Folge 2 : Erwachen
軟く吹き抜く風。
風に戦ぐ木々の緑。
緑を掻き分け差し込む光。
光を受けた草々の雫に煌めく土。
梢に佇み囀る鳥々。
草木が広在する此地では、僅かな音だけが反響し、時間の流れさえ緩伸である。大凡、社会から隔絶されたといえる空間で、其処に巣くう生命は皆、各々の現在を謳歌しているようだ。花は唄い、草は躍るよう。小さきもの達もその生を全うしている。そんな空気に中てられて、伏したる者は目覚める。
——..........
重厚なる目瞼がゆっくりと開かれる。その眼は焦点を定めず、其処に在るが儘である。軈て眼が順応してくると、状況を確認する余力が出てくる。
——.......ここは、
伏したる者、Jörg Bergmannは横になったまま何とか目線を動かすが、土枝の茶色と草葉の緑色が広がるのみである。
——.......森?
Jörgは視た物を呟くのみであった。彼の視界は明瞭だ。そのことが彼の認識をより困惑させた。嘗て自分が居たはずの世界が此処にはなかったからだ。未知なる事拠に脳の理解は空転している。
未だ夢見心地である。嗅ぎ慣れぬ青草の匂香、陽光を広受し、しかし冷然たる地面、其処に散咲する未見の草花......それら全ては非常であった。眼前が見慣れぬ情景で覆われてしまっている。脳が理解すべき事柄は、此処には余りに多い。そうして、五感を通じて否応なく侵入してくる多量の未知は激流を形成し、脳で洪水たる倒錯を引き起こした。処理可能な情報量を著しく超過した結果、脳は理解の消化不良に陥ってしまった。思考回路は短絡し、正常な電気信号さえ泥流の彼方である。溺沈した命令系統は、Jörgの起き上がる意志を伝達できない。そして、それらが疾呼する非常事態の警鐘を、しかしJörgは認知できない。今の彼は、"分からないということ"さえ分からないという、正に倒錯する螺旋の浮墜であった。
そして、記憶の欠落もこの事態に拍車を掛ける。今に至る前後の記憶がなく、自分が何故此処にいるかを理解できない。比較対象も、納得のできる一連もない。目覚めたらこうなのでは、抑も対処の仕様がない。死角からの想定外に太刀打ちできるほど、彼は成立してはいないのである。果たして此処は夢か現実か。辛うじて動作する僅かばかりの思考は、本能的に現状からの逃避を試みた。
——本来の居床に繁茂する森緑は無いはずだ。岩と山が互存する黄土色の大地であったはずだ。眼前の光景は成立し得ない。ならば夢幻の類か?しかし、全身を沁走する事象はその悉くが痛烈に現実だ。ならばやはり現実なのか?しかし、此の光景は成立しない——脳は自らに語る。しかし、それは即座に千日手となる。既に短絡された回路からは自力では抜け出せない。
空漠たる現夢、茫茫たる世界、縹緲たる自己。彼を斉襲する余多の不確実は、最早彼の人格さえも圧壊しようとしていた。
そして、その思考の濁流に、新たな一石が投じられる。
WUUUUUUUUFF!!!
咆吼震響、けたたましい鳴き声が周囲を揺振する。その雄叫びは周囲の生命に逃動を促し、その殆どは逃走した。Jörgは、空気が急激に低冷し、風の表情さえ鋭寒となるを錯覚する。彼は死角からの突然に魂消てしまうのだが、その余りに強い衝撃は彼の脳内から全ての疑問を追放し、結果として彼は思考を獲得したのである。しかし、筋肉の緊張は依然解除されず、上体を起こすので限度であった。その状態で、Jörgは轟啼の発生元を視上げる。
其処には、見慣れぬ獣が一匹。
獰猛な黄眼、鋭堅に反り返る牙、逆立つ濃灰色の毛並み、その旺々たる佇まい——狼ともとれるその姿形は、しかしその何れもが特異質を放っている。Jörgは、瞬時に眼前の猛獣が現世のものでないと確信し、数刻後の痛酷な未来を予知した。
——逃げ、なければ。
Jörgは行動を試みた。しかし、筋肉の緊縮は未だ快復する気配を見せない。動けない。その事実が、彼を一層と強張らせる。全身を悪寒が駆け巡り、Jörgはいよいよ自らの絶命を実感した。猛獣はJörgを鋭く睨視する。
WRRRRR....
猛獣は鈍く唸っている。そして、それはゆっくりと接近してきた。全身を走る悍慄にして、Jörgは最早神に祈る事しかできなかった。
——万夫不当たる神よ、、私は、我が生命を、絶する窮地におります、、我が四肢は、恐怖に迫害され、我が思考は、平然を、失っております、、神よ、私を、この危機から、お救い下さい、、神の威光によって、この災いを、お祓い下さい、、私が、以前の平穏を、取り戻せるよう、お導き下さい、、
凡そ祈りと呼ぶには滅裂であった。全身は震え、しかし手は固く結び、涙し、嗚咽を吐きながら祈りを捧げていた。目を瞑り、震えた声で来る瞬間に備えることしか出来なかった。
猛獣は依然唸りながら、その間合いを狭めている。
——主、Jesus Christusの、御名に、依って祈ります、
祈りは届かず。猛獣は四肢で地面を強烈に叩き、Jörgに向け跳躍した。眼前の生命をを噛砕せんと開口する様は、底見えぬ人呑み渦流の様相を呈する。血走る鋭眼は大きく見開かれた。死を覚悟したJörgは事の顛末を神託し、叫んだ。
——Amen!!!
血肉引き裂かれんとするその時、Jörgの予想だにし得なかった事象が発現した。
そしてこれは、孰れ邂逅するであろう宿命に抗斥する"1"と成り得るものであり、これは只の序章に過ぎない。
1つの運命が、天解する。