夏の話
2011年の拙作。再掲載。
その日は夏休みの前日で、終業式を終えた僕たちは教室で通知表が渡されるのを待っていて、ざわざわと騒いでいた。中学二年生。一番多感な時期で、どいつもこいつもそうした喧騒の中で、好きな異性を盗み見ているような、そういう時間。夏休みに地元の公園である祭りで、あの子と会えるだろうか。一ヶ月半も会えなくて俺大丈夫かな。そんなことも、そういう「ざわざわ」の中には含まれていた。
教室のドアが開いて、担任の佐々木がやってくる。
「みんな席着いてー」
浮ついた様子で席に戻りながらも会話を続ける僕たちを、佐々木は何も言わず見ていた。
全員がちゃんと着席して、その時僕は一つだけ空いたままの窓際の席を眺めていた。
「今日、見ての通り伊藤休んでるんだけど、そのことについてちょっと先生から話がある。大事な話だから、ちゃんと聞いてくれ」
佐々木の声は、震えていた。
―――
夏は嫌いだ。暑いし、うるさいし、良い思い出もない。
久々の実家は相変わらずぼろくて、とてもこんなところに人が住んでるなんて思えないな、とか苦笑しながら考えて、それでもこれが壊れるなんて、あんまり想像もできない。少なくとも両親が死ぬまでは頑張ってくれ。思いながら、玄関を通る。
母は台所で料理をしていた。カレーの良いにおいが漂ってくる。
「ただいま」
「あれ、あんた帰ってきたの?」
「前に電話しただろ」
「そうだったっけ? あ、でも、そうか、帰ってくるよね、夏だもんね」
「ああ」
顔を合わせているのが気まずくなって、二年前まで使っていた二階の自分の部屋に退散する。全体的に整頓されていたけれど物の配置自体は変わっておらず、なんだか懐かしい。胸ポケットにしまっていた煙草を取り出して、一本くわえる。火をつけようと思ってから、灰皿がないことに気が付いた。そういえばそうだ、二年前は高校生で、その時の僕は煙草なんて絶対吸うわけない、意味がわからない、なんて言っていた時期だ。部屋の中を適当に見回すと手頃な瓶があったので、トイレで水を入れてから、ようやく、煙草に火をつける。
田舎の中でもかなり田舎の方なんだろうな。窓から見える景色は、山か、田んぼか、川だった。
煙草を吸い終わってからゆっくりと階段を下りて、リビングに移動していた母に、
「それじゃあ、行ってくる」と言うと、
「気をつけてね」と返された。
待ち合わせ場所は、通っていた中学校からほど近いところにある公園だった。少し大きな公園で、毎年夏になると祭りが開かれている場所だ。今年ももうそろそろその時期なのか、出店の土台やらが作られ始めていた。僕は入り口近くにあるベンチに座って、煙草を吸った。
三本吸い終わったころ、後ろに人の気配を感じて振り返ると、コウが居た。
「お待たせ」
「おう、久しぶりだな。一年ぶりか」
「そうだな」
「そろそろ、祭りの季節か」
「ああ、そうだな」
「行くか」
「ああ」
立ち上がってコウの隣に並ぶ。行く場所は、ここからそう離れていないところにある川だった。
―――
「今日、見ての通り伊藤休んでるんだけど、そのことについてちょっと先生から話がある。大事な話だから、ちゃんと聞いてくれ」
佐々木の声は、震えていた。
そのせいか、みんなシンと静まりかえって、さっきまでの浮かれた空気は急に冷えた。
「さっき親御さんから電話があってな、伊藤、事故って、今意識不明の重体らしい」
ゆっくりと、声の震えを隠すように冷静を装って、佐々木がそう言った。女子たちが悲鳴のような短い声を上げて、続けて、すすり泣く声が聞こえ始めた。
「先生もまだちょっとあんまり事態を把握してないんだ」佐々木も、泣きそうな声だった。「でも、大丈夫だから、な」
