頼み事
ぼーっとしながら先生の話に三割程度の意識を傾ける。俺は金曜日に見に行った例のアイドルのことが頭から離れなかった。そのアイドルのライブに影響を受けてこの土日はyoutubeにアップされているライブ映像を休む間もなく見ていた。
どうやらこのFortune Routeというアイドルは発足間もないグループらしい。オリジナルの楽曲数はそれほど多くなくライブで見た楽曲のほかにあと数曲といった感じだ。楽曲はよくあるキュートな恋愛ソングではなく思春期やモラトリアムをつづった歌詞が印象的で、知らず知らずのうちにどっぷりハマってしまったのだ。
三割程度の聴覚情報からホームルームが終わる気配を察知したので、帰る準備を仕上げた。年度初めだが特には大きな連絡事項はなくホームルームが終わると担任の先生はすぐに教室から出て行ってしまった。
俺をそのライブに連れて行った張本人である颯介に「じゃあ」と一言伝えて席を立つ。颯介は今日バイトらしい。
他のクラスのホームルームはすでに終わっているようで、廊下に出ると知らない生徒たちが雑談に興じていた。
そんな光景を差し置いて俺は階段を下りる。特に用事もなく部活もやっていないので家に直行の予定である。Fortune Routeの次のライブも今日ではない。寄り道をする余地は俺にはなかった。
二年生の教室は校舎二階に設置されていて、授業の後に階段を下りるというのは少し新鮮だった。
無事最短ルートで下駄箱にたどり着き、自分の靴箱を開けようとしたその時。
「「あっ」」
上履きを持った女子生徒がこちらを見つめている。
俺の思考が整理される前にその女子生徒は上履きを履きなおし俺の手首をつかんできた。
彼女はそのまま歩き出し、俺は引っ張られながら今下りてきた階段を再び上る羽目になった。
階段を上っている中でだんだんと整理できてきた。
この女子生徒は俺が先週に行ったアイドルのライブで踊っていたメンバーのうちの一人だ。
当たり前だが今日は衣装ではなく学校の制服を着ていて、髪もストレートにおろしている。長い黒髪からはラベンダーの薄い香りが流れてくる。身長はそれほど高くないが、すらっとした脚からは女性としてのスタイルの良さを確認できた。
しかし、ライブハウスで見た彼女とは全く雰囲気が違うのだ。
なんというか、すごく地味なのである。
顔に関してはメイクとかの影響で多少地味になるのは仕方ないと思うのだが、その分を差し引いても、おおよそステージで踊っていたアイドルとは思えないほどの地味子だった。
そんな観察をしているうちにいつの間にか四階にまで到達していた。四階は物理実験室や化学実験室、被服室があるフロアで放課後には全く人はいない。
彼女は依然として俺の手首をつかんだままだ。
「始業式の日、ライブ来てた人だよね?」
彼女は少し困ったような顔で尋ねてきた。
「う、うん。君の列に並んでた」
俺は颯介に連れられて半ば無理やり握手会に参加させられたのだ。
とりあえずセンターで踊っていたということで彼女の列に颯介と一緒に並んだ。
「それも覚えてる。初めてのライブで握手しに来てくれたね」
「で、どうしたの。こんなところまで連れてきて」
「ずいぶん落ち着いているのね。アイドルが話しかけているのに」
彼女は少し機嫌が悪いようだ。彼女はようやく掴んでいた手を放してくれた。
「いや、なんか雰囲気が全然違かったから……」
下駄箱で出会ったときはそれはそれは驚いたが一階から四階まで階段を上っているうちに彼女の観察をしていたのでかなり冷静になることができた。
握手会での超絶アイドルスマイルも今はしていない。
「私、ウインクなんて滅多にしないんだけど」
「は? ウインク?」
「握手会でしてあげたじゃん」
彼女との握手会を思い出す。
握手をして手を離した後にウインクされて恋に落ちそうになったのをすっかり忘れていた。オタク特有の目を合わされただけで好きになる類のやつだ。
「あー。あれはズキュンと来たね」
彼女はため息をつく。
「私、柊一紗。ライブでも自己紹介したけど」
「えっと、根暗だけどなんちゃら」
ライブでの自己紹介を思い出すが、はっきりとは覚えていなかった。
「根暗だけど頑張り屋さんのバカリーダー」
「もう半分悪口だなそれ」
「それで定着してるんだからいいでしょ?」
彼女の顔は不機嫌を通り越して呆れているのが分かる。
「まあ、別にいいけど」
俺もすぐに彼女の自己紹介の合の手を入れることになるはずだし。
「あなたは?」
「え?」
「名前、わかるでしょ」
名乗られたら名乗り返すというこの世の基本ルールを忘れているところだった。
「立華達。で、何の用?」
俺はまだ彼女にここに連れてこられた理由が分からないでいた。
「立華達君、一つだけ頼みごとがあるんだけど」
かわいい女の子の頼み事となれば耳を傾けることはやぶさかではない。
「どんな頼み事?」
「私がアイドルやってること、学校では秘密にしてほしいの」
「なんでさ」
「……いいでしょ?」
さっきのむっとした表情とは打って変わって上目遣いでおねだりしてくる。
いきなりアイドルモードになるのズルくないですか。いやぁ女の子に頼まれ事されたら、なんか自分の存在価値が少しでもあったんだと思うよね。
「ああ、もう、かわいいかわいい。分かったから。誰にも言わないよ」
「よろしくね……」
一紗の顔は少しだけ暗くなり、遠くを見つめるような目をしていた。
頼み事を了承してやっているのになぜ不満顔なのだろうかと疑問に思ったが男に二言はない。
「まかせろって。あ、そういえば。次のライブ行くから」
俺は彼女との握手会のせいで、もといおかげで次のライブにも行く気満々なのだ。
「ほんと?! うれしい。絶対来てね!」
彼女は満足そうに顔をほころばせながら今度は手首ではなく手を握られた。
ちょ…、そういうの、よくない。惚れちゃうよ? もうすでに一回握手してるけど。
視線を手から一紗の顔へと戻すとアイドルモードを終わっていたようで、俺は少し残念だった。
営業が終わって安心したのか一紗は手を放して立ち去る。
しかし、階段を下りる寸前でこちらに振り返った。
「ツイッターとインスタもフォローしといて」
頼み事、一つだけじゃなかったのかよ。
初めて小説を書きます。
読んでくださりありがとうございました。
※3/2改稿しました。
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