存在しない人
2015年の拙作。再掲載。
「吉岡くん、存在しない人というものは居ると思うか?」
ノートパソコンを鳴らしながらこちらに視線を寄越さないまま、向かいのデスクから日向さんが声を掛けてくる。ずり落ちた眼鏡を直そうとせず、顎を上げて見下す格好で、かれこれ半時間ほどキーボードを打っているため、思考に疲弊が見える。
「何をまたわけのわからないことを言っているんですか?」
こちらも彼のほうは見ずに答えた。三つあるモニターをそれぞれ見ているので忙しかった。
「不意に思っただけだよ。存在しない人が居るとしたら、素敵なことじゃないかなと」
「存在しないのに居る、というのがすでに矛盾していますよ」デスクに広げていた袋からせんべいをひとつ摘み大仰に音を立てて噛み砕く。「存在って言うのはそもそも、そこにあるという意味なんですよ。そうなるとまるでなぞなぞみたいだ」
「吉岡くんは相変わらず堅物だね。面倒くさいが手順を踏んで定義付けをすると、存在とはそのものそれ自体を示すという意味で捉え、使用することにしよう。つまり、今回の場合は人と明言しているから、物体だね。人間の話だ。フランクに言えば、居ない人についてどう思う? ということだね。もちろん今ここに、という意味ではなく」
「どう捉えたって同じですよ、前提がおかしいんだから」
「ロマンがないな、これだから吉岡くんは異性にモテないんだよ」
「恋人を持つ身にそんなことを言うのは失礼ですよ。僕より、彼女に失礼だ」
「おや、居たのか。それは知らなかった。僕にとって君の恋人は居ない人だった」そんなことを言ってから素直に謝罪を続けると、「それはともかくとしてだね。じゃあこういうのはどうだろう」
キーボードから手を離したので、僕もそちらに視線を向けた。
彼は両手で人型をかたどると、
「ここに、存在しない人が居るとする。通常人間であれば可視だが、存在しないわけだから、今回はそれが除外される。つまり見ることが出来ない。我々には認知できない。そういう意味で彼はここに居るが、居ない」
「つまり透明人間ということですか?」
またノートパソコンに手を伸ばし、くつくつと笑う。
「そうじゃない」
「居るけど見えない、という話でしょう今のだと」
「そうじゃないんだって。見えないじゃなくて、居ないんだ」
「日向さんと話していると頭がおかしくなりそうです。つまりなんですか?」
「彼はここに居るんだが、居ないんだ。ほかに言い様がないな」
「もう少し噛み砕いてくださいよ」冗談のつもりでせんべいを手渡す。「何が言いたいんです?」
「究極に言えば」硬質な音が口から漏れる。「存在とは何か、という話だな」
「大げさですね」
「ロマンだよ」
横並びに置かれたモニターのうち、左のものに人影が映った。それを視認すると、
「日向さん、CにXで。様子を見ます」
「あいよ」キーボードを叩きながら、「存在しない人間とは言った。不可視なものであるとも言った。しかし今、僕たちは確かにこの存在しない人というものについて考えている。つまり僕たちは頭の中では彼のことを認知していて、存在させている。そうなると、存在とはなんだろうかと、思うわけだよ。僕たちこそ実は存在しない人間なのかもしれないよ。自分では居ると思っているけどね。逆に、この思考だけの彼こそが、存在しているのかもしれない」
真面目腐った声でそんなことを言ってくる。
「生憎ですが」Cのモニターを見守りながら、「僕、哲学は齧ってないんですよ」
返事をすると、
「そりゃ残念。せんべいだけか」
「そうです、せんべいだけです」
会話が途切れる。
僕たちはまた仕事に戻った。
Cのモニターでは、若いカップルが夜半過ぎの墓地に訪れている様が映されており、僕が指示を出すと日向さんの手によって「演出」が起きる。
そこに「居る」のは「存在しない人」に違いないだろう。




