あたし、へタレる。【閑話休題】
永津香織陸士長は今年28歳になる。
短大を出て中堅の商社に事務職として入社。5年勤務の後に退職し陸上自衛官となる。
自衛隊の採用試験はいくつか種類があるが、永津が受験したのは二等陸士の採用試験で、諸外国では二等兵に当たる。陸士は二等、一等、陸士長の三階級があるがこれは任期制隊員となり1任期2年として2任期までしか勤務できない。民間で言えば期間限定採用の契約社員に近いかもしれない。三等陸曹の昇任試験を受験し、合格すれば任期無しの隊員となれる。ただそれなりに狭き門となるが。
永津は現在2任期目となる。後1年で任期満了になってしまうのだが、昇任試験は受験するつもりでいた。しかし今ではその決心も鈍っているのだが。その理由と言えばー
「ね、ながっちゃん本当にいいの?」
何が?と言いながら生ビールをごくりと飲む。
ここは駐屯地からほど近い居酒屋で、部隊御用達のようなお店だ。今日はたまたまなのか自衛官らしき客は自分たち以外いない。カウンターで並んで座っているのは事務官の工藤明子だ。
自衛隊には永津のような自衛官と、事務を担当する防衛省の事務官が存在する。事務官は防衛省の職員ではあるが自衛官ではない。このあたりの区別は部外者にはなかなかわかりにくい。
工藤は永津同様民間からの転職組で、この駐屯地に配属されたのも同時期で同年代であった。その為何かと気が合いつるんでいた。今日は工藤から誘われ飲みに来たのだが。
「だからさあ、赤森はんちょ。辞めて今どこにいんの?」
「北海道」
「そうそう、北海道。離婚してせっかくのチャンスをさあ、あんた指咥えて棒に振ったじゃない」
「べっ!別に!班長の事なんか何とも!何とも!何とも思ってないんですけど!」
「あーはいはい。そんな声上ずらせなくていいから。ツンデレ乙」
「ツンデレじゃないし!」
「てか赤森はんちょもニブチンよねえ。あんたがあれだけ好き好き光線出してるのにスルーだもんねえ。スルー検定上級かよっての。」そう言うと生ビールの残りを一気に飲み干す「おやっさーんおかわりー」
はいよと大将が返事し、すぐに生ビール大ジョッキがどかんとおかれる。この店には小ジョッキなどという生易しいものは存在しない。ましてやオサレ(笑)なグラスビールなど口の端に乗せることも許されない。大ジョッキがデフォルトの厳しい世界である。
「あたしがいつそんな光線だしたのよ」
「えー、課業中ずっとだったじゃん。ピンク色の。わたし見たもん」
「うー」決してアルコールのせいではなく、耳まで真っ赤にして永津がカウンターに突っ伏す。
「でも赤森はんちょってちょっと線が弱いよねー。元ヤンキーのながっちゃんが何で気に入ったのかはわかんないけど」
「元ヤンじゃねえっての」
「あ、現役か」
ジト目で工藤を見る。確かに若かりし頃に若干やんちゃしていたのは認めるし、そのせいで今でも「永津姐さん!!」と慕ってくれる後輩がいるのが困りものだが。でもそのおかげで赤森班長に不動産屋とか車屋紹介できたからなー。
「これ、遠い目をしない」チョップ。「あのね、はんちょの離婚の経緯は知らないけど女に傷つけられた男の傷は女でしか癒せないんだよ。ながっちゃんが変に遠慮することないと思うけどなー」
「そう…かな?」
「そうそう、あんたの無駄にでかい乳揉ませれば一発で解決よってっイタタタタ!!ギブッギブッ!!!」
ちょっとほろりとしかけたのに台無しだ。永津は無言でアイアンクローをかけるのであった。
永津が今の駐屯地に配属されたのは3年前である。
駐屯地業務隊に配属され、赤森という班長の部下になった。初対面での印象は「自衛官なのに線が細い」であった。
「永津は事務経験ありだよね。期待しているから」
民間企業での勤務経験があることを買われ、程なくすると仕事量が増えた。鬼のように増えた。線が細い班長は別に甘いわけではないらしかった。
「永津、ちょっといい?」
ある日仕事中に休憩室に呼ばれた。
「この間の書類なんだけど一か所数字が間違ってた。」
見せられた書類のかなり重要な部分の数字が間違っていた。
「も、申し訳ありません」
「うん、永津も仕事慣れてきてるけどそろそろ気が緩む時期でもあるからさ。気ーつけて」
「は、はい」
「じゃあこれでも飲んで一服したら仕事に戻ってね」
「はい。あの」
「あれ?ブラックって嫌いだった?いつもこれ飲んでるでしょ」
確かに缶コーヒーの甘ったるさが嫌いでいつもブラックを飲んでいた。まさかそれを班長が知っているとは思わなかったが。
「ありがとうございます」
飲んだ缶コーヒーは何故だかちょっと甘い気がした。
