ひぐらしは泣かない
すでに小学生ぐらいの子供がガラスの柵の前からトングをもって小魚を食べさせている。
綾乃の性格からしておそらくやりたいやりたいって言い出すだろうと予想していたが、俺が何か言いだすのを待っているようだった。
俺は綾乃に聞いてみた。
「綾乃ってさ、何かを決めるときで悩んだりするのか?」
「へえ? そりゃそうじゃん」
ペンギンの方からくるっと振り向いてから綾乃はさも当然みたいな顔をする。
「てっきり『やりたい』って言うと思ってたから」
「最初から決まってるときはそうだけど、悩むときは悩むよぉ」
「……綾乃も悩むことあるんだな」
朱ほどではないけど、綾乃もどちらかといえばさばさばしたタイプだと思っていただけに少し意外だった。
「めちゃくちゃ悩むよ。私だって」
「餌やり体験するか悩んでたのか?」
「わがままかなって思って」
「今日はわがままするんじゃないのか」
「分かった。じゃ一緒にやろ!」
綾乃はにこやかに言ってくしゃっと破顔させた。
そのまま綾乃はスタッフの人に話しかけて俺たちも餌やり体験に参加することになった。
飼育員の人に説明を受ける。
バケツに入った子魚をトングで掴み、それをペンギンたちの頭上からあげるという形だという説明がなされた。
飼育員に餌の小魚が入った小さなバケツを手渡される。
ペンギンが口を開けて餌に迫ってくる丁度良いタイミングでトングの力を抜いて餌を食べさせる。
次の餌を掴むとペンギンたちが寄ってくる。
「綾乃なら、悩んだときはどうやって決める?」
ペンギンたちは思っていたよりも食欲旺盛で俺が俺がと言わんばかりに餌を求めてくる。
「うーん。前までは悩んだときってどうすることもできなかったんだけどね」
綾乃の方にも同様にペンギンが群がる。
「でも、友達に相談すればすぐに解決したかな。なんかそれまで考えてたのが馬鹿みたいに」
「なるほどな」
次々に魚を掴んでペンギンたちに食べさせていく。
「ポケットから出したイヤホンがするするっと解けていくみたいにね」
「そんな簡単にか」
「一人で考えるよりずっと楽だよ」
「自分だけで考えなくてもいいのかな」
「え、立華君が悩み事?」
からかうような声音で綾乃が返してくる。
「颯介と一緒にするな」
「ふふふ」
ペンギンたちに満遍なく餌を与えようという意識が働いていたが、すでに一回食べたペンギンもまだまだ満足がいかないようだ。
俺はそいつには我慢してもらって、まだ食べてないペンギンに餌を与えた。
「じゃあ一つ、綾乃に相談してもいいか?」
「それって今じゃないとダメ?」
「できるだけ早い方がいいかな」
「じゃあ今日の最後でもいいかな?」
「おう――」
「もう終わっちゃった!」
見ると綾乃のバケツはすでに空だった。
俺もすぐに残りの餌をやった。
フロアをさらに上がると太平洋をテーマにした巨大な水槽が目に飛び込んできた。
小学生並みの感想だがとてもいろいろな魚が泳いでいる。
水遊館名物のジンベイザメも見ることができた。すんげえでかかった。
綾乃も真剣な顔で水槽を観察していた。
さっきの様に何も言わずに。
色々見て回ってみる。興味のない解説に立ち止まって解説を読んだ振りをしてみる。
解説の文章なんて全然頭に入ってこないけれど。
答えなければならない問題が常に自分の中に存在していて、そんな文章を理解するキャパシティは無いようだ。
しかしこの静かでゆっくりな空間の中では問題を抱えているのにもかかわらず、その危機感を忘れてしまいそうになる。
時間も余裕もないのに、なぜか落ち着いてしまう。
さらに上のフロアへと移動する。
この水遊館では各フロアごとに水槽が分かれているわけではないようで、三フロアに及ぶような巨大な水槽が設置されている。
八階まである意味が分かった。
「でもね。相談した結果、一番最後に決めるのはやっぱり自分だなって思った」
「え?」
「手を借りても借りなかったとしても自分で決めないといけない」
「他人任せってわけにもいかないよな。確かに」
綾乃が言っている手を借りるっていうのは多分そういうことなのだろう。
どういう選択だって最後に決めるのは自分自身。
自分一人で考えるのが難しいなら周りの人に手伝ってもらえばいい。
綾乃はそう言っているのだ。
「立華君の相談に乗る代わりに一つ条件があります」
綾乃は俺の前に一歩踏み出してから振り返って人差し指を突き出す。
「条件?」
一言だけ告げると俺に背を向けてお尻の上で両手を組んで歩き始めた。
「条件っていうか、お願いなんだけど」
「綾乃のお願いはいつも聞いてる気がするんだけど」
「私の一番のお願いはまだ聞いてもらってないからね」
「一番のお願いか。キツイのはやめてほしいなぁ」
俺は苦笑しながら呟く。
「全然きつくないよ。多分、簡単な話」
俺に先行して綾乃は進んでいく。
