君は誰とキスをする?
ドアの向こう側に眠ったノーマンがいる。
ごくりとわたしはつばを飲み込んだ。
――さあ、サーシャ! ノーマンの寝込みを襲うのよ!
頭の中で悪魔のサーシャがそう言った。
――ダメよ、サーシャ! 色仕掛けなんて! それにあなたは聖女なのよ。男の人と関係を持ったら、力を失ってしまうわ!
頭の中で天使のサーシャがそう言った。
――うっせーな、お前ひっこんでろ! 自分殺して魔王倒しても意味ないだろ!
――ダメよ、サーシャ! あなたの力は人類のためのものよ!
天使と悪魔が延々と頭のなかで戦っていた。
その戦いはなかなか終わりそうにない。
わたしの理性は天使の言っていることを認めていた。わたしは聖女に選ばれた人間。聖女としての役目を果たすべき。
だけど、ひとつの映像が頭にちらついて仕方がない。
ノーマンの横に、わたし以外の女性が立つ未来。
それはわたしの胸を絞めて、息を苦しくさせる。
わたしはドアに手を当てて、息を吐くようにつぶやいた。
「ノーマン……」
まだ、天使と悪魔の戦いは終わらない。
だからわたしは賭けをすることにした。
ドアノブにそっと手をかける。
鍵がかかっていれば打つ手はない。わたしは諦めてそっと部屋に戻る。だがもしも、鍵がかかっていなければ――
わたしはドアノブを握る手に力を込めた。
ドアノブは――
何の抵抗もなくするりと回った。
――よっし! 行け、サーシャ!
頭の中の悪魔サーシャが手を叩いて喜ぶ。
――だ、ダメよ、サー――!
わたしはさっとノーマンの部屋に入り込み、天使サーシャの言葉を打ち切るかのようにドアを閉めた。
部屋は薄暗かった。窓からこぼれるわずかな月明かりが部屋の中を照らしていた。
ベッドの上でノーマンがいびきをかいている。寝相が悪くシーツがぐしゃぐしゃだ。
だけど別に驚きもしないし幻滅もしない。
そんなこと――とっくの昔から知っているからだ。
わたしはノーマンの寝顔を見つめながら、胸の中に去来する罪悪感と戦っていた。
わたしは卑怯だ。
賭けだと言ってドアノブの鍵を回したが――
わたしは結果を予想ができていた。
ノーマンの性格からして、鍵などかけていないことは簡単に想像できた。五分五分でも運否天賦でもない、ただの経験則による予測。
そんなものを賭けと呼ぶのは卑怯千万。
だけど、それでもよかった。
自分さえ納得させられれば。
自分をだませる口実さえあれば――
わたしはノーマンの前に立つことができる。
わたしは足音を立てないように、そっとベッドに近づいた。ノーマンはそんなわたしに気づかず寝こけている。
わたしは視線をノーマンの口元に向ける。
わたしの指先が自分の唇に触れた。
キスだけなら――
聖女の力は消えないのだろうか?
どちらでもよかった。消えるとかそんなことを気にするのなら、そもそもわたしはドアを開けたりしない。
今のわたしの興味はそこにはない。
もしもわたしがキスをしたら、さすがのノーマンも目を覚ますだろうか。どんな顔をするだろうか。
そこまですれば――わたしの気持ちに気づいてくれるだろうか。
そしてわたしを拒絶せずに抱きしめてくれるだろうか。
わたしはひざを折った。
ノーマンの顔がだんだんと近づいてくる。
心臓がどきどきどきと強く速く鼓動する。身体がこわばる。
あと二〇センチ。その二〇センチが縮まらない。
興奮で荒くなる呼吸に自分でもはらはらした。今ノーマンが起きたらどうしようか、そんなことばかり頭に浮かぶ。
ああ! もう!
なにビビってるんじゃい! サーシャ!
いけ! ぶちゅっといけ!
