深窓の令嬢編 13
「あっ、起きたんですね」
彼はつぶやいて、手の中で皮を剥いていたおやつ代わりの林檎をなんとなく差し出してみた。
「食べます?」
ほけっと、起き抜けのぼんやりした眼でこちらを見ていた金髪の優男が、だんだんと表情らしきものを現し始めて……さっと伸ばされた手が彼の手首をとらえた。
薄目もいつのまにかこれ以上はないくらいに見開かれていて、ラムネのビン色の瞳が食い入るようにこちらを睨んでいる。
「…あの、痛いんですけど」
「………」
病人相手に怒るのもなんだかなと思って、微笑んでみたのだけど。
こいつ結構バカ力でやんの。彼のか細い手首の骨がきしんで、痛みで苦笑いみたいになってしまう。
どうやら頭が働いていないらしく、何のために手首をつかんできたのか、次になにをするつもりなのかが本人にも分からない様子だったので……腹が減って林檎が食いたくてしょうがないんだと勝手に解釈した。
自由な右手のほうで剥きかけの林檎を持つと、金髪優男の口に強引にねじ込んでみた。こいつまったく喰おうとしないので、ちょっとイラついてグレープフルーツのジュースを絞る要領でぐりぐりしてやった。プライスレスの微笑み付きで。
そこでようやく金髪優男が我に返って、なんだか急に素直に林檎をかじり出した。おい、食うんなら自分の手で食えよ。男相手にあーんとか、そういう趣味はない。
そのときだった。
かじりかけの林檎が石床に落ちて、ああもったいないと目でそれを追いかけた彼はいきなり金髪優男の懐の中に強引に引き寄せられていた。
そのまま全力ハグされそうになったのには驚いてしまった。
鳥肌の立った両腕で反射的に抵抗し、脱出を試みるも今度は腰に手を回されて引き寄せられる。そのまま押し倒される寸前になって、とうとう彼の堪忍袋の緒がぷつんと切れた。
反撃はまるで某VRMMO小説のスキル技のように、流れるように発動しました。
そりゃ素の力ではかなわないので、引き寄せられる力をカウンターにとって……顎めがけて頭突きを食らわせてやりました。その衝撃でさすがにのけぞった優男に追加コンボ……自由になった両腕でスリーパーホールド……そしてそのまま全体重をかけて後頭部を石床に叩きつけてやりました。
なんだかプロレスっぽい技の流れになりましたが、格闘技は詳しくないので技名は分かりません。
再び夢の世界に旅立った金髪優男を見て、ちょうど帰ってきたらしい騎士様が、部屋の入口のところで付近の森から集めてきたのだろう薪をガラガラと取り落としていました。
自分はいっさい悪くないと確信している彼は、落とした優男を見下ろすように立ち上がり、なんとなく手のほこりを払うように叩いてみた。喧嘩に勝ったみたいで少しかっこいいのかもしれない。
「でででっ、殿下ああッ!」
床で伸びている優男に取り付いた騎士様が、射殺すようなすごい涙目でこっちを睨んできます。
ああ、そうですね石床で後頭部バッティングとか脳内出血とかちょっとありそうですもんね。
仕方がないので、治癒魔法を少しだけかけてやります。ただもしかして男色趣味とかあるのなら近寄りたくないので、少し遠間からちちんぷいぷいです。
「いろいろと見かけを裏切らんでくれい。頼むぞ!」
「正当防衛ですから。あんまり後悔はしていません」
「ちゃんと寝かせて差し上げねば……娘、その小汚い布をちゃんと敷き直すのだ。妙な臭いのするボロ布だがないよりはましだ」
「はいはい、分かりました」
いまこの騎士様、『殿下』とか言いやがりましたが、とりあえず聞かなかったことにします。優男の寝床の敷物となっているのは、かつて彼がこの砦に監禁されていたときにベッド代わりにされていた、あのいろいろと生臭いものを拭っていたフェルトの布だったりします。
この廃砦を再利用し始めた頃は気持ち悪くて近寄りさえもしなかった牢屋区画でしたが、慣れとは恐ろしいもので、いまでは有用な脱出路に続く便利な部屋として、脱出用の荷物を集積しておく倉庫にしていたりするので、あの時放置されていたフェルト布もそのままなのを知っていたわけで。
