恐怖症患者1
2011年の拙作。
FILE1、高所恐怖症、高沢幸平
1
最近の寝起きはいつだってこうだった。びっしょりと汗だくになった体に着ていた服がくっつき、私の身動きを少しだけ縛る。春先で、布団はまだ羽毛だ。湿気を帯びて重たくなったそれから這い出るようにもぞもぞと動いて、すぐに上着を脱ぐ。一人のアパートであるから、上半身を裸にしたところで誰にも文句は言われない。狭い洗面台に移動して、蛇口をひねって水を出すと頭からそれをかぶる。三十秒、一分。そうやって数えながら、三分間ただただ水を浴びて、床をびしょぬれにしながらタオルを取って頭を拭く。
今日も寝起きは、最悪だ。
時計を見ると時刻は予定した六時より二十五分ほど早い。ため息を吐く。ゆっくりと準備ができるが、悪夢にうなされて飛び起きた私にとっては、まったく喜べることではない。
雨戸を、なるべく近隣の住宅に気を払いながらそっと開ける。空はもう明るく、雲ひとつない空が青々とまぶしい。何の鳥だか知らないが朝からちゅんちゅんと鳴き喚いているのに、私はまたしても気分を害する。鳥は嫌いだ。優雅に羽を広げ、風に乗り楽をし、人間を、世界を見下ろしている。あいつらになりたいと思ったことなどない。空を飛びたいなんて、馬鹿な話だ。小学生のときに散々歌わされた「翼をください」を思い出して、吐き気すらしてくる。窓を完全に閉め切る。
朝食は決まって食パンだった。意味はない。こだわりもない。ご飯でもいいのだが、こういった朝を迎えるとわかっていて、わざわざ手間のかかるほうを選ぶ必要も感じない。少し焦げ目のつくくらいまで焼いたパンにバターとハムを落として、かじる。
新聞は今日も悲惨なニュースを伝えている。人が死に、誰かが捕まり、社会の上下が、善悪が書かれる。どうでもいい、私には関わりのない話だ。
六時半を少し回ったころに家を出る。今日も電車は満員だろう。それに揺られて一時間ちょっと、都内の小さな会社に勤めている。
「おはようございます」
「おはよう」
「お茶淹れますね」
「ありがとう」
そういって人々に頭を下げられ、気を遣われながら私はその間を縫い、窓を背にした机に腰掛ける。偉そうにふんぞり返ることなどできない、所詮課長の席。私の目指した頂点とは結局、この程度の椅子だったのだろうか、と笑えてくるほどだ。大して偉くもない、あれこれとうるさいただの老いぼれに頭を下げ、お茶を汲み、そういった彼らのストレスを考えると私もそこから生まれるストレスに居た堪れなくなる。同じストレスならば、もっと高い位置でそれを俯瞰したい。何を言われても社長の言葉だからなあ、と納得させるレベルに至りたい。私は今その位置にはいない。ただの、悪。課長なんて、体のいい悪口の対象に過ぎない。
書類をまとめ、会議に出席し、部下を叱る。毎日その繰り返しだ。だめなやつは何度注意してもできないし、甘やかしていれば勝手な行動をしだす。私はどうして、こんな子どものような人間たちを相手に、てんやわんやとしているのだろう。そんな管理すらしない立場に、なりたい。そう思いながら窓を覗き、空を見ていた。
定時になると半分が帰宅し、半分が残業する。私はそのお守りのために残る。それは部長の命令で、もっといえば社の決まりだ。
カタカタとキーボードを打ち鳴らしながら、頭を掻き、時折こちらの様子を伺う。彼らも思っているはずだ。課長さえいなければ、適当にやって帰るのに。課長さえいなければ、楽しくしゃべりながらできるのに。私こそ、誰よりも帰りたい人物であるというのに。
日も完全に暮れて、オフィスには人工の光が灯る。残っているのは私と、一番若い平野という、名前の通りの平社員だけだった。
平野はいわゆるコネ入社というやつをした人間で、やはりというのか、仕事などろくにできやしなかった。それでも辞めさせることができないのは、そのコネが、社長との間に成立しているからだった。私はこのだめ人間のお守りを担当させられ、断ることもできず、「わかりました」と頭を下げる。どいつもこいつも人のことを何だと思ってるんだ、と腹のうちで悪意を煮えたぎらせながら。
