深窓の令嬢編 10
まあ、ドレスを着て狩りとかはやっぱり難しいわけで。
まさかほんとにそれが実行されるなんて、翌日になるまで冗談みたいに思っていたんだけれども、着替えとか言って母さんがマジもんを持ってきたときに彼の今後の運命が明らかになった。
そのうち着せてみたいと思ってたのよとか、たしかに身の丈の合った服が用意されていたので思っていたのは間違いないのだろうけれども、溺愛する息子の泣きの嘆願を蹴って無理強いするほど、母さんは悪趣味ではなかったはずである。
彼がたとえそれを嫌がっていたとしても、家族として『付き合ってあげられる』一線を母さんは弁えていて、空気を悪くするような趣味の押し売りみたいなことはいままでなかったと思う。
明らかにショックを受けている彼を見て、浮かべた母さんのにやにや笑いは、どこか作り物めいて薄っぺらい感じだった。
女会常長の孫娘の勘気を買うことを恐れたのだろう。近頃息子が孫娘に対して『いけず』であったことも分かっているので、彼女の歓心を買うことで女会での自分の立場を守ろうとしているのだと察した。
お城の侍女っぽい地味目のロングドレスを着せられている間、無言で俯いている息子に母さんはとても言葉少なだった。色合いの地味なものを持ってくるあたり、多少は配慮もあったのだろうけれども。
でもやっぱり、ドレスで狩りはありません。
きっぱりと、ないです。
父さんから「今日は止めとくか」と耳打ちされても、彼は頑として受け入れません。ドレスだって何だって、やってやろうじゃないか。半ば自棄になってその日の狩りについていったのですが…。
スカートの裾は枝や茨に引っかかりまくり、その物音で森の魔物たちは危険を察知して逃げ散っていきます。ドレス姿で矢筒を背負う彼を見て、最初はなんだか生暖かい空気になった男衆でしたが、半日もそうした徒労が続くと、誰もはっきりとは口にしないのですが、お帰りいただきたいという雰囲気が濃厚に漂い出しました。
涙目の彼が手を上げる前に、父さんが嫌な流れを断ち切った。
「オレたちはここから別で動く。無駄足を踏ませたな、悪い」
手を振って男衆と別れて、父さんといつもと違う狩場へと向かった。
むろん別れたとはいえ彼のドレスが狩りの邪魔をしているのは変わりがないわけで。
森の少し開けた場所で水筒の水を飲みながら重い空気のまま休憩していたときに、父さんが思い切ったように話しかけてきた。
「お前はこれからどうしたいんだ、エディ」
彼の境遇のいろいろな意味でのつらさに、かつて村一番のモテ男であった父さんも斟酌できることがあったのだろうと思う。
同時に、村一番の猟師でもある父さんは、息子の驚くべき才能についても誰よりも分かっている。同年代の子供がようやく弓の引き方や山歩きのペース配分だとか習い始めたばかりだというのに、すでに腕っこきの猟師たちの足手まといになることなく一緒に野山を駆けられ、警戒心が強くて狙いの難しい樹上の鳥さえ射落とせる息子の才能は、猟師仲間でもいっぱしの戦力として認めるにやぶさかでないほどに開花し始めている。
「ちゃんと猟師の訓練を続けてたいというのなら、父さんが何とか村長に頼み込んでみよう。いずれあの娘と結婚してレドンネ家に入れば、特に必要のない技術になるだろうが……もう少し大きくなってから確認しようと決めていたんだが、もうそんな悠長なことも言っていられなくなりそうだしな。まえに魔法学校に入りたいとおまえが言い出したときに、もしかしたら猟師としての技術も、おまえにとっては村を出るための『方便』に過ぎないんじゃないかと、父さんは思った」
「………」
さすが家族。見抜かれている。
「狩りの後、お前はいつもひとりでどこかへ行っていたな。暗くなるまでいろいろと鍛錬しているのだろうことは、その手にできた握りタコで分かる。弓のタコと場所が違うからな。…騎士の真似事でもしていたのか?」
「…ぼくはたぶん、どこへいってもいろいろと危なそうだから……身を守る手段が欲しいんだ」