二〇センチを走り抜けて星となるんや!
わたしは目を閉じて、もうぶつかる勢いでいけー! みたいなノリで首に力を込めて――
そのときだった。
こん……こん……。
わたしの身体がびくりと震え、ぴんと背筋が伸びた。ラスト二〇センチがラスト五〇センチくらいになった。
は、はあ?
わたしはぎっぎっぎっとぎこちない動きで後ろを振り向いた。
奇妙なノックだった。
ノックにしてはあまりにも弱すぎる。静かな夜でなければ気づかなかったかもしれない。
むしろ、気づかれないことを前提にしたかのようなノック。
誰が――?
さっきの状況からわたしの精神はさっぱり回復していなかった。頭痛のような興奮が脳内に渦巻き、思考が寸断される。
だが、そんなに悠長に構えている時間はなかった。
がちゃ。
何かをドアノブに差し込む音。おそらく――鍵。鍵は開いているのだが、もちろん外の人間にはわからないことだ。
そして、鍵をさすということは、部屋に入るということ。
となると――
今の状態は非常にまずい。
ここはノーマンの部屋で今は深夜。そんなところに異性の、というか聖女が転がり込んでいる。
それはどうよというシチュエーションだ。
わたしは反射的に動いた。
わたしが部屋のクローゼットに飛び込むのとドアが開くのは同時だった。
誰かが部屋に入ってくる気配がした。
気配は一歩一歩、まるで薄氷を踏みしめるような動きでベッドに近づいていく。
クローゼットの隙間からわたしは目をこらすがまだ顔は見えない。
だが、わたしは待つだけでよかった。
角度からすれば――その何者かがベッドのかたわらに立てば自然と顔は見える。
さっきまでとは違う理由で、わたしの心臓がどくどくどくと早鐘のように鳴る。汗ばんだ手に力が入る。
気配がノーマンのかたわらに立った。
月明かりにぼんやりと浮き上がった横顔は――
メリッサだった。
何の意外性もない、想像通りの登場人物。
それゆえにわたしは胸に痛みを覚えた。唇をきゅっとひきしめて、暗い気持ちでメリッサの横顔を見つめる。
メリッサはじっとノーマンの寝顔を見つめていた。その手は強く握りしめられている。目を見開いた顔が硬直していた。
きっとあれは――
わたしなのだろう。
少し前に部屋のドアを開けたわたし。きっとわたしはあんな顔と姿勢でノーマンを見つめていたのだろう。
だから、わかる。
今彼女が何におののいていて、何をしようとしているのかを。
メリッサがベッドの横でしゃがみ込んだ。眠ったノーマンの顔がメリッサの顔のすぐ近くにある。メリッサはじっとノーマンの顔を見つめていた。
メリッサの手が伸び、ノーマンの額に触れる。
メリッサは意を決した顔になると、そっとノーマンに自分の顔を近づけ――
あ、あ、あああ!
だ、ダメだから!
それはよくない!
やめてやめてやめて!
いろいろな、否定の言葉がわたしの頭の中にあふれかえった。
止めなきゃ!
わたしの感情はそう叫ぶけど、冷静な部分がこう反論する。
でも――何の権利があって?
そうだ。
わたしはただのノーマンの幼なじみなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
そのわたしに、やめてくれという権利はあるのか?
クローゼットのドアに押し立てた手に力がこもった。
噛みすぎた奥歯が痛い。
わたしはどうすればいいのだろう?
この状況をこんなところでじっと見ていることしかできないの?
なんて思っていたときだった。
かちり。
そんな音がして――
わたしの入っていたクローゼットのドアが開いた。
どうやらわたしはあまりにも前のめりになりすぎていたようだ。前にかかった体重はクローゼットのドアを押し開けてしまった。
「あっ!」
思わずわたしは叫んだ。
どさっ。
四つん這いになって身を起こす。
見上げたわたしとメリッサの視線が交錯した。