その後に通知表を受け渡す、なんて馬鹿な話はなくて、僕たちのクラスだけ早々に帰された。男子たちは帰り際に「通知表どうすんだろうな」とか「とりあえずすぐ親に怒られるってことはなさそうだ」とか言いながら笑っていた。僕はそれを直視できなかった。
校門のところで座っていると、ようやくだいたいのクラスが終わったのか、生徒の波が流れてきた。僕はその中でコウの姿を探した。コウは隣のクラスだったから、聞いてないかもしれない。伝えなくちゃいけない。僕はそれだけ考えていた。
十分待っても、二十分待っても、コウは現れない。生徒の姿もほとんど流れ切って、校門の前を通る人は誰も居なくなっていった。泣きそうになっている自分に気付いたのは、そうして、一人になってからだった。ああ、まずい、泣きそうだ。そうやってゆっくり、理解した。僕が聞いていて、コウが聞いていないわけがないじゃないか。帰ろう。帰って、ゆっくり泣こう。ぼんやりした頭の中で、そう考えていた。
家に着くと母が暗い顔をしながら、
「美咲ちゃん」と小さく言った。その後は続かないようだった。
僕は何も返さずに二階へ上がった。
そして、泣いた。
―――
じりじりと焼きつける太陽に鬱陶しさを感じながら、僕たちは無言で歩いていた。右を見ても左を見ても田んぼ。そんな田舎の道を、待ち合わせまでしたのに、無言で進んでいた。
目的の川が近づいてくる。毎回、僕はそうして近づくと、吐き気がしてくる。ここで、美咲が。そう考えると、その光景が見てもいないのにリアルに想像できて、気分が悪くなる。
道中で買っていた花束を花瓶の中に入れて、しゃがんで手を合わせた。
立ち上がってから空を見上げていると、僕とは反対に川の方を眺めていたコウが、小さな声で言った。
「俺さ、美咲が死んでから、どうしていいかわかんなくて、生きてる心地とか、あんましない」
「そうか」
「美咲はさ、今もまだ十四歳なのに、俺、もう二十歳になっちゃって。二十歳の美咲が見えない。どこにも居ないんだよ。何でかなあ」
「美咲は、死んだからな」
「そうだよな、当たり前だよな」
そうやって言うコウの横顔を眺めながら、僕は何も返せなくなった。コウの目が、ひどく淀んでいることに気付いたのだ。
沈黙はしばらく続いた。二人で川の近くの橋に立って、ただ時間が流れるのを感じていた。
「美咲のことが本当に好きだった。俺なんかが彼氏で良いのかなって考えちゃうくらい、美咲は可愛かったし、頭も良かったし、人気者だった」
「ああ」
「なんで、死んじゃったんだろうな」
「この川に、落ちたんだ」
そういうことじゃないんだってわかっていながら、僕はそう言っていた。それからまた、沈黙。
夕方になって僕たちはまた無言で、来た道を帰っていた。別れのあいさつもなく自然と別れて、それぞれの家に帰った。
カレーを食べながら、
「松林公園の祭りっていつなの?」と母に聞いた。
「確か明後日とかよ」
「そっか」
「行くの?」
「たまにはかき氷とか食いたいなって」
「そう」
「金は良いから、うん」
「わかった」
―――
翌日から夏休みだったのは、幸運だったのかもしれない。泣きはらした顔を誰にも見られなくて済むし、一日中部屋にこもっていても、暑いだけで、誰も文句は言わない。
でもそんな生活を一週間もしていれば、さすがに心配はされるみたいで、ノックもなしに母親が部屋に入ってきた。僕は布団を頭までかぶっていて、寝ているふりをしていた。
「葬式にも通夜にも出ないで、あんたそれでも美咲ちゃんの幼馴染なの?」
母はそんなことを言った。それでも男なの? と。