「そうか…」
父さんはため息をつくと、もどかしげにがしがしと頭を掻いた。
「あんなことがあったんだ、女が苦手になることもあるか…」
「………」
「レネ嬢との結婚……乗り気じゃない、か」
村で大きな力を持つ村長一族とウィンチ家、もうすでに両家の間で正式な婚約が結ばれている現状で、若夫婦と子ひとりのささやかな家族でしかないウィンチ家側から、婚約の破棄など口が裂けても言えることではない。
大人の都合で物申せば、10歳の子供のたわごとなど聞く耳を持つ必要さえない取るに足らないものに過ぎない。ただ婚約という契約を履行するように強要すれば済む話である。
しかし父さんは、彼の自由意志を無碍にしない決意のようだ。
「結婚相手だけは、よくよく慎重に選ばんとえらいことになるからな。…お相手候補が大勢いるんなら、じっくりと考えることも大切だ。父さんも考えたしな」
さすが村の若衆から「モゲロ」と呪詛をかけられ続けた元イケメンである。
似たような状況を体験したことがあるのかもしれない。
「しかしまあ、親のオレたちがどう思おうが、当人が決意して村から逐電してしまえば、結婚結婚騒いだところで結局どうしようもなくなる。…切羽詰ったら、逃げることも考えてたんだろう?」
「父さん…」
「って、すぐにめそめそするな。小さい頃からまったく変わらんなぁ」
「もしかして、村を出ても……いいの?」
「いや待て待て、いまの程度じゃ絶対に許さんぞ。…確実に自分の身を守れて、てめえの食い扶持をしっかり稼げるぐらいにならんと、エディ、これははっきり言っておくが、おまえ外の世界に行ったら、いまのままだと10数えるうちに攫われるぞ間違いなく。お前はいろいろと人目を引きすぎる」
「身を守れるくらい強くなったら、出てもいいの!?」
「うーん……強いっていっても、そんな簡単なレベルじゃないぞ。そうだな、まあ悪い大人を片手で倒せるぐらいになれたら……いやいや、ちょっと待て、早合点するな。そんな程度ではぜんぜん足らん。10人くらいの人攫いに襲われても、鼻歌うたいながらテキトーにノしてしまうぐらいの強さじゃないとダメだ。それぐらいじゃないと許可は出せんぞ」
「そんなの、矢で物陰から狙えば簡単だよ」
「こらこら、街中の人混みだったらどうするんだ。簡単に矢なんか使えるわけなかろうが」
「…じゃあ剣で! 囲まれても剣の達人みたいになで斬りにできれば…」
「いや10人に囲まれたら剣の達人だって負けると思うぞ」
「じゃあどうすればいいって言うの。…10人に囲まれた時点でほとんど負けみたいなもんじゃないか。そしたらこの村の住人は誰ひとり村の外に出れないことになるよ」
「普通のやつはいいんだ。外に出たって誰もなんとも思わん。エディ、おまえだからそのぐらいの『護身術』が必要になるんだ。無理なら外になんかやらせん。我慢して村で暮らしたほうが百倍安全だしな」
「…じゃ、じゃあ、『魔法』は?」
「魔法か……そういえば治癒士のばあさんが、すごい才能があるって言ってたな。まあ身を守れるなら、手段は何だっていい」
そうして、頭をぐしゃぐしゃと掻き回されて。
ほんとうにその才能があるんなら、急いで伸ばしたらいいと、父さんは言った。父さんの頭の中にも、息子のわがままを聞き入れられるタイムリミットが意識されているのだろう。レネ嬢との結婚が具体的に動き出したら、周囲にかかる迷惑が途方もないことになるので、そこでたぶんチャンスは永遠に失われることになる。
休憩が終り、父さんは狩りを再開するために歩き出した。
父さんは彼に違う方向を指差して、暗に「秘密基地で訓練でもしてこい」と言ってくれた。
彼は父さんの背中が木々の間に見えなくなるまで見送った後、ありがたく廃砦へと向うことにした。
父さんを納得させられやすいのは、『魔法』か。
限られた時間のリソースをどの訓練かに費やすべきか、それが見えたのは非常に大きかった。