◇3
「…………お兄様だと仮定しましょう」
「ああ」
と、王子が何の気なしに返事をする。
ただの返事だ。
それさえ美しい顔がゆったりと言えば物憂げで、のほほんとしている様子は良い意味で言えば大器なのか、悪い意味では何も考えてない様にも取れて、私に言わせれば優美な雰囲気が反対に余計に思考を苛つかせ惑わせる。
頷いた拍子に垣間見えた光を放つ額の紋章に、私の喉がごくりと音を鳴らした。
確かに兄の名がある、あるけれども。
本当は仮定も何も無い。
私の悪足掻きの様なものだ。いくら同じ時間を過ごした共有出来る記憶があったとしても、兄様とも婚約者とも納得するには余りにも唐突だったし、情も邪魔をしていた。
事実を事実と認める事が難しく、考えるには何を指針にしたら良いのかさえどうしたらいいのか戸惑ってしまう。
基本的な呼び名でさえ。
フォーリールフナー王国の王子が婿としてこの国に来た、ただそれだけで良い筈なのに。
私の思考は非常に混乱しており、常では冷静極まり無いと言われているのにも関わらず、考えは未だ纏まらずにいたのを良く分かっていた。
何にせよ、考えを纏めたかったのは間違いがなかったのだ。
「でも……やっはりそうは思えないのです」
だから一瞬、タイミ王子の片眉が上がったのを見て身体が強張りそうになった。
本当に仮定も何も無かったし、この言葉は更に王子を否定したのを確定した様なもので。
怒りを向けられても可笑しくない。
私は話を蒸し返し、面と向かって『嘘を吐いていると疑って、まだ信じてない『信じられない』と、そう言っている様なものなのだから。
目の前の王子は、私の記憶の断片に付き合い、兄様だと証明した。
そしてその時、私だけではなく多分この国に申し訳ないという悔恨が『すまない』という謝罪の言葉を発したというのならば、今の言葉は重ねてそれも無かった事にし、更に突き詰めれば復讐の話も無かった事になる言葉だった。
けれども、溜息の様な鬱蒼とした気持ちがそのまま私の口を衝く。
「もしかしたら、紋章自体を皮膚に入れ込んだという事はないのかしら…………?」
今度こそ王子を怒らすだろうと分かっていたにも拘らず、既にその言葉は口を衝き、取り返す事は出来ない。
しかし、それでも尚、気になるのは精霊印を見る事が出来る事実、兄様の名を見る事が出来る事実だ。
王子自身が精霊印を認識しているならば、それは精霊を介して水と風の竜に繋がっているという事になるのだが、王子はその繫がりが無い様にさえ見えた。
僅かな水を出して動かす程度の精霊力…いやどちらかと言えば魔力に寄った力しか持っていない様に見えたからだ。
何故なら、彼の周りを守るように漂う精霊達は、カラム兄様が居た時に比べて稀薄であり薄弱でもあった。
カラム兄様であるというのなら、何故そんな状態なのか。
昔、カラム兄様と一緒に居た時の精霊達はもっと色鮮やかに美しく楽しそうだった。
今の私でさえ、思い出しても羨ましいのだ。
第一、精霊の笑顔はリューラランの通常の生活を行っていれば誰でも見れるものなのだから不思議でも何ともないのだが、だからこそ今の兄様の状況がちぐはぐにも滑稽にも見えた。
兄様の記憶があるならどうして、と。
水を操るのは大変困難である事は常識だが、兄様は今のタイミ王子よりも無意識とはいえ、精霊たちと上手く関係を保っていたと思う。
精霊力と魔力の違いを表すのならば、精霊力は世界から自然から力を貸してもらう。魔力は自分の魔力を介して自然を動かす様なもので、それらを踏まえれば、兄様は世界を愛して愛されている様な方だった。
『精霊印』を作る事が難しいのは分かっている。
それは本当に精霊達に愛されているからに他ならないとリューラランでは伝えられているから。
だから、兄様よりも精霊達に愛されている者がいるとしたら、タイミ王子になった兄様に紋章を入れる事が出来るのではないかと思ってしまうのだ。
例えそれが、夢物語のように無謀で完成したという話を聞かなかったとしても、自分でさえ兄様以上に精霊に愛されている者がいるなんて考えられなくても、更にまたカラム兄様の紋についてよく知っている人物がフォーリールフナー王国に居るという前提があってこその事だが。
しかし彼の国とは、それを完成させているのではないかと思わせるそれだけの国なのだ。
『紋』についての知識は、どの国に比べてもフォルフナーが俄然豊富。
精霊学魔法学についての知識も勿論、研究の国、学者の国なら新しい発想もあるだろうが、勿論古来よりの曲げてはいけない敬虔さ等も変わっていない筈だった。
そうは思うが、そのフォルフナーの王子になってからこんなに精霊達の空気が微弱なのだろうか?私は内心首を傾げてしまう。
精霊印を含めた紋章自体がカラム兄様の名前だからだろうか?だから、どうしてもちぐはぐで何かまだ良く分からない印象を受けてしまうのだった。
「態々刺青を額にこんなに細かく?それを赤ん坊に強いるのですか?」
穏やかな質問がタイミ王子の口から溢れ出る。
