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矢印

2015年の拙作。再掲載。

 ここは、どこだろうか。

 舌がざらつくような感触。

 頭に鈍痛が走る。

 記憶。

 記憶を掘り起こす。

 どこかの道。

 靄の中に黒のニット帽を目深に被った男の怒号が響き渡る。

 振り上げられた金属バッドに、私は一撃される。

 そうだ、私は襲われた。

 周囲はコンクリートがむき出しになっており、窓は無い。扉が一つだけあったが、こんな状況だ、当然施錠されていることだろう。見ればテンキーが近くにある。暗証番号は知らない。

 幸いと言えるのかどうか、手足を束縛されては居なかった。ゆっくりと起き上がり、凝り固まった四肢を伸ばす。視線を下に向けると、裁縫鋏が無愛想な顔をして寝転んでいた。なるほど、自害しろということだろうか。

 ひとまずテンキーに近寄り、適当な番号を入力してみる。伸ばした右手で、四、八、二、六、と打ったところで「ビービー」と濁った音がした。四桁の数字が鍵らしい。自分に関わる四桁の数字を打ち続けるが、答えは「ビービー」とだけ。鍵が開く気配は無い。

 適当に入力を続ければ、いつかは答えにたどり着くかもしれないが、生憎と寝起きでそのような気力も湧かなかった。私は胡坐を掻いて座り、裁縫鋏を弄んでみた。

 昔、これを凶器に使ったシリアルキラーが居た。老若男女問わず、計六人を殺害した。犯人は捕まっていないが、私はそれが誰かを知っている。ほかでもない、私自身であるからだ。

 だから、この状況に何ら不思議は無かった。恨まれる道理は十分に持っている。ただ、警察でさえ届かなかった私に、どのようにしてたどり着いたのかは、不思議だった。あるいは、全く関係のない話なのかもしれない。私がそうしたように、無差別なシリアルキラーの犯行である可能性だってあるわけだ。

 そうして鋏を弄んでいるうち、左手親指の付け根に、小さく数字が書かれていることに気が付いた。気を失う前、私が書いたものではないことだけはわかる。数字は「五」だった。その横に、下、すなわち肘のほうを向く矢印が描かれている。

 考えるまでも無く、これはテンキーのヒントであろう。随分と親切な犯人である。疑わないではないが、与えられるものには甘え、信じるに限る。人間はそうして生きてきた。

 するすると視線を上げていく。次は二の腕だった。数字は「四」で、矢印はさらに顔のほうへ伸びていく。

 そして鎖骨付近に「九」があったが、これは見るのに苦労が要った。首を攣りそうになる。

 矢印はさらに顔のほうへ向いている。

 なるほど、顔のどこかにある以上、鏡が無い限り私本人にはそれを確認する術は無い。

 しかしお誂えと言ってよかろうように準備された鋏。これは、切り取れる箇所にある、ということに違いは無いだろう。それは、耳か。舌か。鼻先か。

 とは言え犯人も馬鹿なものである。四桁の数字が必要で、三つ目まではわかっているのだ。後は零から九まで、試せばいいだけの話である。

 五、四、九、零。ビービー。

 五、四、九、一。ビービー。

 五、四、九、二。ビービー。

 五、四、九、三。ビービー。

 五、四、九、四。ビービー。

 五、四、九、五。ビービー。

 五、四、九、六。ビービー。

 五、四、九、七。ビービー。

 五、四、九、八。ビービー。

 五、四、九、九。ビービー。

 なるほど。

 となると、犯人は私を絶望の淵に立たせたかったらしい。出てきた数字と零から九で作れる四桁の数字を全て試したが、やはり無駄だった。つまりこれまでのヒントは、ヒントではなく、ただ適当な数字を並びたてただけだと推察できる。解錠キーには関係が無いのだ。ただ、彼の目的は、矢印の注目度を上げたかっただけなのだ。数字を見つけ、矢印が差すまま、錯乱した私が、耳か、舌か、鼻先あたりをこの裁縫鋏で切り取れば万々歳。苦痛にもだえ、脱出できたとしても、即時治療を受けなければ致命傷となろう。

 だが残念ながら、私はこの状況に絶望しなかった。

 むしろ歓喜したと言っていい。私をこれほど憎み、殺してしまいたいと願っている人間がいることに。

 そして叶うならば、そうして私を憎む誰かを、殺してやろうと思った。

 今まで数々抱いてきた殺意が、今、この扉の向こうへ集中するのを、私は明確に自覚した。

 そのためならば、テンキーから作り出せる全ての数列を試すことも、全く、苦ではない。眠気などすっかり覚めた。

 矢印とは本来、それほどの熱意を持って存在すべきなのだと、今に教えてあげよう。

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