陰謀論
2009年の拙作。再掲載。
マクドナルドでコーラのSを買ったあと喫煙コーナーの片隅で小説を開く。後数ページで終わるところに挟まっていたしおりをコーラのカップから漏れる結露で濡れないように少し離して置いてから最初の一行を読み始める前に煙草に火をつける。マルボロのアイスミント。一息目からメンソールならではの爽快感が脳をトリップさせる。
読み終えた後の仕様もない読後感をまた煙草でごまかす。コーラでさらにそのトリップが倍増する。頭の片隅にはろくろく書けもしない小説のネタがごろりと居座り僕を眺めていた。それで、それで。そいつは僕を眺めたままそう呟く。それでお前は、これ以上のものが書けるのかよ。俺を具体化できるのか。
煙草は消費の一途を辿る。数本に一口の間隔でコーラを飲む。十六はあった煙草が半分になってもまだSサイズのコーラがカップの半分を黒く染める。
江田が到着すると僕らは禁煙コーナーに移動してそれぞれハンバーガーなんかを頼んでみる。クーポンを使ってさらに安くなったハンバーガーの結局の価値はいくらなのか計り知れぬ。まあ腹が膨らめば構いはしない。
僕とは違い生真面目にも大学に通い続ける江田をある意味では尊敬していた。学校に行くと言って家を出てそのままマクドナルドやサイゼリアや時には公園などを転々としてひたすら小説を読み続ける僕から比べれば彼の方が有意義な金の使い方をしていることだろう。労働と不釣り合いに安い賃金で働いている僕はなおさらそれを実感する。金は有難いもので、神さえ買える。
にしても、江田は相変わらずの肥満体質で、ハンバーガー片手に汗を拭きつつしゃべる姿が滑稽だった。
「斎藤はさ、将来の夢とかあるの」
くちゃくちゃねちょねちょと音を立てながらそう言う彼を、僕はよくもまあ正面に置いて食事をとれる。「どうして」
「いや、斎藤は大学にも結局ほとんど通ってないだろ。もうすぐテストだけどそれも落とすでしょ。お前は結局何がしたいんだろうなって」
「テストを落とすかどうかは、まだわからないよ」
「いやあ、もうおおよその確率で落とすでしょ。話も聞いてないしノートも取ってないし、何より出席してない」
「テストは話を聞いたりノートを取れば点数をもらえるものじゃないよ。効率よく立ち回れば、なんとかなるもんなんだよ。出席は、江田は知らないだろうけど、だいたいの教科で工作してる」
「斎藤は頭がいいのだか悪いのだか、わからないな。うまい生き方だと思うよ」
言いながら江田は、まだ手をつけていない僕のハンバーガーを眺めていたから、僕は無言でそれを彼に渡した。金は後で払う、と今まで何度も実行されなかった口約束を聞き流し、僕は僕の目的を果たすために口を開ける。
「ネタを考えた」
ふんふん、と首を振りながら彼は先を促す。
「主人公は、新興宗教の信者である両親を持つ三人兄弟の末っ子。末端信者の割に盲目な親に冷めつつもそこから抜け出せない自分に嫌悪を覚えてならない。歳の離れた二人の兄たちはすでに家を出ていて頼りにはならない。彼らの内長男はまったくの信者で、二男はまったくの非信者だったから、二人が出ていった経路は全く異なるが、細かくは良いだろう。
主人公はある日無理やりに参加させられた宗教の親睦会の中で美少女を見つける。ありがちだね。美少女とは歳も近く自然と話すようになった。これがよくない。美少女は盲目的信者だった。主人公は恋のために信念をへし曲げるか、信念のために恋を捨てるか、葛藤する。リストカットもする。ついでに合法の薬物にでも手を出そうか。
日々を経てデートを繰り返す二人。でも端々に現れる新興宗教の影。せっかくだから遠方の兄たちにも頼ってみよう。そうやって主人公が青春ならではの葛藤を、どうやって切り抜けていくか。
そう言う話」
Lサイズのコーラをすっかり飲み干して、なおも吸い続けズズズズと音を立てている江田の方を見ると、さもつまらなそうに彼は僕の方を見ていた。細い目のすぐ上、眉毛のあたりに溜まった汗を拭うより先に口を開く。
「ああ、まあ、ありがちかな」
予想していたとは言え、直接もこう言われてしまうと僕も落胆くらいする。なんと答えるべきか悩んだ末に、「喫煙コーナー行ってくる」と僕は逃げた。
先ほどまで使っていた灰皿を「使用済み」のところから回収すると、先ほどまでと同じ席に座って、火をつける。煙草で得られるものなど、所詮簡易なトリップのみだ。惰性のようなものだ。ここから何かが始まるわけでもなければ、終わるわけでもない。中途半端な自己逃避、現実逃避を与えてくれる。体が脱力感に襲われるが、それが心地いい。煙はもくもくと天井に伸びていく。
