人にやさしく
2012年の拙作。再掲載。
例えば自分にとってはブルーハーツが正義で、武器で、防具なわけだから、バイト先でのどんな理不尽な攻撃も、帰り道に「青空」を唄えば晴れてしまうのだ。
街灯もひと気も少ないこの道路が自分のステージ。観客も照明もないけれど、ブルーハーツの音楽があればここはライブハウスさながらの熱気に包まれる。
と、心地よくいると、頭に何かが当たった。振り返ると歩いてきた道にはなかったはずの紙くずが落ちている。イヤホンを外し辺りを見ていると、ねえ、と声が降ってきた。見上げた先には少女がいて、上半身を乗り出すように二階の窓からこちらを覗いている。
「きみ、いつも歌ってるね。ブルーハーツ好きなの?」
問い掛けに答えるよりも何よりも恥ずかしくなってしまって、下を向く。決まりが悪くて、紙くずを拾う。
「わたしも好きよ、ブルーハーツ。あなたと話してみたかったの、その紙に連絡先書いてあるからメールしてね」
僕は走って逃げた。
結局自分も男だなあと思ったのは、翌日に件の彼女にメールを送ったあとのことだ。連絡くれて嬉しいよ、と彼女は書いていた。それは同じブルーハーツ好きとしてだろう、と一応予防線は張っておく。
見知らぬ人に紙くずを投げつけ一方的に話しかけるだけあって、彼女は積極的という言葉そのものの如く勢いで僕のことをあれやこれやと聞いてきた。名前や年齢、住んでいるところ、家族構成、バイトは何か、休日は何しているか。僕も律儀に一つ一つに答えた。
僕たちが会うのは決まって僕のバイトの帰り道、二階から上半身を覗かせる彼女とそれを見上げる僕、という構図だった。あなたはロミオなの? と彼女は楽しそうに笑う。
ある日に、デートに誘ってみた。今日は天気がいい、散歩でもどうだい、と。しかし彼女は断る。用事があるとは聞いていなかったが、どうしても部屋から出れない、ということらしかった。
それからもめげずに何度も何度もデートに誘ったが、毎回理由を付けては断られた。
僕は彼女を見上げながら、触れたい、と言ってみた。彼女は少し困ったようにしながら、それでも頷いた。今日は本当は親いないの、今ならいいよ、と。
長い間待ちぼうけを食らい、ようやく鍵の開く音がして出迎えてくれた彼女には、両の足が無かった。車椅子に乗っているのは股関節の辺りからで、その下にあるはずのものは見当たらない。
僕はなんとも言えなくなってうんともすんともしないでいると、
「あなたのことは好きよ」と彼女は言った。
「ジュリエットの方が社会的身分は低かったのでした」と彼女は言った。
「生まれたところや皮膚や目の色や足の有無で、いったいこの私のなにがわかるというのでしょう」と彼女は言った。
彼女にとってもブルーハーツは正義で、武器で、防具だった。
僕は走って逃げた。