ふぅ、と息を吐く音が聞こえたのは、九時を回ったときだ。点けていたテレビが五分間の簡単なニュースを終え、ドラマの放送に変わったのとほとんど同時のことだった。
「終わったのか」私は聞く。ようやく、終わったのか? と。
「はい、何とか」
「そうか、じゃあ、帰るぞ」
「おす」
すみません、の一言もない。仕事もできなければ常識もない。こんなくずたちがこれからの社会の中心となっていくのかと思うと、ぞっとする。誰かが変えないといけないというのに誰もそれに気づかない。だめになっていく、という自覚こそあれど、そのときにはもう自分はいないのだから若い世代に任せればいい、などと悠長なことをほざいている。だめなんだそんなのでは。今から改善していかなければこのまま腐っていくだけだ。だめな枝は切り落としていかないと、立派な枝も育たない。こういうくずは、すぐに捨てるべきなんだ。
会社を出てタクシーを拾う。平野がどうぞ、と言いながら手をひらひらとさせ、私をタクシーに入れる。自分も後に乗り、駅まで、と伝える。
車内は静かだった。車が風を切る音がひゅおんひゅおんと耳の奥で鳴っているだけで、会話はひとつもない。私はそれでよかった。早く家に帰り、早く眠りたい。どうせ今日もろくには寝れないのだから。
「課長って、何で会社辞めないんですか?」
不意に隣からそんな声が聞こえてきて、私は平野のほうを見た。こいつがそんなことを言ってくるとは思っていなかった。つい先ほどまで携帯をいじっていたのに、それはいつ閉じたのだ。
「どうしてそんなことを聞くんだ」
「俺みたいなだめなやつのためにこんなに遅くまで残るのも大変でしょう。それに、いつ見ても課長は退屈そうに空を見てる。仕事してんですか?」
最後のは冗談ですよ、というように笑いながらの発言だった。
「確かにお前はだめなやつだ、そして私はそんなやつのためにこんなに遅くまで残されて、たまったものじゃない。それでも、未来を考えると、どうしても放っておけないのも事実だ」
「未来、ですか?」
「そうだ、これからの日本だ」
「課長が、これからの日本を」
私は平野の言わんとすることを理解したが、睨みもしなかったし、冗談で返してやることもしなかった。それは至極まっとうな意見だ、と私も理解していたからだ。
2
夢の中で私は、小学生の姿をしている。格好も、当時放送されていた戦隊ヒーローのキャラクターたちがプリントされたTシャツと、ひざよりも高い位置で終わる短いジーンズ。両手をいっぱいに広げながら道路を走っていて、私の横には、もう名前も忘れてしまったが当時の友人たちが何人かいる。
目的地は学校の裏手にある小さな山だった。山と呼ぶことさえ憚られるような、本当に小さなもので、丘か林といってもよかったが、小学生の私にはそれは山だった。
季節は夏で、じりじりとアスファルトを焦がす太陽が頭上でこれでもかと存在感を誇示していて、それに負けじとせみの声が鳴っている。拭いても拭いても流れる汗は滝ほどの勢いはなく、どちらかというと蛇口を締めたあとに滴る残り水のようなものだった。逆に言えばだからこそ、体にずっと染み付いていく感触が気持ち悪く、嫌いだった。
私たちはその山に、秘密基地を作って遊んでいた。秘密基地といっても全然隠れておらず、見通しのいい大木の上にホームセンターで買った少し厚めの板を載せただけで、不安定を極めていて、台風でも来ればすぐに壊れるであろう代物だ。そこに毎日のように遊びに行って、家でもできる携帯ゲーム機で通信対戦をしたり、漫画を持ってきて読んだりを、日が傾き始めるまでしていた。
夢は、その日を明確に再現していた。
その日は快晴で、雲はまったく目に付かず、風も穏やかだった。いつものように友人たちの家を回って集めた後、みんなで秘密基地に向かう。はしごなどかけていない大木に一人ずつ登っていき、秘密基地についた順から極楽を得る。私は大体いつも、二番目か三番目に登っていた。
いつものようにゲーム機を取り出し、漫画を読み、それぞれに楽しみ始める。
