ある「いじめ」の形
2010年の拙作。再掲載。
「いじめなんてなかったですよ、先生。そこにあったのは、いじめなんていう稚拙なものではない。制裁、拷問。王、神からの裁きなのです」
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雨粒が顔を打つ衝撃で目を覚ます。屋上で、仰向けに大の字になって寝ていたらしい。殴られた右頬が痛むが、さすってやると少しましになった。
校舎への扉は内側から鍵を閉められたようで、開かない。最近はあらゆるところで在校生徒による自殺騒動があるせいで、全国的にどこの学校も屋上は立ち入り禁止になっているから、学校が雇っている警備員も、僕の存在には気づかないだろう。また、朝までここで過ごすことになる。
高校に入って、急にこんな生活が始まったというわけではなかった。僕は小学生の時から、常にいじめの対象にあった。暴力も、辱めも、大方の「いじめ」というものは受けてきたから、いまさら、屋上に閉め出されたくらいで泣いたり、喚いたり、絶望したりなどはしない。ましてや、自殺など、僕はしないだろう。人間は生まれた時点で何かしらの役割を抱えている。たまたまそれが、僕の場合「いじめられっ子」だっただけなのだ。
次第に強くなる雨に打たれながら、僕は灰色に染まる遠くの街を眺めていた。逃げたい衝動はいつもあったが、どこに、どうやって逃げればいいのかなんて、僕は知らなかった。
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「彼には、拭えない罪があった。だから、その裁きを下したんです」
三ノ宮は坦々と語り出す。その真っ黒な瞳がどこを見つめているのかわからないが、ここにいる、私や、机なんて物は見ていないのだろう。
新米の私が早々に担任を任されたのは、折悪く、それまで勤めていらした藤森先生が体調を崩されたからだった。私は本来藤森先生の下で副担任としてこのクラスを持つことになったのだが、彼の入院後、他に臨時に回せる教師がおらず、繰り上げで私が担任となった。一か月副担任として見ていた三年一組は、まじめで、温厚で、努力家の集まりだと私は考えていた。中でもクラス長を務める三ノ宮和史は成績も、生活態度も、他の生徒に比べて抜きんでて良かったのだから、私は繰り上げ当選の担任だったが、どこか安心していた。
クラスでのいじめが発覚したのは、藤森先生が亡くなられた直後だった。梅雨の時期に入り、ジメジメと湿気に絡められた生徒たちは、定期試験が重なったこともあり、苛々としていた。欠席をする生徒が増え始め、特に鈴木史郎は、藤森先生が亡くなってから一度も学校に姿を見せなかった。
告発文は、出席名簿に挟まっていた。定期試験の明けた六月下旬。コピー用紙に印刷されたワープロの文字は淡々といじめの真実を告げていた。
「このクラスにはいじめがある。ターゲットは鈴木史郎。このクラスは可笑しい。狂っている。あなたが担任だというのなら、助けてほしい」私は印字された文字をそのままに読んだ。「今朝出席名簿を開けたら、このような紙が挟まっていた。先生は、犯人が誰であるとか、どうして鈴木がその被害者になったのかに興味はない。ただ、いじめがある事実は、見過ごせない」
シンと静まる朝の教室に、スッと布のすれる音がしたかと思うと、三ノ宮はまっすぐに右手を上げてこちらを見ていた。
「このクラスにいじめはありません。僕たちが鈴木をいじめる理由は、どこにもありません」
誰も声を上げず、目を伏せ、彼の言葉を聞いていた。私はその違和感が、どうしても気になってしまった。
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翌日の朝になって、彼らが屋上の鍵を開けに来た。餌だ、と投げられた裸のコッペパンを、それでも僕は嬉しく思ってしまった。