「そのお願いってなんなんだよ」
水槽がある区画を抜けると数段と暗くなった。
そして最上階へと続く階段を上る。
「それは、後で私の言うことにすぐに返事をすること」
階段を上りながら綾乃は俺だけに聞こえるような声量で声を出す。
綾乃の言ったことはイマイチ要領を得ない。
「どういうことだ?」
「はいかいいえかで答えられる質問をするのですぐに答えてほしいってこと」
最後のフロア面積はこれまでより狭い。
「水族館を出たらそれに答えてください」
話の意図は分からないが内容は一応理解した。
「わ、分かった」
一番上のフロアは日本の森林をテーマにしたコーナーらしい。
海の魚だけではなくオオサンショウウオやカワウソ、鳥類なんかもいた。
そこは水槽のあるフロアとは違って明るかった。
順路としてはこれで終わり。
エレベーターに乗って三階の入館口付近へともどってくる。
そこにはお土産屋さんとしてショップがあった。
暗い空間に適応していた目には眩く明るいライトがついていた。
「何か買っていくか」
「そうだね」
俺は造形がリアルなタイプのジンベイザメのキーホルダーを選んだ。
綾乃はデフォルメされたタイプのジンベイザメをレジに持って行った
館内同様にショップも空いていてたこともあり、お互い別々に会計を済ませた。
水遊館の外へ出ると風が吹いた。
昼間のセミの鳴き声はもうすっかり止んでいた。
すでに七時を回っていたが、まだ空は全然明るい。透き通った紅碧の空。
建物の前に広がっている広場には人はほとんど歩いていなくて、風の音がする以外は館内と同じくらい静寂だ。
「さっきの質問って」
「うん」
綾乃がこちらに向いた。
振り向いた綾乃の纏う雰囲気はそれまでとは異なっていて、俺が見たことのない綾乃の姿だった。
俺もその眼差しに真摯に向き合う。
その瞬間、生ぬるい風は完全に止んだ。
「……立華君のことが好きです。私と付き合ってください」
光の様に直進する視線がこちらを向いていた。
それまで二人とも建物の影の中に入っていたはずだが、綾乃の身体はうっすらと沈みかけの太陽に照らされている。
覚悟を決め、すでに分岐点を通過したようなその視線に俺は息を呑んだ。
俺はここで新たに選択をしなければならない。
綾乃の告白に返答しなければならない。
自分で考えて、答えを出さなければならない。
「綾乃ってずるいのな」
このタイミングで告白してくるなんて。
悩んだら相談すればいいじゃんって、さっき教えてくれたくせに。
こんな状況で誰に手を借りればいいんだよ。
「言われると思った」
綾乃の告白にイエスと答えてしまえば、多分一番楽なんだろう。
朱と付き合うことのリスクを回避できるし、綾乃の気持ちにも応えられる。
朱のスキャンダルも起きずにメンバーにもファンにもそれが一番いいように思う。
合理的で論理的で至極効率的な選択だろう。
でもそれではいけない。
その選択では俺は何も悩んでいないのだから。
その選択により朱の事を考えることも放棄してしまうのだ。
朱の気持ちも綾乃の気持ちも、俺自身の気持ちでさえ何も考えずに素通りしてしまう。
その選択肢は俺の思考力をすべて奪っていく。
けれどそれではダメなのだ。
綾乃に甘えてはいけない。
修学旅行の時の様にまた、綾乃に甘えてしまうわけにはいかない。
周りに流されてはいけない。
「俺は……」
目を瞑って自分の意思を脳内で探る。
綾乃が好きかどうか。
考えて答えを出す。
まさに学力試験の様に、精一杯時間を使って解を求める。
でもそれはテストの様にすべての人に同じ正解が与えられているわけではなくて、思考した後、正解かどうかも分からない問題にオリジナルの解答をしなければならないのだ。
そして俺は口を開いた。
「ごめんなさい」
「……うん。なんとなくは分かってた」
望まない結果だったにもかかわらず、綾乃は笑っていた。
インターハイ決勝で負けて号泣する奴とすがすがしい顔をしている奴がいるけれど、今の綾乃は後者だ。
負けたのに堂々としている選手みたいでなんかかっこいい。
「この状況で相談できる人いないんだけど」
だから俺は少し冗談めかして会話を続けた。
「でも、一人で答られたじゃん」
「そうだな……」
「すごいよ。私は手伝ってもらったからさ」
「……綾乃に相談しようと思ってた事よりは簡単だったから」
「それはダメージ大きいから言わないで! 言わないでよぉ……」
けれどその一言から綾乃のすがすがしい顔は数秒間と持たなかった。
その顔を見てしまうと、綾乃に相談するのはやっぱりやめようと思った。
今日も読んでくださりありがとうございました。
よろしければブクマなど頂けると嬉しい限りです。
更新頻度が安定しませんが最後までお付き合いいただけたら幸いです。
完結まで書き終えたら最後の方は同じ日に連続して投稿しようと思っています。




