Folge 1 : Aussteiger
俺はなぜ生きている?
破砕される鉱岩、撒き煙る粉塵、老灯する松明——凡そ生命の跳動のない洞道で青年は鋭鉄を振う。静厳たる岩壁に得物を打ち付け、崩し、欠け剝れた岩々を台車に積み上げ、それらを坑外に運び置く。青年は、眼前の黒岩の用途を知らない。それでも、これらが名も知らぬ誰かが欲しているということは分かる。彼らはそれらに役割を与え、それらはその効益を期待されている。それらはその誰かにとって必要である。
——なら、俺は?
荷積みを終えれば、持ち場へ戻る。そこには、自らに抉削されていた筈の岩壁が、しかしその重厚を崩さずに聳在している。先程までの行動は幻嘘の類であったと錯覚させ得るほどの、暗く強い面影を見せている。此れを前にして、しかし青年の表情は微動すら起こさない。現実を憂うことに意味はないことは既に体感している。与えられた業務を遂完させること以外に、彼がすべきことはない。
——俺は、何だ?
只々仕事をこなせばいい。それが役割だ。
——俺の生きる意味は、何だ?
深層心理の痛烈な慟哭は、しかし青年には到達しない。内なる叫びに耳を澄ませるほど、彼の作業は安楽ではない。彼にとっては今日の役割を終えることが現状の全てである。
ここは1710年のプロイセン王国。その片田舎にある炭坑で、青年は今日も鶴嘴を振う。
夕刻。作業の終了を告げる鐘鳴が鉱洞に響くのを聞き、各々はそれぞれの住処へと戻る支度を始める。青年も同様に帰路に着く。その間、青年と他の鉱夫との間に会話はない。彼らにとって青年とは同地の仕事場にいる誰かの内の"1"であり、それ以上の意味も、わざわざ交流を深める必要もなかった。青年にはJörg Bergmannという名前があるが、彼を識別する状況がないため、此れは殆ど機能していなかった。彼らは青年=Jörgを一個体の人間として認識していなかったわけだが、Jörgはこの状況に対しては何の劣情も抱いていなかった。彼は家庭と職場以外の社会を知らなかった。そして、知らないが故に仕事場とはこういうものだという或る種の思い込みが発生し、然してこれが彼の精神を支助しているのである。必然、彼がこの事を知覚することはない。彼は家に着いた。
リビングに入ると、テーブルの上の、皿の上にサンドイッチが置いてあるのが見える。Jörgはそれを確認すると、椅子に座りそれらを食べ始めた。プロイセン国民の夕食は一見にして質素であるが、彼らにしてみればその後は寝るのみであるからこれで問題ないのである。食事は先に取るよう家族には言ってあるので、Jörgの夕食は凡そ一人である。Jörgの帰りが特段遅いわけではなく、少し待ってもらえれば一緒に食事を摂ることは十分に可能である。そも、1年前まではそうだった筈だ。しかし、彼はそれを自ら拒み、家族にもそれを要請している。一度でも父、母、1人の弟と自分の全員でテーブルに集まってしまえば、Jörgは否応でも現在不自然な空間を認識しなければならなくなるからだ。今のJörgにとっては、食事の時間が一日で最も彼を陰鬱とさせる。Jörgは通常通り即座に夕食を摂り終えた。
入浴を終え寝床に着くと、彼の弟=Fritzは既に眠っていた。JörgはFritzの穏やかな寝顔を見て、今日を安堵した。今日も無事に終わった、と。その右隣にあるベッドを見て、しかし元の暗寒たる顔に戻る。また今日が終わってしまった、と。そうして明日を憂いながら、Jörgは左端のベッドで眠りについた。
その日は、厚い暗雲が天を覆う暗い空気だった。いつになく風が強く冷たい。寧ろ、無雨であることが信じられぬ程の朝に、しかしJörgは関心を示さなかった。
....いや、関心を示したくなかったというのが正しい。彼は"その可能性"など微塵たりとも考慮したくなかった。何がどう変化しようと今日の行動に変化はないはずであると、Jörgは半ば暗示のように思考しながら現場へ向かった。然して、Jörgは炭坑の入口に到着し、仕事場での今日が恙なく、
....始まるはずだった。
突如、激鳴と共に暗雲がうねり出した。無数の稲妻が空を駆け走り、風は強く吹き荒れる。その轟雷は大地を揺るがす程に強威であり、空気は瞬時に張り詰めた。周囲の民衆が我が目を疑う光景に慄く中、 Jörgの脳裏は即座に"逢時"の光景を再生した。
——あの時と、同じだ。
重雷は軈て地上に鈍撃を落とし始め、その度に地面は唸りをあげた。人々はもはや震え泣くのみであった。Jörgも同様であった。足が震え、息が荒くなる。目の前の情景はまるであの時の再現である。あの時の一連が復唱される。そのとき、Jörgは彼自身の弟のことを意識した。
——....Fritz!!!
脳内で反響を繰り返す悪夢の可能性を再現させてはいけない。せめて弟だけは。Fritzだけはそうなってはいけない。Jörgは走り出そうとした。想像し得る最悪を現実のものとさせないために。
しかし。
轟雷一閃。打ち出された威雷は鉱山の岩壁に激突し、その超大なエネルギーは山肌を容易く剥抉した。そして、放墜する岩石はJörgに向かい進群した。
襲来する数多の大岩共を眼前にして、Jörgは本能的に死を覚悟した。Jörgがそれらと邂逅するまでの数刻、Jörgの脳は驚くべき速度で動作し、彼自身に対して冷静で無情な事実を叩き付けた。
「結局、人は死ぬ。環境の気まぐれによって、生命は簡単に終わりを迎える。それは今も"あの時"も変わらない。高々俺1人がどう思おうと、人も自分も救えはしない。俺は誰をも、自分すらも守れない程に脆い"1"だ。」と。
Jörgは一瞬で絶望した。そして、途絶える刹那、彼は今迄に刻まれた全ての記憶を反芻した。
父の記憶。
母の記憶。
弟の記憶。
そして、彼の瞳に最後に映ったものは、在りし日の兄の姿と、堪え難い程の眩光であった。