僕は寝たふりを決め込んでいたから、返事もしなければ動きもしない。母は続ける。
「外に出なさい。こんな暑っ苦しい部屋の中に居て、あんたまで死んじゃったらどうすんの。美咲ちゃんがそんなこと望んでると思うの?」
どうでもいい、そう思って目を瞑っていた。
「明日祭りあるから、行っておいで。お前は生きてるんだよ。物を食って、息を吸って、人とふれあって、生きていかなくちゃいけないんだよ」
祭りになんて行くつもりはなかったけれど、母に無理やり布団を引っぺがされて、行け行けと騒がれては家に居るのも心地悪くて、仕方なく、なんとなく、公園の方へ足を向けた。
夜なのにきらきらと眩しい公園は熱気と活気にあふれていて、僕には直視できなかった。遠い世界の出来ごとの様で、リアリティもなく、喧騒も耳に入ってこない。
何か行ってきたって証拠持ってこない限り家に入れないからね、と良くわからないことを母に言われていたので、とりあえずかき氷を買った。なんでもいい。メロン味のシロップが一番余ってそうだったからそれにした。公園の端の方にあるベンチに座って、ボーっとしながらそれを食べた。
「優くんのベロ緑になってるー」
そんな声が聞こえたような気がして、はっとして顔を上げる。
「美咲?」
美咲、居るのか?
辺りを見回すけれど、どこにも彼女の姿はない。当たり前だ、美咲はもう、死んだ。
僕はかき氷を食べる。泣きながら、食べていた。
―――
祭りの会場は、さすがに大学生には場違いな空気があって、小学生や中学生がその辺を駆け回っている。こうやって改めてやってくると、ずいぶんとこの公園は小さく感じられた。人と、出店と、舞台なんかがあって、ゴミゴミとしている。知り合いなんて誰も居ないだろうし、その方が楽だな、と考えていた。
かき氷の売店でメロン味のかき氷をなんとなく頼んで、食べる。そういえばあの日食べたかき氷も、メロン味だったかもしれない。
ああ、時間は無情だ。全てを忘れていく。そしてそれを、僕には繋ぎとめておけない。感情は消え、体は衰えていく。記憶がゆっくりと、溶けていく。
はっとして見ると、かき氷がほとんど溶けてしまっていた。もったいない、と思ってその緑色の液体を飲むと、頭がキーンと痛んだ。
隅っこの方で祭りの喧騒を眺めながら、煙草を吸った。
右から左から、流れるように歩き去る少年少女たちを見ながら、ああ、と思う。
ああ、僕は、美咲のことが、好きだった。その一言がどうしても言えないまま、彼女をコウに取られた。それでもそれを、うまく納得しようとしている自分も居た。ああ、どうして、好きの一言が言えなかったんだろう。言えていれば、今、こうやって美咲のことをずっと心に引っ掛けておかなくて済んだんじゃないだろうか。コウのことを、心のどこかで憎み続けなくて済んだんじゃないだろうか。どうして言えなかったんだろう。
美咲、僕は美咲が、好きなんだ。
どうして今、君は僕の目の前に居ないんだ。
泣きながら目を覚ましたのは、もう何年ぶりのことだっただろう。
寝起きで煙草を吸いながら、朝日を眺めていた。
朝食を済ませると母に、
「今日の午後には帰る」と告げた。
「そう。次はいつ帰ってくる? また来年?」
「いや、もう帰ってこないかもしれない」
僕がそう言うと母は何かを納得したような顔を作って、
「まあ、親の死に目には立ち会いなさいよ」と笑った。
僕はその日の午後の新幹線で東京に帰った。帰り際の電車の中で、コウにメールを送る。
「前を向こう。ずっと進んだ先に、何歳かわかんないけど、美咲が居るよ。俺はそう思う」
返信はなかった。それでも良かった。
長いトンネルの暗闇の中で、僕はゆっくり眠った。




