相川とわたし
2010年の拙作。再掲載。
「そう言えば前から気になってたんだけれど」
と、背中を向けたまま少し先を歩く相川に言ってみると、くるりと首だけ向いて、何だね少女、と返ってきた。
夜のコンビニに買い物をしにいって、二人でアパートまで帰る途中、明滅する街灯の下をそのリズムに合わせながらスキップするみたいに歩いていた。
「前からさ、相川は老若男女、誰に対しても、くん付けで呼ぶじゃない。あれ、なんでなの? 先輩の間でも相川は生意気だーってなってるよ」
チカチカ。トントン。
相川はわたしがケンケンパみたいなステップで隣に行くまでにしっかりとこちらに向き直り、腰に手を当てると少しずり落ちた眼鏡の方に合わせて顎をしゃくりあげて、見下すような態度でわたしを見た。間抜けだ、と思いながらわたしは次の明滅を待った。
トンっと隣に立つと、彼は目的地の方にまた向き直った。くるくると忙しい男だ。それからわたしの遊びに合わせるようにゆっくりと歩調を落とし、たまにこちらを振り返りながら、そもそもであります、と言葉を発した。
「くん付けが生意気と認識されることに理解が及びません」
「十九の若者が理解に及ばないなんて言葉を使う事実に驚きが過ぎるばかりです」
なんとなく二人で笑って、それから相川は煙草を取り出してくわえる。わたしも一本貰って、彼の煙草を伝って火を貰う。キスみたいで楽しい。いけないことをしている気分だ。
ぷかぷかとしながら、ステップの遊びを続けるわたしを、よくもまあ呆れずに隣に置いて居れるな、とも思ってしまうが、それはいまはいいや。
「で、なんで、くん付けなの」
「じゃあ逆に、なんで、さん付けなの」
「さあ、なんでかしらん」
「そんなものだよ」
「そんなものかあ」
と、その話はそれきりで終わったけれど、わたしの理解しすぎる頭脳は彼の思考回路をそれだけで読み取った。天才的な人付き合い、人間観察の術を持つわたしには容易いことなのだ。結局彼は親しみを持ちたいのだ、あらゆる人との間に。そこにある壁をせめて薄くしようと努力した結果が「くん付け」なのだ。
と、当たっていようがいまいがつまるところ実害がないから、色々な理由づけを好きなようにできてしまうのが、人間の良いところというか、欠点と言うか、ぷかぷか。
相川の「くん付け」の理由と同様に、わたしが彼の隣で煙草をふかしながらケンケンパをしていることに本質的な意味など求めてはいけないのだ。生意気だーっなんて、考える方がどうかしている。わたしは相川が好きで、相川は人間が好きなのだ。こんなにもシンプルなことに理由や意味など存在しない。
完全に切れてしまった灯りの下で立ち往生を十分くらいしていたら、仕方ないなあ、と言って背中を向けて目の前にしゃがみこむのだから、わたしは喜んでその上に乗っかった。
「相川くん、御苦労」
「生意気だー」




