二百万人殺人事件
「先生、先生!」
ドンドン、と叩かれる扉の音で、私は目を覚ました。眼鏡をずらしたまま、机の上の置き時計を確認する。午後四時二十三分。まずい。締め切りをとっくに過ぎている。私は右のレンズを指圧で叩き割った。
「先生、起きてください!先生ってば!」
「うぅん…むにゃむにゃ…待ってくれ…今開ける」
動揺を隠せないまま、私は書斎の扉を開けた。案の定、そこでは阿修羅像のような表情をした担当の末次が待っていた。阿修羅像は私の姿を見るなり、首根っこを掴んで叫び始めた。
「原稿は!?出来たんですか!?『二百万人殺人事件』の!?」
「お、落ち着け…大丈夫だ!今ちょうど、百九十六万人目の密室トリックを思いついたところだ!!」
私の言葉に、彼女は絶句した。ようやく解放された私は、不覚にもその場にへたり込んでしまった。
「どうするんですか先生!?先週号に、あれだけでかでかと最終回の予告載せておいて…!」
「げっほ…ゴホン!ふぅむ…いけると思ったんだがな。まだ誰もやっていない推理小説…『二百万人殺人事件』…」
「何でいけると思ったんですか!?大体、多すぎるんですよ登場人物が!」
「何を今更…ゴーサインを出したのは君じゃないか」
「それは、先生が出来るって自信満々に仰るから…」
同じように扉の前でへたり込み、涙を浮かべる担当を私は哀れに思った。まさか私の言葉を、素直に信じてしまうとは…。
「ふむ…だが、仕方ないだろう。もう連載は始まってるんだ。来週までに、何とか解決編を作らなくては…」
「無理ですよ!そもそも、今まで散々二百万人も無抵抗に殺されておいて、解決もへったくれもないじゃないですか!」
確かに。彼女の言うことももっともだ。感心して頷く私に、末次は呆れ顔で鞄から手紙の束を突き出した。
「何だ?それは…」
「先生への、ファンレターです。まあ、言い変えれば先生個人への誹謗中傷、罵倒の数々です」
「ふむ。読んでみたまえ」
流石に連載も続くと、色々なファンが騒ぎ出すものだ。髭を撫でる私を冷たい目で睨みながら、末次が手紙を読み上げていった。
「…埼玉県、Kさん…『こんなのは推理小説じゃない。貴方は推理小説を馬鹿にしている』…」
「S子さん…『これはもはや、殺人の域を超えている。戦争、いや大量虐殺に近い』」
「T朗さん…『七十五万八千六百十四人目の被害者が、私の父と同姓同名だ。今すぐ変えてほしい』」
「…『今すぐ小説家を辞めろ』」
「…『死ね。金返せ。二百万返せ』」
「『お前を二百万回殺す』」
「原稿を出せないのなら、看板を下ろせ」
「『失望しました。ファン辞めます』」
「もういい。…確かにたくさん来ているようだな」
私は末次を手で制した。よく見ると末次の後ろには、段ボールが山積みで置かれている。家の廊下を埋め尽くしたファンレターの箱を見て、私は溜息をついた。
「まだまだありますからね。今夜中に十トントラックで運ばせますから」
「それは…楽しみだな」
「もう!どうするんですか?先生!?」
末次が泣きそうな顔で叫んだ。私は立ち上がって、彼女の背中を押した。
「分かった、分かった!とにかく、明日まで待ってくれ!私も小説家の端くれだ!必ず二百万通りのトリックを作り抜き、この事件を解決させてやる!」
「何をバカな…先生!?先生ッ!?」
私は口からでまかせを言い放ち、末次を書斎から締め出した。
数時間経ち、彼女が諦めて帰った後。私は篭城していた書斎の窓から、ちらりと外の様子を眺めた。私の家の前で五、六台のトラックがひしめき合い、渋滞を起こしている。次々と家の中へと運ばれてくる段ボール箱を、私は眼鏡をずらしたままぼんやりと眺めていた。
全く、ここまで読者の反感を買ってしまっては、むしろ何が何でも完結させたくなってくる。逆にやる気が沸いてきてしまった。急いで机に向かうと、私は三日ぶりにパソコンのスイッチを入れた。
見ていろよ。絶対にあの担当の小娘の、度肝を抜いてやるからな。
そう意気込み、私は二百万通りのトリックを鬼人の如く書き記していくのだった…。
「そして次の日、貴方は彼の自宅に原稿を催促しに行った、と…」
「ええ…その時でした。約二百万人分のファンレターに押し潰されて、死んでいる先生の遺体を発見したのは…」