◇4 タイミ
「…………お兄様だと仮定しましょう」
「ああ」
「でも……やっはりそうは思えないのです」
カラウィーン姫の快晴の蒼を纏う深緑色の瞳が更に陰る。
それによってタイミの片眉も僅かばかり上がったのだが、余りにも微小で『さもありなん』と、のほほんと頷いた姿が鷹揚に映り、僅かに光を放つ額の紋章がさらりと落ちる前髪から僅かに覗いた。
二人が並ぶと金と銀をちりばめた穏やかな一幅の画の様であったが、交わしていた言葉は剣呑でさえあったのだが。
「もしかしたら、紋章自体を皮膚に入れ込んだという事はないのかしら…………?」
姫は勿論タイミも、この疑問が的外れである事を良く知っていた。
一部の知識人、いや殆どの人々が、魔法を持続的に使う事が出来る『紋章』を作るのは大変困難である事は常識であったからだ。
魔力が使える『紋』は、認証等の一時的なものに関しては書き込む……つまり記載する事が可能であるが、これは使ってしまうと直ぐに消えてしまう。
長く半永久的に使われるものに関しては、古文書等に残っている当時の柄で、必ず全て均等なる魔力で刻まれていたのであるが、現存するものとしては古代から伝わる品々が当てはまる。
故に、魔力を間違いなく均等に刻む事がどれだけ時間がかかり大変なのかは、知識人が、そしてそれらを精製する魔導師や職人達が、利用する騎士や傭兵や冒険者達が良く知っていた。
ただのスタンプでさえ斑が出るのである。
『魔力を均等に』といった事がどれだけ面倒な事なのかは推して知るべしといった所で、故に一級品といった物は高価であり、なかなか世間一般には流通しない。
一般に流通するものは数打ち物と呼ばれ、古代紋様ではなく最近の紋様であり、それらは魔力の込め方も荒い為に魔力の発動もブレていたり癖があって使い辛い物だったり、直ぐに『紋』自体が消えてしまったり、或いは古代紋様で古い品でも曰く付きの物が多かった。
故に剣や盾、防具等の物でさえそれだけ大変なのだから、人肌に一つ一つ刻む事は途方もなく不可能と考えられている。
それは巫女であるカラウィーン自身も良く知っている筈だ。
しかし、魔術や魔法学精霊学に知識が抜きん出ているフォーリールフナー国では既に『紋』へ等しい魔力を彫り進めるという技があるのではないかという噂があったのだ。
あくまでも、噂である。
噂が流布するだけ彼等の国は知識と魔法力の強い所謂、研究の国・学者の国で有名であった。
「態々刺青を額にこんなに細かく?それを赤ん坊に強いるのですか?」
穏やかな質問がタイミの口から溢れ出る。
カラウィーン姫は疑問に惑いながらなのか視線は出されたティーカップを見つめたままポツリと頷きながら呟く。その響きは惑いが良く現れており震えていた。
「赤ん坊かは兎も角、もしかしたら催眠をかけて紋章を彫ったのではないの?」
姫はあくまでも仮定として言っただけである。
知識と魔法力の強い所謂、研究の国学者の国は、リューラランの自分達が追い付けぬ彼等の知識ではそんな可能性もあるのではないかという、至極尤もといっても良い素朴な疑問。
「…………では貴女が行えばいい」
タイミは低く凍り付いてしまいそうな声を洩らしていた。
本当は怒りのあまり、どうにかなってしまいそうで罵倒さえしたくなった。
けれども一方で、そういった考えを持っている人間が山程いる事も知っていたのだ。
フォーリールフナーは魔力で何でも出来る、と。
そしてまた彼女の疑問やその言葉が、タイミがカラム王子であると納得出来ないからこその言葉である事も分かっていたのだ。
けれど赤ん坊に『紋』を入れるという言葉でタイミは一瞬に逆上してしまいそうになった。
『お前がやれよ、痛くて目が覚めるかも知れないし、そのままかも知れないな。しかし、疑って何の得があるんだ?お前の兄さんの死体が見付かるのが嫌か?それとも結婚したくないっていう駄々っ子か?俺だって別に妹だったとか別にしても、赤ん坊に傷付けるなんて当たり前で拘らない様な女と結婚なんてしたくねぇよ?』
そこまで吐き捨てる様に言ってしまいそうになりながらグッと飲み込む。
「赤子のあの滑らかな肌に針を打つ事を考える人間がいたら、私はその人間性を疑いますね」
それこそタイミは軽蔑の音を隠しもせず伝えた。
タイミの前世は高校生の時分で終わっており、その前々世はカラム王子でこれもまた十八歳という若さだった。
結婚さえした事もなく、赤ん坊にもあまり触れた事もない。だからこそ、それは宝の様に感じた。自分の家族というものを早く持ちたいと思った事さえある。