自分で寝るわけじゃないので、遠慮なく優男のベッドにそいつを使ってあげました。年月がだいぶんと臭いを薄くしているのですが、臭いことに変わりのないフェルト布で横になる優男の図は、いくらか彼の溜飲を下げるポイントになっていたりします。
…と、ちょっと待て。
いま優男が目覚めたところでもしかしてこの二人を追い出せてたんじゃないのか。くそっ、やっちまった。
結局その日のうちに金髪優男が目覚めることはなく、両親に無断で外泊するわけにもいかない彼は日も落ちかけた夕方頃に廃砦をあとにする。
「勝手にうろつかない、勝手に漁らない、明日ぼくが来ても閉め出さない。約束ですよ」
「ああ、承知した。…そのほうも村に戻ったら、薬とまともな食料の調達を頼む」
「さっきも目が覚めたようですし、朝ふたりとも目が覚めてたら、その荷物を持ってとっとと出て行ってくださいよ。これ以上の厄介ごとはごめんです」
「ああ、分かった分かった」
あの男色疑惑のある優男とは違い、こちらのダンディ騎士様は割合に話の分かる人のようだ。秘密基地を得体の知れぬ余所者に明け渡すことには後ろ髪を引かれる思いであったけれども、マイペアレンツは5歳のときの家出がトラウマになっているらしく、彼の外泊はたとえ知り合い身内の申し添えがあってもけっして許してはくれない。
帰りが遅くなればすぐに捜索隊が出てくるノリなので、おそらくは彼の秘密基地候補の『怪しい』場所のひとつである廃砦もすぐに探されてしまうと予想される。それは彼的にありえない。
家に着くころにはもうすっかり日も落ちて、玄関先には腕を組んで仁王立ちのママンが彼の帰りを待ち構えていた。その隣にはマイフィアンセもふくれっ面をして睨んでいる。
「エディのバカバカアホちん!」
最近ようやく身長が伸びてきて、飛び込んできたレネ嬢にも何とか耐えられるくらいにはなっている。まだ背は抜ききれてはいないけど。
「エディ、もっと早く帰る約束でしょ? 母さんがどれだけ心配したか」
「ご、ごめんなさい」
「…まあいいわ。外でなにをしてるのか、母さんには内緒なんでしょ。あの人が言うから認めて入るけど、前にあんなことがあったんだもの、無用心なことだけは絶対にしちゃだめよ」
「うん…」
いつまでもぐりぐりと頬ずりしてくるレネ嬢ごと家に入る。
彼女はもう『家族同然』の扱いを要求してウィンチ家に受け入れられてしまっているので、最近は晩御飯とかも一緒に食べている。
レネ嬢のスキンシップは割りと鬱陶しいので無心になるよう別のことを考えつつ歩く。
あの厄介者たちのこと、最低でも父さんには話しておいたほうがいいのかもしれない。怖くて詳しい事情などいっさい聞いてないのだけど、もしも村を巻き込むような企みをあの騎士様が抱いているのだとすれば、村としても事前準備するために早く情報が欲しいに違いない。
相談するタイミングをいろいろ検討していた彼は、家に入ってしまうその寸前に、隣家の物陰からこちらを見つめている眼差しに気づいた。
ちらりと見たその先に、赤毛の少女が……それが彼の心をひどく揺さぶるアリー姉に見えたので息を飲んだのだけれども……すぐにそれがあのときのアリーと年恰好が近いアーニャであることがわかった。
気付かれたことを察したのだろう、彼女は慌てて物陰に身を潜めたのだけれども、普段から村八分な苦しい状況にある彼女を知っているだけに、見つめられた意味をいろいろと想像してしまう。
村を出てしまう前に、彼女に何かしてあげられることがあるのだろうか。
「どうしたの、エディ」
立ち止まった彼の手を抱きしめるように引いて、レネ嬢が問いかけてくる。
レネ嬢が隣家からの視線にとうに気づいていることなど彼には分からない。それからまた過剰なくらいスキンシップをしてきて、ちらりとその勝ち誇ったような目が隣家へと向けられることにも気付かない。
わずかな異変の兆候を、彼はそうして見逃してしまったのだった。