言葉の壁
2010年の拙作。再掲載。
「じゃあなに、お前は、世界はありとあらゆることに答えを用意してくれてると思ってた?」
「別にそういうわけじゃないけどさあ、言葉の壁は大きいよ」
「っていうかお前は何カ国語の辞書を開いたわけ?」
「えっと、英語、中国語、韓国語、フランス語に、イタリア語、えーっと、ドイツ語も見たかな。あとはー」
「いや、もういいよ」
そう言ってうんざりした顔でビールを飲むと、うまくもまずくもなさそうにため息をひとつ吐いた。胸、横っ腹の辺りをさ迷った後、ズボンのポケットに煙草を見つけた手でそれを一本口に持っていくと火を灯して、今度は面白くなさそうに、煙を吐いた。有村は昔から自分の理解できないことが嫌いだったから、見慣れた顔だった。
僕の相談はそれからぼんやりと空気中に放散して、続かなかった。当たり障りのない話題を何度かつついた後、沈黙が二人の間に生まれて、またしばらくすると有村が横顔のままこちらに言う。
「っていうか、いまどき、どこに女の子が落ちてるって言うんだよ。ゲームかっての」
「いや、でも」
「わかってるよ、拾ったんだろ? でもよ、写真見た感じ、普通の子じゃん。昔からの友達を、まあ親友と言ったって良い。そんな男を、誘拐犯と疑うつもりはないけどよ、どうにも信じられないというか」
「まあ、信じては貰えないよなあ」
相談というのは、そういうことだった。
昨日、最寄り駅を降りてアパートへの帰り道の途中にある人通りの少ない田んぼ道を歩いていると、草むらからうめき声ともあえぎ声ともつかないような声が聞こえてきたのだ。ぎょっとした。僕はひっそりと腰をかがめてその声のする方へ近づいていったのだが、行ってみると若い女がひとり、草むらに横たわって悶えている。腹が痛いのか、ぐっと丸まって、時々ぐるぐると弧を描くように足をばたつかせて体を回転させている。ただ事ではない、と思ってすぐに駆け寄ると、女はばっと起き上がってこちらに飛びかかってきたのだ。はめられた! と思ったのもつかの間、何をされるでもなく、ただ、抱きしめられた。僕は気が動転して何が何だかわからなかったが、とりあえず抱きしめ返しておいたのだ。すると女は離れて、消えた。それは走って去ったとかいうものの比喩ではなく、文字通りの意味で、だ。シュン、とアニメの瞬間移動みたいに音を立てて、一瞬で、消えた。
それから家に帰ってみると、なぜかそこに居るではないか、先ほど目の前から消えた女が。女はにっこりと笑顔を見せると、
「イイソヘチケヒソホニサタアヲチサタワ、アワテミキナタナ」
と、全く理解できない言葉を発したのだ。
――なんていう相談。到底、信じれる話ではないだろう。僕だって体験していなければこんな話あるわけないと笑い飛ばして居る所だ。
それから有村は「とりあえず聞きだした言葉は全てメモして教えてくれ、きっと何か法則があるから」と言って、明日のデートの為に深酒はできん、と帰ってしまった。残された僕はなぜだか彼の分の酒代も払って店を出る。
家に帰ると当然のように女が居て、これまたなぜだか、嬉しそうに出迎えてくれるのだ。本当に、そう言う類のゲームや漫画みたいな話である。
僕は彼女の口に合うかどうかを問わず、とりあえず何か飯を作って出してみる。飯、と言っても残り物のご飯で出来たのはチャーハンだけだった。さらに盛られたチャーハンを見るなり、彼女はやんわりと困ったような顔をして手を突き出して、どうやら、要らない、という意思表示をしてきた。
「エノヨヌレオウオイエエッタユオカヒタタナ、アワテバリサホトコヌウュキチ、オヌレラリキオメツカネバトヲンアホガヒタトチホヒソホニサタワ」
「え、あ、はあ」
とにかく、要らない、ということらしかった。
女はよくしゃべった。が、内容は一つもわからなかった。
「オナネアマノエテンアナハタナ、ウシラアヘアマノニサタワ?」
「ウオョセヂケツス、オヨナテミキネチアンオッケコワタナアテルケテクサタ。エッタミセチシアッピシニツカャトネヌフ、オデレカドナチサヂボトウィソヘチサガソウェチアンオッケカフチジャヒサタワ?」
「エナウィアルタホニアニジュウタガボトコ」