きっかけ、と思うとこの事がそうだったような気がする。
何となく、何となくだがいつも赤森班長を目で追ってしまうようになっていた。彼は相変わらず線が細く迷彩服を着ていても自衛官には見えない。部下を怒鳴りつけるような事もなくそれでも部下を掌握しているという不思議な班長であった。
「あ、あの何で私は失敗しても叱られないのでしょうか」
「叱ってほしかったの?」
「そうではないんですが」
「失敗したときはね、本人が一番反省しているんだよ。叱られるとそれで満足して終わりになっちゃうからね」
何かの本で読んだ受け売りだけどね、と笑う赤森班長に永津の乙女回路はずっきゅーんと狙撃されてしまったのであった。好意を自覚したものの上官ということで積極的になれない。姿を見て悶々とするだけの日々が続いたのである。
「ご結婚…ですか」
「そう、ようやくだよ」
女っ気のまるでなかった赤森班長が結婚するという。永津は一瞬何を言われているのかわからなかった。「おめでとうございます」かろうじて笑顔でお祝いが言えた。だが、その日はふわふわっと自分から魂が抜け出たような感覚でその後何をしていたのか思い出せない。後日結婚式で初めて新婦を見た永津は、この女は班長の事を愛していないと思った。この直感は2年後に当たってしまうのだが。
「は、班長。いい家は見つかりましたか?」
時は過ぎて赤森の送別会。
駐屯地そばにある居酒屋の座敷を貸し切って盛大に行われた。
初めはお行儀よく座っていた隊員たちだったが、すぐ無礼講状態になるのはいつもの事である。永津はさり気なく赤森の隣をキープしていた。勿論キープしただけで何をするわけでも無くちびちびと飲むだけである。初めは隊員が入れ代わり立ち代わり赤森へ酒を注ぎに来ていたがいつの間にか二人の周りは無人状態になっていた。その代り、永津がどう行動するのかその場にいた全員が気にしていた。彼女が赤森に惚れているのは周知の事実で、さっさと行動しろよと思っていたのだ。
「紹介してくれた不動産屋さんは田舎物件に弱いらしくてね。他の不動産屋さん紹介してくれたんだ。来週物件見に行くつもりだよ」
「そうですか、どんなおうちなんですか?」
「バンガローだって。結構広いらしくてね、独りじゃ持て余しちゃうかもしれないけど」
「そっそっそれじゃあ!わっわっわおーんっ」
「酔っちゃった?飲みすぎたかな?」
それじゃあ私が住んじゃおうかなあと言いたかったのに緊張のあまり不審者になってしまった永津を、赤森は心配そうに見る。
「いえ!そんな事はございません!」
「もう、ながっちゃん何やってんのよ」
ハイペースで飲んでいるにも関わらず、全く酔った様子のない工藤がにじり寄る。
「赤森はんちょ、せっかくなんでながっちゃんと写真撮りましょうよ」何がせっかくなのか全く説明しないまま永津からスマホを取り上げる。
「はーい、入りきらないのでもっと寄ってくださーいもっとねー」「いや工藤さん寄りす…」「入りきりませーん!もっとがばっと寄ってくださーい」
永津の肩に赤森の肩が触れる。肩から全身に熱が回るような気がした。
「ほれっせっかくだからはんちょに写真送ってあげなさいよ」
ぽいっとスマホを返される。写真を見るとがちんがちんに緊張した自分と、普段通りに微笑む赤森の姿が写っていた。
「永津、よかったら俺のスマホに送ってくれる?」
「は、はいっ!」
緊張のあまり何度も操作ミスをしつつ、写真を送るのであった。
「あ、あの。時々連絡してもいいですか?」
「勿論。暫く仕事しないから俺暇だしね」
「おめーはよーちゅーがくせーかっての」
送別会の時に撮った写真を見ていると工藤が絡んでくる。
「な、何よ」
「ながっちゃん本当に残念クールビューティだよねえ」
「残念言うな」
「あんた有休何日残ってる?」
「へ?フルに残ってるけど」
「じゃあ来週からまとめて取りなさい。で、北海道に行きなさい」
「え????」
「業務隊長はおっけーだって」
「ななななななな」
「赤森はんちょに会いたくないの?」
「…会いたいです」
「なら素直になんなさい。駐屯地でうじうじしてても仕方がないよ?」
お土産は某有名バターサンドでねと工藤は笑う。
「…工藤、ありがとう」
「いいのよ。業務隊長からうぜえから早くなんとかしろって言われっイタタタタタッギブッギブッ」
色々台無しだよと工藤に再度アイアンクローをかける永津だった。
ながっちゃんの話は間に入れるかどうか迷ったのですが、こういうお話も好きなので入れてみました。
本筋にどう関わって来るのかお楽しみに、というところですね。