雨おんな
私がその女を見かけたのは、梅雨時の小雨のそぼ降る夜でした。
当時私は三流大学の貧乏学生で、家賃が安いことだけが取柄の、絵に描いたようなボロ下宿に住んでいました。一人暮しの気楽さと言いましょうか、友人の下宿に押しかけて夜通し酒盛りをしたりマージャンをしたりという生活を送っていました。
その日も遅くまで友人の家で飲んでいたように思います。あるいは夜更けではなく、明け方に近かったのではなかったかとも。ですが、私の正確な行動や時刻など、どうでも良いことでしょう。今お話したいのは、あの女に出会ったことなのですから。
切れかけた街灯がちかちかと点滅するだけの、暗い道でした。普段は気にしなければ判らないほどのなだらかな下り坂でしたが、その時だけは何処か黄泉の底に降りて行くような錯覚を起こさせました。
坂道を半分ほど下った所が緩やかなカーブになっていて、その曲がり角にその女はいました。道に背を向け、顔を手で覆い、女はうずくまっていました。私は女を横目に見つつ、その後ろを通り抜けようとしました。長い黒髪が雨にしっとりと濡れているのが目に入りました。
……すすり泣く声が聞こえました。
女は、泣いていたのです。
私は薄気味悪くなり、早足でそこを立ち去ろうとしました。
「待って」
いきなり後ろから声をかけられ、私はびくりとして足を止めました。恐る恐る振り向くと、女はさっきの姿勢のまま全く動いてはいませんでした。
「Tさんは、元気?」
顔から手を離さないまま、女は言いました。妙に抑揚のない声でした。私の下宿の隣の部屋には確かにTという男が住んでいました。何故この女がTを知っているのか、どうして私がTの隣の部屋の住人だと判ったのか、尋ねようとしましたがどうしても訊けませんでした。
「……Tさんは、元気?」
私はがくがくとうなずくと、一目散に下宿へ取って返しました。
Tは神経質そうな細身の男でした。私と同じ大学の学生でしたが、たまに廊下で顔を合わせる程度の仲でした。
夜中に部屋のドアを叩いた私に、Tはいかにも迷惑そうな顔を向けました。それにもかまわず、私は今あった出来事を洗いざらいTに話しました。ひたすら話すことで、さっきの出来事を浄化してしまおうとしていたのかも知れません。
話を聞くうち、Tの顔は青ざめて行きました。話し終わった頃には、もうTの顔は紙のように真っ白になっていました。
「……そうか。判った」
Tはそれだけ言って、ドアを閉めようとしました。私は慌ててそれをとどめ、訊きました。
「待てよ、T。おまえ、あの女に心当たりがあるのか?」
Tは昏い顔をして首を振りました。
「……訊くな。知らない方がいい」
バタン、と音を立て、私の目の前でドアは閉まりました。
そんなことがあった後も、私はたびたび同じ道で女に会いました。女はいつもあの曲がり角のところで、最初に会った時と同じように道に背を向け、同じように顔に手を当ててすすり泣いていました。不思議なことに、女に会うのはいつも雨の降る夜でした。もっとも梅雨時でしたので、晴れた夜などそうなかったのですが。
私が通りすぎようとすると、女はいつもあの抑揚のない声で訊いて来ました。
「Tさんは、元気?」
私は何も答えずに急ぎ足で通りすぎるだけでした。
実を言うと、Tはあの日以来、全く表へ出なくなっていたのです。壁越しに何やらぶつぶつ言う声が聞こえたり、音量を大きくしたステレオの音楽が聞こえるだけで、T本人と顔を合わせたのはあの夜から一度もありませんでした。
Tは相当荒れているようで、壁の向こうからの声にはだんだんと怒鳴り声が混じり、家具や壁を蹴りつけるような音さえも聞こえました。物を壊すような音もたびたび聞こえました。
近いうちに大家に相談して、Tの親元に連絡をとってもらった方がいいのかも知れない――そう思いつつ、私は(家賃が滞納気味なこともあって)一日伸ばしを繰り返していました。
その日は朝から大雨でした。昨夜呑み過ぎたこともあり、私は学校へ行くこともせずに万年床の上で転がっていました。うつらうつらとまどろみながら雨の音を聞いているうちに、私は妙なことに気づきました。
隣の部屋から音がしないのです。
このところ、Tの部屋からは昼夜関係なく物音がしていました。眠れないのか、深夜になってもそれは続いていました。それが……全く聞こえて来なかったのです。いくら耳をすましても、聞こえるのはざあざあという強い雨音のみでした。
私は嫌な予感にかられました。すぐさま寝床から飛び起き、隣のドアを叩きました。
「T? T君!?」
応答はありません。私はドアのノブを回しました。鍵がかかっています。やむなく、私はドアに体当たりして破ろうとしました。一回、二回……三回。何度目かの体当たりでドアは破れました。
広い部屋ではありません。入った途端、一目で中が見渡せました。
部屋の真ん中に。
何か大きなものがぶら下がっているのが見えました。
Tでした。
天井の梁にベルトをかけて。
私は、
悲鳴を上げたのかも知れません。
そのまま私は下宿を飛び出していたのです。
気がつくと、いつもの坂道のいつもの曲がり角に私は来ていました。
いつもの通りに女はうずくまっていました。両手を顔に当て、長い黒髪をじっとりと雨に濡らして。私はぜえぜえと息をつきながら、恐る恐る女に近づいて行きました。
「……Tさんは、元気?」
抑揚のない声がしました。
「──死んだよ」
私は答えました。堰を切ったように、言葉があふれて来ました。
「Tは死んだ! 死んだんだ! 首を吊って! あんたか? あんたのせいか? これで望み通りになったのか!? これで満足か!?」
実際のところ、女がTの死に関連があるという証拠は何もありませんでした。女はただここにいて、Tのことを訊いて来ただけなのです。しかし、その時の私には、そんなことを考える余裕すらなかったのです。
女は。
何も答えませんでした。
ただ。
そっと自分の顔から手を外しました。
そして、
ゆっくりとこちらに振り向いたかと思うと、
にたぁ……と、笑ったのです。
我に返ると女はすでにいなくなっていて、あれだけひどかった雨は綺麗に止んでしまっていました。
その日のうちに大家が警察を呼び、Tの遺体は運び出されて行きました。私は警官に女の話をしましたが、あまり真面目に聞いてくれてはいないようでした。結局Tの死は、精神を病んだ上での自殺だということで片付けられました。
Tが死んでから2~3日後に梅雨が明け、夏がやって来ました。その頃には私も、下宿を引き払う決心をつけていました。
その後、あの女には一度も会っていません。
あの女がただのストーカーだったのか、何かの霊だったのか、それとも妖怪の類だったのか、私には判りません。Tとの関係もとうとう判らずじまいでした。
しかし──私は今でも雨の日に緩やかな坂道を歩いていると、髪の長い女がうずくまっている姿が見えるような気がして、ついつい足が速くなってしまうのでした。いや、あの女は今も何処かの坂道でうずくまって、誰かに尋ねているのかも知れません。
「──……さんは、元気?」