正義の話
2009年の拙作。再掲載。
「まああれなんです、世の中うまく渡るには、正義じゃなくて共感性というか、大衆性が必要なんですよね」
と、秋野は力なく言った。
病院の待合室で彼はテレビを見ていた。私は隣でスポーツ新聞を読むともなく眺めていたところで、そういう時、周囲の音は一切遮断されるものだから、秋野に肩を叩かれるまで彼が私を呼んでいたことも、テレビの内容が何であったかも、わかってはいなかった。
テレビの画面にはドキュメンタリー映像のような、なんとも素人くさい、否、素人の女が一人インタビューを受けている場面が流れていて、そのテロップを見る限り、なんとも、近所付き合いがうまくいっていないとかなんとか、そういった話らしい。
「というと?」
新聞をいかにも面倒くさそうに畳んでから秋野にそうやって問うと、大学生よろしくというか、なんとも不安げな表情をしながら、ううんと一つ唸る。
「彼女は、戦っているんです」画面のほうを遠慮がちに指さすので私はそちらを見る。「近所の皆々様が宗教に染まって、政治もあの宗教とお手手つないでいるあの政党にしよう、ってなっていても、彼女はそれをよしとせず、誘われても乗らないうちに、こうなったんです」
と、言っていたのか? と問うと、テレビが真実を流すかどうかは曖昧ですが見てればそういう雰囲気が伝わります、なんて返してくれた。
確かに、その女が外を歩くのにカメラが付いて行ったのを見ていると、どこの家にも某政党の選挙ポスターと、その宗教が出している新聞の広告、果てには神様の啓示のような台詞の書かれた板きれが貼ってあったりする。雰囲気どころではなく、間違いなく、そういったいざこざが原因で隔離されているのは明確だ。
しかしまあ、一テレビ局が一宗教を批判するとは、さてはその信者のタレントと揉めたな。見れば見るほど、女のしぐさがわざとらしくさえ思えてきた。
ともあれ、秋野は彼女に何か、自分を重ねているように感じられる。私はリモコンをとって不愉快な映像を閉ざすと、秋野のほうを見て、じっと見て、大丈夫か? と言ってみた。
「何がですか」と半ば苦笑気味に答える彼を、ちょっと愛おしくさえ思ってしまう。単に、年齢差か。
「大学、うまく行ってないのか?」
無言で答える。
「お前はどういう正義を貫こうとしたんだね、お姉さんに言ってごらんよ」
ええ、まあ。と一つ置いてから、時計を一度確認してから伏し目がちに続ける。
「レイプ」と小声で言うので、私も思わず驚いた。
「レイプ?」
「レイプしようって」
「女の子を?」
「当り前ですよ」
「若者こっえー」
「香坂さんだって若いでしょ」
「いやあ、お前が言うなよ」
けらけらと乾いた笑いは、院内の冷めた空気によく似合った。
秋野は即座に笑いを引っ込めると、続きを話す姿勢に入ったので、私も少し身をこわばらせるようにして彼のほうを見た。
「うちの大学は、クラス制の授業があるんですけれども、その中で、いつもわあわあぎゃあぎゃあうるさい女が何人かいるんです。汚らしい時代遅れのメイクにゴミかすかゲロみたいな色をした髪の毛。まるで漫画に出てくるギャルみたいな。本当に、社会のゴミ、なんて言ったらあれかもしれないけれど、本格的にいてもいなくても変わらないような、むしろ掃いちゃいたいような女がね、何人かいるんです。それに対して、まあいくらか真面目そうな男数人がね、ひそひそ話しているものだから聞いてみたら、あいつらレイプして二度と学校に来れないようなトラウマ作ってやろう、クラスの平和を守るためだ、なんて言ってて。真面目そうなだけでした、驚きました。僕は別にその女どもがレイプされようが、その男どもがレイプした罪で捕まろうが、どうでもよかったけれど、一般的な常識というか、モラルというか、正義ですね、その観点から見たら、どんな人間であれしてはいけないことをしようとしているのを、見過ごせなくて。それで止めに入ったら、弾かれまして」
ほほう、なるほどなるほど、なんという適当な相槌をかまして聞いていたが、そのすべてが、漫画みたいに非現実に思えてしまった。大学を通らず社会人になった私はそういった意味不明な若者的思考回路を学習せずにここまで育ってしまっているから、いかようにも、その事態を現実的に見れはしなかった。
そもそも、と私は言う。
「そんな奴らに弾かれようと、どうでもよくはないかね」
「いやはやそれが、その男どもはクラスの中心的な人たちでね、いや、クラスというより、学年のある程度に精通しているもんだから、今まで仲良くよろしくやっていたどんな人間にも弾かれてしまいまして、学校で孤独なんですよ」
孤独なんて、自分で言う奴は存外、そうでなかったりする場合が多いが、こと秋野に関しては、彼の表情から、それが本当であることが窺える。しかしまあ、大学における人間関係などもろいものだ。
全然関係ないところで、前に座っていたご老体が看護婦に呼ばれ待合室のベンチをのろのろと立ち上がるのを見ていて、どちらがより孤独であるかを想像してしまっている。孤独は突き詰めると、死ぬからなあ。
秋野もぼんやりとそのご老体を眺めながら、時折心配そうにすっと手を伸ばしたりなんかしていた。彼の正義は、一般でいうところの正義と、取って代わらないらしい。
「しかしだ、まあ、大衆性なんて、付け焼刃に会得してもしょうがない。お前がお前らしく、お前の正義を貫いたほうが、ああいう歳になったとき、幸せでいれる気がするよ、少なからず、部外者から見るとね。実際どうかなんて知らんが」
ううん、なんて唸りながら、納得したような、していないような、そんな表情をしていた。悩める子羊を導くには、まっすぐな道を用意するより、牧場に連れて行くほうがいい。それっぽい適当な道しるべだけ出しておいて、後は自分で選ばせるほうが、拾ったほうも恨まれなくて済むのだ。
そんなこんなで会話が曖昧に打ち切られ、またぼんやりとした時間が訪れた。
「香坂さーん」と呼ばれ立ち上がると、秋野も飼い犬のようについてきて、私たちは二人で診察室に入って行った。