どうして刺青が出てくるのか私には分からなかったが、しかし、これは怒っていると流石に気付く。
自分の乳母や騎士団の副団長達、それと東と南の神殿長が怒っているのと左程の違いが無い怒り方だ。
静かに怒っている。
穏やかな水竜が今にも川から頭を出そうという様な、本当なら滅多にない吉事なのに、後の事を考えると喜べない状態に本当に酷似していて、カラウィーンはティーカップの中を見つめ、相手を極力見ないようにしていた。
「赤ん坊かは兎も角、もしかしたら催眠をかけて紋章を彫ったのではないの?」
何故、刺青という話が出たのかは良く分からない。
今のリューララン国でも恋人達が愛の記憶の為にこっそりと彫るというのは聞いた事がある。
精霊印は精霊の籠でしかないし、紋章は更に神の恩寵とさえ言われる位だ、確かに彫る事は出来ないと自分では認識している。
でも王子が言うなら、転生した兄様が言うなら、フォルフナーでは紋章自体を刺青という方法で皮膚に入れ込む事が出来るのかもしれない。何せ研究の国、学者の国から来たのだし。
「…………では貴女が行えばいい」
低く凍り付いてしまいそうな声。
「赤子のあの滑らかな肌に針を打つ事を考える人間がいたら、私はその人間性を疑いますね」
軽蔑の音。
「赤ん坊かは兎も角とは、赤ん坊を産んだ友人を心配する人間の言葉には聞こえませんね。国の謀で子供に、それも赤ん坊に魔法を使ったとしても刺青を強いるのが当たり前な考えとは……私には理解出来ません。男の私でも、今でさえ黙ってはいられないのに、母親だったら余計でしょうし、それが…普通の母親……女性の反応かと存じますが?」
一瞬、何をそんなに怒っているのだろうと思った。
しかし言葉が染み入るように理解すると血の気が下がった。
はっ、とカップを見詰めていた顔を上げれば、隠しもしない冷たい瞳。
それがまた目から下は別人なのではないかと思える程に柔らかく微笑むのだから、まさに皮肉気であり、更に胸を抉った。
良く分からないとは、そのままの言葉で、その先を考えてはいなかったという事。
言われるまで考えようともしなかったという事。
その言葉を私は吟味さえしていなかったのだ。
精霊印も紋章も、私は恩寵であると思っていた。
幸福なその証だと。
世界に愛されている、と。
けれども良く考えれば、もしその希少なものが『無い』とするのならば、何かに頼らなくてはいけない、別の物であるという事だ。
そしてそれは、フォーリールフナー王国のこの王子でさえ『刺青』と言うのであるならば、『そういったものが大多数の代わりである』という事なのだ。
『彫る』というのは針を打つ、という事だ。
愛されている、恩寵、とは真逆である。
王子が赤子の頃から紋章を持っていたという事を『無し』と疑うという事は、『そういう事』があったというのが前提にあるという事なのだ。
今、私が何故この王宮に戻っているのか、まずは友の産んだ子供の言祝ぎを行う為ではなかったか。
王子の軽蔑は当然だ。
「そうですね、ごめんなさい。……失言でした…」
恥ずかしかった。自分は馬鹿だとそう思った。
いくら何でも、疑ったとはいえ、根本的な事を欠落した考えは、人間として更には王族として、未熟な事をさらしたも同然だ。
赤子を祝う、祝いたいだなんて、自己満足でしかないのではないのか、そうとさえ考えてしまいそうになる。
赤子に刺青を入れる事を当たり前に思う鈍感さが、胸に痛い。
だから余計に顔を上げられなかった。
「私も言い過ぎました。『赤ん坊かは兎も角』ではなく、『ただの人体へ』という前提でしたら、フォルフナーでも肌に『紋』を刻む事は出来ておりませんよ。出来ていたら、革で出来た防具に『紋』を刻んで真っ先に売って儲かっておりますから」
あぁ、心が押し潰されそうだ。
リューラランに来た皮肉。
分からない訳が無い。
リューラランは多くの大陸でも一番南方に位置し、暑く不便で殆どが砂漠に囲まれ人が生活する場所は小さく、中央にある大国とは比べるべくも無い国だ。
それでもこんなに繁栄しているのは、海の要所でもあり、大国と大国を繋ぐ重要な位置でもあるからだ。
言外に『儲かっていたらこんな政略結婚なぞしない』という皮肉に気付かない訳じゃない。
それは私自身がひしひしと感じていた事、考えていた事ではなかったか。
もしカラム兄様が生きていたなら、私自体が結婚という名の体の良い人質になる存在だったのだから。
それは既に婚約者のいるフォーリールフナー王国の王太子の側室だったかもしれないし、隣接している北東のロウ帝国に居るまだ十歳にも満たない王太子の正室だったかも知れない。
立場が違えば、この兄様の生まれ変わりと言う王子と会う事も無かった。
ふと、そう言わせてしまった、という事に気付いた。
私はここまで否定的な態度を取り続けた事によって、皮肉も言いたくもなるだろう事に。
思わず顔を上げた。
どうしても申し訳の無い気持ちが溢れそうになる。
否定するなら何故、いくら巫女とはいえ私はカラム兄様を探さなかったのだろう?