そんな中では、あまつさえ大人の欲望に子供を使うという考えも嫌だったし、赤ん坊に傷をつけるという考えもタイミには信じられない事でもあった。
だからカラウィーンの言葉に、つい過剰に反応し怒りさえ覚えてしまったのだ。
「赤ん坊かは兎も角とは、赤ん坊を産んだ友人を心配する人間の言葉には聞こえませんね。国の謀で子供に、それも赤ん坊に魔法を使ったとしても刺青を強いるのが当たり前な考えとは……私には理解出来ません。男の私でも、今でさえ黙ってはいられないのに、母親だったら余計でしょうし、それが…普通の母親……女性の反応かと存じますが?」
『違うのでしょうか』という疑問の視線よりも、これ以上下らない事を言ったら軽蔑する気満々の冷たい視線がカラウィーンを突き刺す。
それがまた目から下が柔らかく微笑むものだから普通の者が見れば身震いさえ起こりそうなものだが、姫は不意にパチパチと長く豊かな睫毛を瞬かすと頬が見る間に真っ赤に変わって、こくりと頷いた。
「そうですね、ごめんなさい。……失言でした…」
申し訳無さそうに、恥ずかしそうに俯いた彼女を見てタイミは思わず目を瞬く。
彼女は王室には珍しく、素直な性格らしい。
ふむ、とタイミはまじまじとカラウィーンを見詰めた。
素直な性格は、もしかしたら巫女という立場だからこそ育まれたものかも知れなかったが、タイミには好印象を与えるに十分だった。
そして怒りで一杯だった気持ちが、いつの間にか穏やかな気持ちになっていた事を知る。
「私も言い過ぎました。『赤ん坊かは兎も角』ではなく、『ただの人体へ』という前提でしたら、フォルフナーでも肌に『紋』を刻む事は出来ておりませんよ。出来ていたら、革で出来た防具に『紋』を刻んで真っ先に売って儲かっておりますから」
タイミの言葉は暗に『儲かっていたらこんな政略結婚なぞしない』という事も含んではいたのだが、タイミ自身それを言うのは国への威信や誇りが無い様で口にする事はなかった。
タイミの言葉に姫は気付いたのだろうか、ぱっ、と顔を上げたが、しかしその表情は『そうなの?』といった疑問よりも未だ『申し訳無い』といった表情が見て取れる。
タイミは何処か安堵を覚えながら、一つ頷くと微笑んだ。
「まあ、兄だと言っても今は血は繋がってませんし、年下ですし気にしないで下さい。ただ…………結婚式の前には犯人の特定と共に復讐させて頂きたいだけです」
びくり、と震える彼女に申し訳無いと頭を垂れる。
心から。
結婚よりも復讐が優先と豪語したも同然だった。
そうして、今まで黙って眺めていたリューララン王へ向き直る。
「ではリューララン王。カラウィーン姫をホロ神殿にお連れした後、先程お話した通りに私はカラム王子の……探索に参ります」
タイミは自身の前々世とはいえ、カラム王子の死体や亡骸と言うには、その親の前では忍びなかった。
自分は良い。死んだと納得している。
だが、目の前の彼は父親だった。
タイミ自身、前々世の自分は彼を尊敬し畏怖し、更に敬愛さえしていたと記憶しているし、タイミもまた王である父親からの大きな愛情を受けていた事も記憶しているのだ。
自分がこの国に来なければ、カラム王子はまだ失踪という形で希望さえ持っていた筈である。
だからこそ死体や亡骸と言うには惑い、言葉を濁した。
タイミの内心の惑いを知らぬリューララン王はきっぱりと返事を返す。
「よい、許す」
「それと………」
ちらりと視線をカラウィーンに向ければ王は頷いた。
「結婚式は今日から二十二日後だ。カラウィーンの巫女としての勤めはまだあるからな。城に戻り次第カラウィーンは用意を行うが、それも五日程は必要だろう。カラウィーンは十六日後にこの城に戻ると考えて貴公は二日はあれば十分か、二十日後には必ず帰って来るが良い」
「ありがとうございます陛下」
「では、まずはカラムの身柄を確認してからだ。サエス」
「はっ」
「何人かタイミ王子につけよ。確認次第公文書を預ける」
「では騎士団から副団長ヴァハルは如何でしょう」
「よい、人選はヴァハルに任す」
「畏まりまして」
リューララン王は一つ頷くと改めてタイミをしかと見詰めた。
「では、タイミ王子、これからカラウィーン共々リューラランを宜しく頼みますぞ」
まだまだ逞しく力強いリューララン王の声が、ある意味挑戦的に感じたのは、その視線が余りにも厳しかったからだ。
娘を嫁にやりたくないという親心か、この国をまだまだお前如きに渡すまい、という気持ちからか、カラム王子の死亡を確認する状態に陥った怒りか、もしかしたら他意もあったかも知れないし無かったかも知れない。
それは余りにも途方もない事に思えて推察し難かったが、王の真剣な眼差しにタイミは深く頭を下げた。