深窓の令嬢編 15
「アーニャ…」
「………」
まずいところを見られた、と思った。
廃砦の秘密基地が見つかったということもあるのだけれども、それ以上にあの余所者二人とかかわっていたところを見られたことがまずいと思った。
森の物陰から姿を現したアーニャは、何か逡巡するかのように両手を胸のとこで揉み絞りながら、上目遣いのこちらを見てくる。
彼のちょっとした身振りに、おびえたように身じろぎするアーニャ。なんだかそのまま逃げ出されそうだと思った彼が少し前に出ただけで……彼女は本当に逃げ出しかけた。
「…っ!? 待ってアーニャ!」
「……ッ!?」
名前を呼ばれで、身震いしたように立ちすくむアーニャ。
そうしてゆっくりとこちらを見て、
「たまたま、…その、たまたまよ! 後を尾けたりとかじゃなくって」
彼女の中にも、いろいろと後ろ暗い葛藤があるのは分かった。待ってと反射的に言ってしまったのだけれども、なんと声をかけてよいのやらと一瞬頭が真っ白になる。
あの一件から何年も、会話すら交わすこともなくなった子である。会話の取っ掛かりすらなくて、コミュ障のきらいのあった中の元ブサメンも全く役に立たない。
ただ言いよどみつつも必死に考える。
事態の都合のいい落着点はどこなんだろうか。
「…やっと、名前呼んでくれたね、エディ」
「そ、そうだね…」
アーニャが一歩こちらへと足を踏み出した。
その瞬間に、彼のステータス異常であるPTSDがウォームアップに入った。自然と後ずさりした彼を見て、アーニャは悔しげに顔を歪ませた。
アーニャは、そばかすがないだけで姉妹らしくアリーとよく似ていた。瞳の色は姉と違って緑色だし、しぐさもいろいろと身勝手だった姉と比べて抑制的だったりする。4人姉妹の中間に挟まれていたためか、ひとの顔色をよく見て態度を選んでいるふうがある。…だけれどやっぱり姉妹なのだと、彼が思ってしまうだけの『空気感』を持っていた。
固まっている彼を見て、決然と目線を合わせてきたアーニャは、ぱっと駆け出した。もちろんこちらに向けて…。
驚いて逃げようとして、そのまま体勢を崩してしまった。その上から覆いかぶさるようにアーニャが抱き着いてきた。
「逃げないで! ちゃんとアーニャのお話を聞いて!」
かすかな汗と、女性特有の少し甘いにおいが鼻をくすぐる。
やわらかいアーニャの感触が身体を包んだ。男としてそれを楽しむよりも前に不安が彼の魂をぎゅうぎゅうと締め上げていた。彼を押し付けるために服の胸元あたりをアーニャの両手が握りしめている。実用性の高い田舎娘の服だけれど、多少丈夫であってもその気になればすぐにでも引き裂かれてしまうだろう。姉のアリーは、そうして彼の服を破って鼻息を荒くしていたのだ。
泣き顔を彼の胸に押し付けていたアーニャは、たぶん激しく暴れている彼の胸の鼓動に気付いたことだろう。すうっと上がった彼女の目は、恐ろしいほどにきょとんとしていた。
「アーニャどいて」
「…あたし、お姉ちゃんと違うよ」
「アー…」
「エディにエロいことなんかしない! 好きな子の嫌がることなんてしない! だから嫌わないで!」
そうしてさらに彼の自由を奪うように、ずり上がってきて彼の頭を抱えるようにしてしがみついてきた。顔を胸の谷間に抱え込まれて、姉妹の差異がそこにもあることに気付いたのは彼も男である証なのだろうけれど。
女性が性的な興奮を覚えているときの感じが、彼女からも強烈に放たれていることは疑いのないことだった。違うと言っておいて、彼女の脚はより強い密着を求めて彼の片足を挟み込んでぎちぎちと締め上げてくる。
額にかかる熱い吐息。空気を求めて顎をそらせた彼の目が、ねっとりと見下ろしている彼女のそれとぶつかった。
唇を重ねようと降りてくる彼女の顔を両手でつかんで、全力を振るって押しのけた。言ってる言葉にはちゃんと責任持ってよ!
