた。水面にたどり着いたと思えば、ぷかぷかと私の体は漂い始めた。
と言っても、私が冷静なのはこの空間のおかげだ。あまりにも現実味がない。深緑の液体が海のように広がり、そこに浮かんでいる。空は深緑に染まり、光はない。
服も、短刀も、銀の指輪もない。攻撃手段も奪われてしまった。
目の色を変える魔法の眼鏡も、右目を隠す眼帯もない。
久しぶりに両目で見る景色は、チカチカと眩しかった。焦点を合わせるのに時間がかかる。水面に反射する右目を見ないように、上を見続ける。
どうすれば、この空間から脱出できるのだろうか。居続けるのはまずい。
深緑の空間は、気が狂いそうになる。地平線の先まで何もなく、天の先まで光がない。無限に続く深緑の海は、恐怖心を増幅する。
体は全く動かない。呼吸もできないし、心臓も動いているのか?いや、関係ないのだろう。フィアの精神世界に取り込まれたのだ。現実じゃない。
だから、これは夢だ。恐怖せず、脱出方法を考えるのだ。
こぽ、と奇妙な音が聞こえる。底から気泡が湧き出ているようだ。空気の塊が背中に当たり、その数は増えていった。
気泡は大きくなり、次第にうねりに変わっていった。
海の底が割れた。直感的に気がつく。私の周辺だけの海面が下がり、静寂の海に波動を与える。
体は再び沈み、海は元の形に戻ろうと周囲の水を集める。私の頭上にも波が訪れ、大きな音とともに飲み込まれる。
沈む。沈む。
うねりに飲み込まれた私は、そのまま海に底へと落ちていった。
海底は割れていて、隙間から空気が溢れ出ている。
吸い込まれる流れに逆らうこともできずに、意識を手放した。
***
『ROUND 1』
感情大陸の右上にある『楽国』。
三つある都市のうちのひとつ、都市センにある国営孤児院の二つ隣の一軒家。王の住む都市ということもあり、比較的裕福な人間が住まう、高貴な街並み。その中の一軒家に住む二人の親子の話だ。
『楽』という感情を司る国であるため、教育に力を入れている。娯楽を楽しむためには、高度な学力、教養がなくてはならない。楽王の考えだ。
学校に通うのは義務だ。15歳まで計9年間教育機関に通い、『楽国』民としての全てを学ぶ。
私は一階のリビングで勉強をしていた。教材は歴史。楽王の功績について、つらつらと書かれていた。難しい単語はひとつもない。子供でもわかる、優しい文章が書かれていた。
「あ」
体は動く。口も動くし声もでる。胸を触ると、幼い体はゆっくりと鼓動していた。
記憶も鮮明だ。深緑の空間から、海底に沈んだ。目が覚めたら、ペンを持って勉強をしている。
もう一度、教科書を見る。ペラペラとページを捲ると、『楽国』の生い立ちやら、感情大陸についてなど、様々な項目が書かれていた。夢にしては出来が良すぎている。
これも、フィアの精神魔法の一種なのか?