どうして、今日の様に砂馬を走らせ時間を見繕う事さえしなかったのだろう。
今日の様に頑張れば、半日の自由は五日に一度くらいは自由な時間が持てていたのかも知れないのに。
行方不明の兄様が死ぬ事も無かったかも知れないのに。
タイミ王子が頷き、柔らかく穏やかに微笑んだ。
「まあ、兄だと言っても血は繋がってませんし、年下ですし気にしないで下さい。ただ…………結婚式の前には犯人の特定と共に復讐させて頂きたいだけです」
申し訳ない、と口が衝きそうになった時、再び王子の願いを聞いて、私は唐突に悟る。
あぁそうか、と。
この王子の諦観の様な言葉に。
王子が頭を垂れる、その訳に。
あの尖塔の前でさえ謝ったその訳に。
胸を突いたその痛みの意味に。
結婚よりも復讐。
その言葉に、私は例え政略結婚だったとしても、私自身を求められていると少しでも思いたかったのだろう。
そして、それは無意識に私は無条件に愛されると、どこかで思っていたのではないのか。
そうして知る。
自分の浅ましさを。
私は恋をしたかったのだと。
国同士のやり取りとはいえ、私個人に好意を持って欲しいと。
それは当たり前の感情だろう。
けれどもそれは、目の前の王子に……兄様に再び復讐の意思を表した事によって無理であろう事を伝えられたのだ。
だから、謝らないで下さいと、そう言われた時私の胸は微かにでも痛んだのだ。
タイミ王子が今まで黙って眺めていたお父様にへ向き直る。
「ではリューララン王。カラウィーン姫をホロ神殿にお連れした後、先程お話した通りに私はカラム王子の……探索に参ります」
タイミ王子が言葉を濁したのは、あぁそうか兄様だから。
お父様は気付かないのか、それとも気付いても表に表さないだけなのか、きっぱりと返事を返す。
「よい、許す」
「それと………」
王子は微かに視線を私に寄越したけれど直ぐにお父様に向き直り、視線を受けたお父様は僅かに頷いた。
「結婚式は今日から22日後だ。カラウィーンの巫女としての勤めはまだあるからな。城に戻り次第カラウィーンは用意を行うが、それも5日程は必要だろう。カラウィーンは16日後にこの城に戻ると考えて貴公は2日はあれば十分か、20日後には必ず帰って来るが良い」
「ありがとうございます陛下」
淡々と続く二人の言葉に私は口を挟む事が出来ない。
話の内容からして、二人の間で話は決まっていて、知らなかった私に改めて聞かせる様なやり取りだった。
「では、まずはカラムの身柄を確認してからだ。サエス」
「はっ」
叔父様が一歩踏み出て一礼を返す。
私達家族の前では穏やかな叔父様も、こうして王子が居るだけで違う所作と雰囲気になるだから、もしかしたら叔父様も未だ王子がカラム兄様とは思っていないのかも知れない。
「何人かタイミ王子につけよ。確認次第公文書を預ける」
厳かにも聞こえるお父様の固い声に、そういえば、王子に共の者って沢山来たのかしら?と思う。
私が他国に嫁ぐ際は侍女が一人か二人しか付けられないと聞いたけれど、それは他国の男性でも同じなのかしら、と場違いにも思いは過る。
「では騎士団から副団長ヴァハルは如何でしょう」
叔父様の声に内心歓声を上げた。
ヴァハルは私の良く知る人物で、この宮廷内で沈着冷静なあまり表情を崩した事がないと言われるほど珍しくも落ち着いている者だ。
騎士団には総じて血の気が多いと言われている。
勿論お国柄というのもある。砂漠に近い為、暑さに弱く市勢の様にある意味でのんびりと暑さと共に行動を決めることは少ない。民の一部には昼寝の時間を取る者も居るという。
堅実な騎士団の中ではそんなのんびりとした状況は少ない。だからこそ、近衛騎士団等それぞれ色々な総称はあるが、副団長以上になれば全ての騎士団を兼任した実力者揃いで、いつその団を移動してもその同調率は高く行動力や連携も素早いと言う。
何にせよ、国で一番信任の厚い者達がそれぞれの副団長以上及びそれなりの地位を任されているのだから、誰もがそれぞれ勇名を轟かせている中で、それでも沈着冷静なヴァハルを王子の傍に任すというのは、やはりお父様は王子を兄上だと既に認めている様にも感じられるのだ。
「よい、人選はヴァハルに任す」
「畏まりまして」
「では、タイミ王子、これからカラウィーン共々リューラランを宜しく頼みますぞ」
お父様はタイミ王子を真剣な瞳で力強い声と共に頷いた。
前章のタイミ視点で書かなかった部分につきましては必ずその内別途記載する予定ですので御安心下さいませ。