「きたねえ」
「さすが犬だな」
「お前はクズだ」
上から突き刺してくる言葉を無視しながら、パンに食らいついていると、彼が、僕の髪を掴んで無理やりに頭を起こさせる。抗いも、困惑も、苦痛もない。僕はまっすぐに彼の目を見る。昨日見た空のように真っ黒な瞳に、僕の姿は映らない。
「お前は、可哀想だ。みじめで、哀れで、生きる価値もない。でも、俺ならお前に生きる価値を与えられる。俺なら、お前を生かせてやれる。嬉しいか?」
彼の言葉に、僕は大きくうなずいた。
掴んでいた髪を離すと、彼は無言で屋上を出ていく。それに付いて行くように、悪態をつきながら、唾を吐きながら、他のものが消えていく。安心も、なにも、そこにはない。僕はただ、空腹を満たすためだけにパンを食べ続ける。
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告発文をくれたのは、鈴木の幼馴染の安藤美香子だった。放課後にひそひそと私を保健室に連れていくと、あの手紙はわたしが挟んだの、と白いベッドの上から細い足を垂らしながら言った。安藤はクラスの中で控えめではあったが、存在感のある女生徒だった。スーパーサブ、とでもいうのか、補助や連結のうまい子だった。きっと正義感も人一倍で、私の常日頃から伝えてきた熱意に、共感してくれたのだろう。
安藤はそれから、私にもベッドの上に座るように指示し、ゆっくりと話しだした。
「犯人は、首謀者は、はっきりとはわからないの。でもクラスの皆が、三ノ宮くんじゃないかって言ってる。いや、三ノ宮くんだと、理解している。いじめが始まったのも、彼が作ったクラスのサイトの掲示板での書き込みが始まりだったの」
鈴木が授業中におならをした、裏庭で見つかった黒猫の死体は鈴木がやったものだ、階段を上る女生徒を見上げてはニヤニヤしている、などという、くだらない、些細な書き込みが最初であったという。それまで、自分が誰であるかをわからせるハンドルネームを付けるのが、そのサイトでの暗黙のルールだったのだが、それらの書き込みは誰が書いたのかは不明であるという。なりすますことも、通りすがりを装うこともなく、ただ意味のない文字の羅列を付けられたその書き込み人は、あることないことをひたすら書いていった。
高校三年生。それまでの担任が体調不良で入院、それまで教室の隅でただ眺めているだけだった副担任の若い教師が急に担任を名乗って現れたのが、彼らにとってはそれほどまでに苛々を募らせる原因となったのだろうか。明確に、そのような書き込みが増えていったのは、ちょうど担任が私に代わってからだと、安藤は申し訳なさそうに言った。
「三ノ宮くんは最初、そういう書き込みを全て消していたの。いや、ずっと、ちゃんと、消してはいるの。でも、それが、嫌にペースが遅くて、あからさまに、皆が見てから、消している。だんだん皆もそれに気付いてきて、三ノ宮くんに恐怖を、感じ始めた。最初は馬鹿を演じて、彼に付くものもいたの。便乗、というか。でもその内、皆、ただ恐れるだけになった。三ノ宮くんの陰湿ないじめに、恐怖していた」
――
教室に戻ると、クラスメイトの目が一斉にこちらを向いたのが分かった。一瞬にして巡らされる思考を、ひとつひとつ拾うことなく、僕は理解する。「なんでお前がここに来るんだ」そう言っているのだ。
与えられている席に着こうと思ったが、そこに机はなかった。ぽっかりと開けられたスペースに、僕はただ立ち尽くす。
「なんか臭くない?」
「うんこみたいな臭いすんだけど」
「誰だようんこ漏らしたの」
女生徒がわざとらしく言い出したのをきっかけに、クラスはざわめきだした。僕は、クラスのちょうど真ん中の、すっかり空いたエリアで、呆然としてそれを聞いている。何かを考えることは、負けなのだ。僕は僕である以前に、彼の、彼らの、クラスメイトの、いじめられっ子なのだ。