それとも、過去に飛ばされた?未知の魔法使いがやることだ、何をしてもおかしくない。
先に魔法を受けた裏通りの連中の体が操られているのを思い出す。大丈夫。精神を操られているだけ。フィアの見せる幻覚だ。これは。
立ち上がり、あたりを見渡す。ここは、私の家で間違いない。孤児院に預けられる前の家だ。孤児院を卒業してからは、再びここで暮らしていた。
生まれてから7歳まで。15歳から『嫌国』へ訪れるまでの間だけ暮らしていた。鏡を見ると、今よりもさらに低身長の子供の私がいた。右目には可愛らしい柄の白い眼帯がつけられている。
教科書で勉強しているということは、教育機関に通い始めた6歳以降。歴史の勉強は二学年からだから、7歳だ。
くぅ、と小さなお腹から空腹の叫びが聞こえる。お腹すいた。
「お母さん〜?ご飯の時間だよ」
当時の流れで、ついお母さんを呼んでしまう。
いつも、私が一階で勉強をしているときは、隣にいたはずだ。お母さんは、私と一緒に勉強するのが好きだと言っていた。後で知ったことだが、お母さんは私が一人になる時間を減らそうとしていたらしい。私は一人になるのが嫌いだから、とプレスレスさんは葬式で教えてくれた。
「お母さん?」
お母さんがいない。キッチンに向かうが、夕食の準備をしているわけでもない。
あれ?おかしい。一階にお母さんがいない。
右目が熱い。眼帯の裏側が燃えるように熱い。眼球が溶け、沸騰しているようだ。
いつもなら、「机に並べるの手伝って」とお母さんが声をかけてくれるはずだ。キッチンに出来立ての夕食を注ぐお母さんがいて、私が机まで運ぶのだ。
キッチンには、何もなかった。夕食が入っている鍋もない。この時間まで夕食の準備がなされていないことは今までで一度もなかった。
あ、夕食は私が作るんだった。お母さんがいなくなって以降、子供たちには私が夕食を振舞っていた。孤児院のキッチンは私のお城だった。
でも。おかしい。まだ孤児院には行かない年齢だ。一軒家に住んでいるということは、お母さんが夕食を作ってくれたはず。
冷や汗が止まらない。右目からは、赤い涙がこぼれ落ちる。白い眼帯は赤く染まった。
二階へ向かう。ここから先にどのような光景が待っているか、私はわかっている。それでも、階段をのぼる足は止まらない。
この日を境に、私は孤児院に預けられた。
「お母さん?」
二階のお母さんの部屋の前に着く。
ーーこれはフィアが見せる幻覚だ
ドアノブに手を掛ける。扉を開ける前から、景色が透けて見える。悪夢として何度も見たことがある景色。7歳の私に埋め込まれた、消せないトラウマ。16歳になった今でも、私を蝕む呪い。
ーー大丈夫。これは幻覚。恐怖するな。
扉の隙間から光が漏れる。ゆっくりと扉は開かれた。
ーー恐怖するな。絶望するな。私は『楽国』民だ。
そう自分に言い聞かせる。
「お母さん?」
お母さんは部屋にいた。いや、正確にいうならば、『お母さんだったものは部屋にあった』。
「お母さん?」
天井から伸びる紐。脱ぎ揃えられた靴。地面につくはずの足は宙に浮いていた。
お母さんだったものは、私の問いかけにこたえることはない。
当時の私の記憶はここまでだ。
後で聞いた話だが、自力でプレスレスさんのところまで走っていったらしい。そこで助けを求めたとか。何も覚えていないが。
「どこで道を間違えたのか」
ごぽっという音が鳴る。地面が溶け深緑の闇が侵食してく。波が一軒家を破壊し、再び深緑の海に襲われる。
冷たい海に飲み込まれ、再び海底の割れ目に吸い込まれる。
目を覚ますと、見慣れた光景が広がっていた。見続ける、もう一つの悪夢。
豪華の炎の光は止まる気配がない。轟々と燃え、炎に巻き込まれた人間の肉を焼き、骨すら残らない。洞窟は熱を閉じ込め、蒸し鍋を彷彿させるほど熱い。
流した汗はその場で蒸発し、深く呼吸をすれば体内から焼かれてしまうだろう。
倒れた男を見ながら、私は首をかしげた。眼鏡の奥に見える眼球は黒く濁り、生気を感じさせない。熱された地面によって、皮膚は焦がされ、不愉快な臭いが辺りを漂う。
男の名はルプレス。軍の隊長補佐を務める優秀な軍人で、私の育ての親の一人だった。笑顔を振り撒き、周囲を楽しませていた彼の表情は、死後も変わらなかった。歪な笑顔のまま、彼は死んだ。
「どこで道を間違えたのか」
私の呟きは、煙に溶けていく。
『ROUND 2』