「…ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったし」
「………」
緊張のあまり肩で息をしている彼の涙目を見て、アーニャはすっかりとしおたれてしまった。めそめそと泣きながらもうしない、絶対しないと謝ってくれるのだけれども、まあそれを信用するほどこっちももう初心じゃない。
「エディがきれい過ぎるのもいけないんだよ。他の子たちだって、影ではいっつもエディをおかずにしてるって……あっ、ち、違うから、あたしは絶対そんなことしてないし!」
「………」
おかずにされてるとかいう情報、誰得なんだろうか。
この世界、どうも全体的に女性優位っぽい気がしてるんだけれど。村がそうなのは男の早死にで女性の比率がずっと多いというそれっぽい理由はあるのだけれど、もしかしたらここ以外もそんな感じなのかもしれないと思ってしまう。
人が死にやすい世界って、子孫を残すために女性の性欲も増進しているのかもしれない。まあ今考えうるようなことじゃないんだけど。
少し距離を取ってもらい、肉体の接触がなくなってようやく冷静になってきた彼は、事態収拾の方向性を考え始めている。
廃砦が彼の秘密基地であることがアーニャにはばれてしまった。
さらには余所者二人とひそかに接触していたことも見られてしまった。
秘密基地については、無用な厄介ごとを抱え込んでしまうことになるけれど、秘密の共有者として彼女を抱きこんでしまえばちらはまず解決だろう。計算ずくで考えてしまう自分には嫌気がさしてくるけれども、彼女はこっちにあからさまに好意を示しているし、自身が村八部になっている現状、女会幼年部で常に話題の要となっている彼とのつながりは、仲間を『見返す』的な意味で非常に魅力的であるに違いない。
現に今、彼女のほうから回りくどく申し出があった。
「…ここのこと、エディは村の子たちに秘密にしてほしいんだよね?」
ちらっ、ちらっ、と。
彼の弱みを握ったかもしれないと、井戸の深さを確かめる小石のようにアプローチの投げ込みが始まった。
「いいよ別に」なんて強気な答え方はできない。腹いせにすべてを村でばらされたら、想像するだけで冷や汗をかきそうなかしましい軍団の襲撃を受けかねない。まだ外の世界に出ていくための技能をちゃんと身に着けていないのだ。その貴重な訓練時間を、無駄に浪費などしたくはない。
「…秘密に……してくれる?」
おどおどとそう問うた彼に、アーニャは笑顔を晴れやかに弾けさせて、うんうんと何度も大きく頷いて見せた。また飛びついてこようとしたので、今回は華麗に身を避けてみた。
より問題なのはもうひとつのほう、後であの余所者たちが村で面倒事を起こした時、それを事前に知っていたはずの彼の『罪』がクローズアップされて、アーニャに『致命的』な弱みを握られてしまうかもしれないことだった。
あの二人が何も起こさなければよい。村に寄らず別の土地に行ってくれるのなら問題はないし、レドンネ村のあるかなしかの庇護を得ようと立ち寄ったとしても、村に害のない関わり合いしか生まれなかったならばそれもセーフである。
しかしあの二人、山賊に命を狙われていたのだ。
それもいちびりの山賊どもが、村の猟師たちの警告をあえて無視してまで追ってきたあたり、よほどの金か裏の力が働いていたとみて間違いない。
政争?
それとも賞金首?
たとえば世継ぎ争いとか……あるいはここいらの領主アマル伯をも巻き込む大掛かりな派閥争いとか……ともかく『消される』だけのなんらかの問題を背負い込んでいる可能性は覚悟しておいた方がいい。
なんせ『殿下』と『大貴族当主』様のツートップだ。
もしも村に保護するような展開になって、そのことが周囲にばれでもしたら……一帯の山賊が総出で襲撃してきたり、伯爵家が出張ってきて無理難題を突き付けてきたりと、嫌な展開の波状攻撃が容易に想像できる。
もしもそんな厄介な余所者の存在を彼が事前に知っていたとばれたら、大目玉ではとても済まない厳しい罰が下されることだろう。それこそ村の存続にかかわるような大事にでもなっていたら、家族も連座とか十分にあり得そうで怖い。
(アーニャは確実に取り込んどかなきゃ……終わる)
彼は唇を噛んだ。
彼は人並み外れて美しく生まれるという望外な『チップ』をまだ大量に持っている。その『チップ』をおのれの将来のために有効に使うとするなら、こういうときだって対象になると思う。
世界がジワリと歪み始める。
静かに涙をこぼし始めた彼を、アーニャが抱きしめた。