右足の腿のあたりに痛みを感じたと思うと、周囲から一斉に物が投げられた。「うーんこ! うーんこ!」という下劣な掛け声とともに、教科書、筆箱、果てにはカッターや鋏が、僕の方へ飛んでくる。痛い、痛い。そう叫べば叫ぶほど、彼らは狂喜乱舞するのだと、僕は知っていた。
チャイムが鳴ると、皆が一斉に静まって、投げていた物を拾い出す。僕はその中心で痛みにこらえながらうずくまり、早くこの呪縛から解き放たれないか、それだけを願っていた。
――
三ノ宮を呼び出すと、彼は面白そうに笑いだした。
「やっとわかったんですか。どれだけ前からやっていたことか」
「お前は自分が何をしているのか、わかっているのか?」
「先生は、僕が、なにをしたと思っているんですか?」
「いじめだ。くだらない、下品な遊びだよ」
「いじめ」吟味するように、ゆっくりと言ってみせた三ノ宮はそれでもまだ笑いだしそうな声音で続ける。「いじめなんてなかったですよ、先生。そこにあったのは、いじめなんていう稚拙なものではない。制裁、拷問。王、神からの裁きなのです」
「神様ごっこか、それも十分に稚拙じゃないか」
また、ゆっくりと笑うと、三ノ宮はふっと窓の外を見てから、私に向き直る。
「先生は新任の教師だから、この学校であったある事件のことは、知らないですよね」
それから、淡々と語り出すのだ。
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担任の教師でさえ、僕の存在はまるでないように、出席を取る時でさえ、あからさまに名前を飛ばす。
授業もなにもあったものではないから、帰ろうとすると、彼が、引き留める。カッターをちらつかせながら体育館のトイレまで連れてくると、そこで服を全て脱がされ、カッターで切り刻まれる。制服も、下着も、無遠慮に細々となっていく。僕は悔しかったが、泣いたら、負けだと知っている。
可哀想なお前に、これをやるよ。彼はそういうと、一つのロッカーの鍵を僕に見せつける。
「クラスの、清水のロッカーだ。すっぽんぽんはあまりにも可哀想だ。清水の体育着でも盗めよ」
投げられた鍵を、僕は大事に両手で包みこんだ。
廊下を走ると、悲鳴と、笑い声が、どこからともなく聞こえてくる。当たり前だ。体育着を盗んだにせよ、これは女生徒用の物なのだ。それも、清水というと、学年で一番か二番に可愛いと言われている女子だった。
彼のやることは、稚拙だった。今までのどのいじめよりも、稚拙だった。
家に帰ると、弟が体育着姿の僕を見て、悲しそうな顔をする。今までは、どんなに傷や痣を付けてきても、しっかりと制服は着て帰ってきていたから、弟にとっても、この格好はショッキングだったのだろう。成績も、顔立ちも、人望も、僕とは全く真逆の位置にいる弟にとって、こんな兄は、情けなく映るだろう。
「ごめん。お兄ちゃん、お前にまで、情けない思いはさせたくない。ごめん、ごめん、和史」
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「鈴木は、三ノ宮をことごとくいじめていた。稚拙なやり方だ。暴力なんてものをいじめだと思っている彼には、脳みそなんてないんだろう。脳みそなんてものがないから、彼はついに、三ノ宮を死に至らしめた。三ノ宮は精神的に苦痛を覚えるタイプの人間ではなかった、彼は幼い時からそういう境遇にあったから、もう心を棄てていたんだ。三ノ宮の死因は、頚部圧迫による窒息死。体育倉庫のマットにくるまれたまま、翌朝まで誰にも発見されなかったために、死んだんだ。鈴木は、ただ、自分の彼女を三ノ宮が触ったというそれだけの理由で、彼を殺した。触れたのだって、ただ、三ノ宮が彼女の落としたシャーペンを拾ってあげた時に触れてしまっただけだ。二言三言会話をしただけで、醜く嫉妬し、いじめ、殺した。鈴木は、鈴木卓也は、僕の兄、三ノ宮優斗を、それだけの理由で殺したんだ。