論理的な彼女と直感的な彼
2010年の拙作。再掲載。
横谷康子に対して、なぜ皆川健太郎と付き合ったのかと問うと、可愛いところが好きになってしまった、と答える。そればかりは理論的な彼女にとっても説明できない事象の一つなのだ。
二人は付き合いだして三年目になって、同棲を始めた。それまではお互いの性格が反映されている、反映されすぎている部屋になど入りたくないと言っていたほどなのであるが、社会人にもなることだし家にも居づらい、それに会社にも近い方がゆっくりできるといったことを適当に並べて、しかしそれらでは仕様もないから半ば仕方なく「三年目の記念」と理由を付けて、二人の勤め先のちょうど真ん中あたりの街でそれを始めた。二部屋あるアパートを選んで、玄関から繋がった部屋を健太郎が、そこから襖で隔てられた隣の部屋を康子が使った。玄関を開けた時に自分の部屋が見えるのは嫌だ、という理由で康子が奥を使ったのだが、彼女が帰宅するたび、汚い健太郎の部屋を通るのはだんだんと苦痛になっていった。
最初のころは楽しさもあったが、喧嘩も多くあった。もともと性格が全くの逆とも言えよう二人のことだから、なぜ使い勝手の悪いことが分かっている汚い部屋を掃除しないのかだとか、風呂の湯船に使う湯の量にまで計算された数値を出すなだとか、そんなことで喧嘩をしていた。しかししばらくすると二人の喧嘩が全く平行線をたどり続けるということにようやく気付いたから、何か不満があったら日記帳に書きつづるのみにしようと決まった。そうしてお互いに対して発散しなくなると、少しずつではあるけれど寛大になってきて、少しのことでは喧嘩をしなくなっていった。
健太郎は感情的で直感的な人間であるから、寒くなるとすぐに鍋をやろうと言い出す。理論的で慎重な康子にとってはうんざりなことである。
その日も寒く、やはり健太郎は鍋が良いと言った。
「夕飯を作るのはわたし。けんちゃんの意見も取り入れようとしているけれど、何日も先まで予定を立てて買い物とかしてるから、急に鍋とかにはできないの」
「でも俺、鍋が食べたいんだけれど」
「じゃあ外に食べに行って。わたしはハンバーグを作って食べます」
「あ、ハンバーグ良いじゃん、早く早く」
こんな事にも慣れてしまうほど、三年は長い。でもわたしと食事をする方が良いのかもな、と思うと許せてしまうのがのちに付いた彼女の寛容さ。
ある晩健太郎が帰ってくると、真っ暗な健太郎の部屋に康子の座った影があった。
「どうしたの電気も点けずに」と言うがそれには無言で、代わりにしくしくと聞こえてくる。これは電気を点けるべきか否か、と考えるより先に健太郎の手はスイッチに向かっていた。
一体どうしたのだ、と問うと康子は力なく「死にたい」と言った。彼女にとってこう言った感情的なことはない、つまりきっと例外に当てはまるほど相当なことがあったのか、常々思ってきたことがここにきて完成されたのか、となる。
「死にたいだなんて言うんじゃないよ。ほら、よく言うじゃない。死のうと思いながら生きた一日は、生きたい人にとって大事な一日だ、みたいな。そういうこと言うじゃないの、だから死にたいなんて言うじゃないよ」
「でも人間は個人個人別々の思考回路、論理的展開、すなわち性格というのをしているのだし、こういうときだけ相対的な説得をされても、通知表は絶対評価であるし、個性を大事になんていう社会的風潮もあるし、誰かがどこかで生きたいと願っていたとしても、わたしも同じように死にたいと思っているわけで。そもそも死が悪いことだと決めたのは誰なの、わたしは悪いことだとは思わない。それに」
と延々と続いていくので、健太郎は見えない手で耳を塞いでじっと耐えた。でも生きたい人はいるし康子は生きているのだから死のうとなんてするのは違うぞ! と思っていた。
そういうくどくどとした説明が終わってから、康子は「死にたい」と再度呟いた。結局理由はよくわからなかった。
「たとえば仮に、俺が、康子には生きててほしいなあと思っていることでは、康子が生き続ける理由にはならないの」
「残念なことにわたしが死にたい理由はけんちゃんじゃないから、けんちゃんにいくら支持されても、支持しない人は支持しないまま。わたしはその支持しない人と接するのがつらいの。でもこのままだとその人とも付き合い続けなくちゃいけないし」と言ったところで、
「じゃあ会社辞めちゃえ。俺がなんとかする」と健太郎が言った。
わたしはこの男の「どや顔」を信じても良いのだろうか、と計算を始めるより早く、理論的な彼女にしてはえらく直感的に、任せてみよう、と決めた。
その翌日には、これもまたえらく即決に会社を辞めた康子は、時間を持て余しても健太郎の部屋の掃除をしたりだとかはせず、今までと同じようにはっきりとした境界線を保ったまま家の番をした。
そのまま二人は幸せに暮らしていった、と終わりたいところではあるが、人生とはそうそううまくはいかず、二人はその半年後に別れる。永遠だとか運命だとか、そう言った軽い言葉のプロポーズに、理論的な彼女の思考回路は付いていけなかったのだ。