それが起きたのは、そろそろ帰ろうか、という雰囲気が滲み出したころだった。私はその日早めに帰って観たいアニメがあったので、一番に降ろさせてくれ、といったのだが、仲間内のリーダー格であるやつがそれを許さなかった。一番は俺、お前はその次だ。そう言って私を軽く押す。その日、そのタイミングで、そのアニメが最終回であることを思い出していなければ、あんなことは起きなかったのかもしれない、と今になっては思う。私は、「今日だけは頼むよ」とか何とかいいながらしつこく食い下がる。リーダー格もそうやってすがる私を見て引くに引けなくなったのか、うるせえな、なんて言いながら私を突き飛ばした。多分、本人は軽くのつもりだったのだろうが、何せ安定しない足場でのことだ。体勢を崩した私は敷いていた板を踏み外し、そのまま落下した。ざわっと木々が揺れる音がしていたのを覚えている。
夢はいつも、その落下の途中で終わる。いや、私が終わらせているのだろうか。
3
その症状について知っているのは、恋人である絵里だけだった。彼女は寛容にそれを受け入れ、
「でも一緒に観覧車とか乗りたかったなあ」と笑っていた。
三十を半分も過ぎた私は、それでなくても恋人と観覧車などごめんだったのが、ごめんね、なんて言いながら彼女の欲しがっていたネックレスをプレゼントした。私のせいだから、と。
絵里とは同棲していないし、これからもするつもりはない。彼女との生活に未来は見えないのだ。一時的な息抜きや欲求の吐き出しに都合がいい、と思って恋人ごっこをしているだけなのだから、私としては当然の結論だ。それでも彼女は私より十も若い女であるから、結婚を夢見たりして、二人で暮らそうよ、ということを月に何度か言ってくる。私は毎回の言い訳に、今の給料では難しいよ、と笑ってみせる。仕事のことを言うと働いてない彼女は黙るしかなくなるのだ。
あるデートのときに、ベッドの上で、
「それ、医者とかには診てもらったの?」と絵里に聞かれた。
「医者って?」
「恐怖症は、精神科とかなのかな? 私観覧車乗りたいなあ」
聞きながら、こいつは、と考えていた。こいつは私に対して精神異常があると言っているのか? とても信じられない気持ちでそう考えていた。精神に異常があるとすればそれは私ではなくお前のほうだ。二五も過ぎた歳で何もせずふらふらと男に寄生して、楽をして生きていこうとしている、お前のほうだろう。馬鹿にしているのか、こいつは。自分の立場もわきまえず、少し調子を合わせてやれば、すぐこれなのか。平野といい絵里といい、若いやつらはくずばかりだ。異常だ。それこそ社会に寄生しているくずだ。私は、こんなやつらに自分たちの支えてきた社会というものを、日本というものを預けないといけないのか?
気づくと私は絵里の首に手を伸ばしていた。
「苦しいよ……」
息絶え絶えに言ったその声にはっとして手を離す。咳き込みながら絵里は泣いていた。何かを喚いていた。
私は、ゆっくりと彼女に目を向ける。すると駄々をこねた子どものようだった彼女は、ひっと息を飲んで黙った。
「仕事もしていないお前に、生きる価値なんてあるのか? 私がお前に、仕事を与えてやる。そしてお前はその仕事を全うして、死ね。これは命令だ。人生の上司からの、最初で最後の命令だ」
4
「聞いたか? ひどい話だよな」
社内でひそひそと声が聞こえる。私は「専務」と札のついた椅子に座って、テレビのニュースを見ていた。
「‐‐にて、朝倉四郎さんが頭部を強く殴打され、病院に搬送されるも死亡しました。目撃者により捕まったのは朝倉さんと同じ会社に勤める会社員、平野清二で、動機については未だに黙秘を続けている模様です。逮捕当初平野容疑者は『あの女が、あの女に』などとうわごとのように呟いていたようで、警察はその点も事件に関係があるのではと捜査しているとのことです」
すべてが、計算の通りに済んだ。
私の、命令通り。
今日は快晴だ。窓の外に目をやる。鳥が旋回し、遠くへ消えていく。私は空も飛べない。ましてや高いところにも登れない。
だが。
人の上に立つというのは、こんなにも気分のよいことなのか。