僕は少年院にいる鈴木卓也に何度も手紙を書き、面会に行った。じわじわと、彼の精神をいたぶった。あいつは馬鹿だから、ただ通うだけで相当に衰弱し、結局院内で首を吊って死んだよ。でもそれだけで、鈴木の罪は清算されない。彼の犯した愚かな罪は、弟が、代わりに負担する。兄の受けた無意味な暴力は、弟が、代わりに復讐する。最初は、僕の作ったサイトでくだらない嘘を書き続けた。なんでもよかった、彼が不快に感じ、そして僕が彼に嫌がらせをしていることを皆に知らしめることができれば、良かった。それでなくても、この学校で起きた事件のことは、在校生ならば皆知っている。体育倉庫への一般生徒の立ち入りはずっと禁止されているからね。彼らは僕に恐怖心を持つ。そして、兄のかたき討ちをしているのだと気づく。そうなれば、どいつもこいつも簡単に言うことを聞くよ。でも誰にも暴力はさせなかった。無視をさせ、不安感をあおり、精神的に、ゆっくりと殺そうと決めていたんだ。鈴木は兄も弟も馬鹿だからね、馬鹿は考えると、すぐ陥る。引きこもりを完成させるのなんて、簡単だったよ。それに鈴木は、藤森を尊敬していた。藤森だけは、このクラスの状態を可笑しいと、言っていたからね。そのせいで去年はなかなかうまくいかなかったよ。でも先生がこのクラスの副担任としてやってきてくれたおかげで、邪魔者を排除すれば、先生が繰り上がることは目に見えたから、藤森の体調を、少し狂わせてあげたよ。ああ、先生は、安藤から告発文を貰ったんでしょ、あれも、僕の指示だ。先生は藤森と違ってあまりにも、気づくのが遅いものだから、面白味が無くてね。安藤は多分、今年から全てが始まったように言ったかもしれないが、これは、先生がくるずっと前から、着々と進められていたんだよ。クラスの馬鹿どもは皆、僕の手のひらの上に居たんだ。くだらないよね。くだらない、協調性だよ」
「面白いとか、面白くないとか、そういう理由だけで私に、わざわざ知らしめた、というのは、あまり納得のいく理由ではないな。お前も、そろそろ止めてほしかったんじゃないのか」
「思いあがっちゃいけないよ。先生は熱心なふりをした冷静な人だから、話してみたら面白そうだなあと思っただけさ。それに先生に、この裁きを、止められるのかな」
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冬になった。
私はクラスの騒音を聞きながら、出席を取る。どの生徒も、半年ほど前とは全く違った印象を伺わせる。また、クラスの大半は推薦試験によりすでに進路先を確定させ、年明けにある高校生としての最後の試験を終わらせたら、あとは卒業を待つだけとなる。平穏であった。
安藤はあれから、よく私に話をしてくるようになった。おおよそは保健室登校をしている鈴木のことに関してだった。私は勤務中なかなか時間を作ることが難しく、彼のもとに様子を窺いに行くことができないので、代わりに安藤が伝達係を申し出てくれたのだ。私の要望していた勉強の進度のみならず、生活状況、精神環境、そう言った鈴木の心情まで掘り下げて聞いてきてくれるのだから、担任として目の届きにくいところをカバーしてくれている、全く嬉しい限りなことだ。
はっきりと、クラスに平穏が訪れたのは、夏休み明けだった。三ノ宮和史の死により、全てが無くなった。恐怖も、抑圧も、全てだ。クラスの誰もが肩から荷を下ろしたように晴れやかな表情を持つようになり、鈴木への罪悪感を謝罪という形ですっきりさせ、クラスから異常な空気感は消えた。
だが、私を除いて、クラスの誰もが三ノ宮和史の死について詳しくは知らず、しかしそれを掘り返して聞いてくるものも、居なかった。
私だけが知っている三ノ宮和史の死の真相を、伝えるときはいずれくるだろう。
今はこの安穏な日々を、急遽受け持った三年生たちの卒業を、惜しむように過ごしたい。