ある程度の落ち着きを取り戻した僕は、いまだに慣れていないのか、ヤニ眩みに足を取られながら江田の居る席に戻った。あからさまに煙たがる彼はさすがというか、甘えん坊の一人っ子で自己中心的な思考回路を持ち合わせた、常人ならむしろ彼を煙たがるような、そんな男だ。一般的には珍しく彼と親しいとは言え、鼻をつまんで手を仰ぎ顔を背けられては僕も落ち込む。
「新興宗教」落ち込む暇も与えないのか、動作を続けながら言われる。「具体的には何を信仰してるの」
「そこは重要なのか」
「重要かどうかは斎藤が決めるところだけれど、君の口癖は、リアリティ、だろう」
確かに、僕は単なる娯楽である小説が嫌いだった。ファンタジーやSFなんかは僕においては小説と呼べる代物ではなかった。小説にはリアリティ、つまり現実と重ねられる「意味」があってなんぼである。それは別に小説においてのみの話ではない。結局嫌々と言っていても、すべてのものに意味がある方がいいに決まっている。生きることにも死ぬことにも病気になることにも恋をすることにも。もちろん小説にも映画にもアニメにも、意味があった方がいい。共感性があった方がいい。メッセージがあった方がいい。リアリティが重要なのだ。この世のすべては、リアルにおいても、リアリティが必要なのだ。空想の中に生きるのは夜に耽る自慰行為だけで十分で、後のことはすべて現実あるいは現実に近しいものである方がいい。
そう言う点で、宗教というのは不鮮明だ。架空を崇拝する、弱者の縋りに過ぎない。
しかし現実において宗教は僕のリアルだった。
「教祖は、ただのクソじじいだ。もう六十に差し掛かっている。そいつは神云々と説くのではない。人間はみんないい人なんだ、こちらが信じて微笑みかければ通用しない相手はいない、と言う。お互いがお互いに優しくあれば世界は本質的に丸くなる、と言う。私はあなたを信じます、苦悩もすべて共有しましょう、と言う。
信者の中には著名人も多数いる。あのスポーツ選手も、小説家も、芸人も、俳優も、信者だ。その根回しはマルチに似ていて、勧誘すればするほど良い成績がついて、救われるらしい。成績が良ければ、地デジ対応の、一般家庭には不釣り合いにでかいテレビだってもらえる。あるいは地位だって、成績で買える。
規模がでかすぎて、その手はすでに海外にも及んでいる。どこまでも腐った地球であると思うが、一説によるとあの小国のトップでさえ信者の一人だ。経典はすでに数ヶ国語で製作されていて、そのうちあの大国にも手が伸びる。
こんなところか」
「嫌にリアルだな。と言うかそれって」
「言わずもがな、言わせはしない」
少し嫌煙気味な視線を感じるも、僕は彼の方を見ようとは思わなかった。
「斎藤ってまさかそこの信者なわけ」
「僕は違う。僕の両親がそうなだけで、僕は決して」
「そう言えば勧誘みたいなことされたことあるなあ、怖い怖い」
「仮に僕が信者だったとしても、君みたいに丸々とした使えなそうな人間は勧誘しない、安心してくれ。金ばかり喰う君に価値はない」
「だよなあ」
納得するのもいかがなものか、それでも江田はいい奴だった。
ハンバーガーの追加注文を済ませた彼は、それで、と言った。脳内のネタがにひゃりと笑いながらこっちを見たような嫌悪があった。
「主人公は、結局、その宗教を潰しに行ったりしないのか」
僕には予想外の質問だった。
「この小説の論点はそこじゃない。それは非現実だ。不可能だ。だから主人公は当たり前に権力につぶされながら、それでも少女との恋を円滑に進めていく。ただの青春ものだ」
「それこそいかにも非現実な気もするが、細かいことは斎藤のものだしケチ付けない。でもそのままで、主人公はいいのか」
江田はどこか、小説の中に現実を見たようだった。僕はやれやれと手を振りながらも、いかんせん、彼のまなざしは真剣そのもので背けることができないほどに力を持っていた。
「僕は、主人公にはどうにもできないと思ってる」
江田はがっかりしたように肩を落とした。
「でも」
「でも」尋ねるというよりは復唱するように彼は言う。
「でも主人公はもがいていて、それを小説にしたりするんだ。歌ったりもする。心の葛藤が絵にもなる。現実なんてそんなもんなんだ。彼は爆弾なんかも作ってみるけど、怖気づいて闇夜の公園で爆発させたりする。彼は自分の非力さを思い知る。現実には、自分の全く関与しない大きな大きな、陰謀とも言えよう蠢きがあることを、思い知るんだ。思い知って、何もできない自分に嫌悪し続ける」
「陰謀……。いい響きではあるな」
「両親の暴力に、兄弟の疎遠に、美少女の微笑みに、彼は陰謀を垣間見る。大人になるんだよ、それで、きっと」
そうか、なんて呟きながら、届いたハンバーガーをむしゃむしゃと食い終えた江田は、大学に戻って行った。
僕は古本屋で買いあさった小説の内の一冊を、また喫煙コーナーの片隅に移動して読み始める。
決められた終わりがある物語に憧れを抱きつつ、大人になれない僕はすべてを陰謀のせいにした。