「オデレカドニイアラクレアキニソハヒサタウェデロサラネロソ。オニイ、オデクアジャニサタナ、アベレカニソウシカママオノコ?」
などなど。僕は聞きとれたものはきちんと言われたとおりにメモをして有村に伝えた。
そんな奇妙な女との共同生活はしばらく続いた。有村から連絡があったのはそれから一週間経った辺りだった。言葉さえ理解できずとも、なんとか意思疎通ができるようになってきた頃で、彼女の存在も、不可思議ではあったもののなんとなく僕の生活に馴染んできていた。
最初に相談を持ちかけたのと同じ飲み屋に待ち合わせて、とりあえずのビールを頼んで何にだかわからない乾杯を済ませた後、酔わないうちに、と前置きをしてから話し始めた。
「先に結論を言うと、彼女はこの星の人ではない。だから、いくら辞書を開いても言葉は理解できない」
「まあ薄々、というか、ほとんど直感的にそうは思っていたけれど。ますます漫画や小説みたいな話だね」
「名前はアリス、結婚相手を探しにこの星に来たが船の着地に失敗、助けてくれたお前を結婚相手に選んだらしい。その星では、抱きしめ、抱きしめ返されたらお互いの好意の成立というか、つまり、両想いの確認というか、そういうことになるらしい。だからアリスはお前の家に当たり前に居る。飯を食わないのは、彼女たちは酸素だけあれば体を維持できるからだそうだ。必要な栄養分は酸素のみ、という信じられない体」
「ずいぶん突飛なことを話しているが、有村、お前ついに頭可笑しくなったの?」
「こんな相談を持ちかけてきたお前には言われたくない。俺はただ、法則に気付いただけなんだよ」
「法則ねえ」
「そんなことより、お前、このままアリスにキスをしないと、どうやら死ぬらしい。理由は知らんが、その法則によって読み解いていくと、彼女はそう言っていた」
「何だそれは。お前、なんか面白がってない? そういえば昔からたまに小説とか書いてたもんなあ、しかしセンスのないSFだよこれは」
「まあ、お前がそう言うなら構わないけど。俺はお前に頼まれたから法則を見つけたし、忠告もした。以上。飲もう」
「なかなか楽しめたよ、有村先生」
べろんべろんに酔っぱらって家に帰ると、アリス、という名前らしい女は残念そうな、呆れたような顔をしてこちらを見た。今日は何も嬉しそうではないし、むしろそれと正反対の感情を持っているようだった。僕には関係ないのだが。
「僕は疲れたから眠るよ、アリス、おやすみさん」
一瞬、はっとしたような様子を見せた後、何かを早口で話しだした。
「ウオレアキニソヒノョッシ! エチソウシクカヤハアジャ! オヌリジュウツ!? オナッタニヌオユリケヂアキラガボトコニサタヲッタヤ!?」
「だから、わかんないって、寝るって」
そう言うとがっかりしたような表情に戻って、「ウオソ……」と呟いて消えた。
僕は泥のように眠った。
☆
川田が死んで、葬儀一切も無事に終わり、俺は今まで通りの生活に戻った。
アリスは地球のことについて調べた割に、地球の言葉をしゃべらなかった。理由はわからない。俺たちだって宇宙についての本はいくらでも手に入れることができるが、宇宙の言語についての本はいくら探しても手に入れることなど出来ない。どっかの国は宇宙人となんやらかんやら、という話を聞いたこともあるし、宇宙語の辞書は偉い人しか見れないのだろうか。
まあ、なんでもいい。
昔馴染みを亡くした喪失感はそれほど大きくはなかった。俺の話を信じなかったあいつを馬鹿だと思うし、逆にあいつの話を信じた俺も馬鹿だと思う。
川田の父親から連絡があって、川田のアパートに置いてあるものの中から何か欲しいものがあったら持っていてくれ、と枯れた声で言われてしまったから、昔馴染みとしては行かないわけにもいかず、俺は川田のアパートへ向かっていた。
途中の田んぼ道で、草むらから声が聞こえてきて、思わず身構えたが、はっとして駆け寄った。
女が座っている。ぎょっとした。飛びかかってくると、女は俺のことをぐっと抱きしめる。
俺は彼女の耳元ではち切れんばかりの大声で叫んでやるのだ。
「ウッカフ! エサナホグウュキタラヌルキヌウュキチ! オゾンエセンオッケカホテアモアヘロ!」




