↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

お望み通り、貴方の前から消えて差し上げます

作者: 黒色鮎
掲載日:2026/09/08

 

「君がいなければ、僕はもっと自由になれると思うんだ」


 婚約者のレオニードは、そう言った。


 王都でも指折りの名門、アーデル伯爵家。

 その庭園にある白薔薇の東屋で、私は婚約者と向かい合っていた。

 テーブルの上には、冷めた紅茶が二つ。


 そして、彼の隣には妹のマリアベルが座っている。

 私の妹ではない。

 レオニードの妹だ。


「だから、セレネ。僕たちの婚約を解消してほしい」

「……そうですか」


 私は紅茶を一口飲んだ。

 驚くほど味がしなかった。


「それだけですか?」

「え?」

「理由です」


 レオニードは少し困った顔をした。


「君は……僕のことを管理しすぎる」

「管理?」

「朝の予定、社交界で会う相手、領地の収支。僕が何をしているか、いつも確認しているだろう」

「婚約者として当然だと思っていました」

「そういうところだよ」


 彼はため息をついた。


「君は正しい。でも、正しすぎるんだ」


 その隣で、マリアベルが悲しそうに俯く。


「お兄様……」

「マリアベル、もう僕のことで悲しむ必要はないんだよ」


 レオニードは妹を慰めるように言った。


「彼女は僕に何も強制しない。ただ笑ってくれる。僕は、妹のような女性と一緒にいたいんだ」


 なるほど。

 つまり私は、重かったらしい。


 私は三年間、この人の婚約者として彼の家を支えてきた。


 彼が領地経営に興味を持たなかったから、代わりに帳簿を確認した。

 彼が社交界の付き合いを苦手としていたから、必要な夜会を選んだ。

 彼が商会との契約書を読まなかったから、危険な条項を一つずつ説明した。

 彼が「面倒だ」と言った税制改革についても、領民の負担が減るよう何度も計算した。


 全部、婚約者として当然だと思っていた。


 でも。


「正しすぎる、ですか」

「……すまない」


 レオニードが目を逸らす。


 私はしばらく彼を見つめた。

 それから、静かに笑った。


「では、婚約を解消しましょう」

「え?」

「よろしいですよ」

「本当に?」


 マリアベルが驚いたように顔を上げた。


 私は頷いた。


「あなたが自由になりたいのであれば、その自由を邪魔するつもりはありません」


「セレネ……」

「ただし、一つだけお願いがあります」

「何でも言ってくれ」

「今後、私に領地経営の相談をしないでください」


 レオニードの顔が固まった。


「……え?」

「婚約者ではなくなるのですから。当然でしょう?」


 私は立ち上がった。


「それでは、失礼いたします」

「待ってくれ、セレネ」


 背後から声が飛んできた。


「明日の商会との契約については――」


 私は振り返った。


「ご自分で判断なさってください」

「でも、君なら……」

「もう婚約者ではありませんから」


 そう言って、私は東屋を出た。


 その日。

 私は三年間使っていた予定帳を開いた。


 毎朝六時に起床。

 七時、朝食。

 八時、レオニード様への連絡。

 九時、領地会議。

 十一時、商会との打ち合わせ。

 午後は社交。

 夜は翌日の予定確認。


 ページいっぱいに書かれていた彼の予定を、私は一枚ずつ破り捨てた。


 最後に残った一ページ。


 そこには、


『レオニード様の誕生日』


 と書いてあった。

 私はそれも破いた。


 破いて、机の奥にしまい込んだ。

 もう2度とみないように。


 そして新しい手帳を開く。

 最初のページに、一行だけ書いた。


 ――今日から、自分の予定を書く。



 ◇◇◇


 それから三日後。

 レオニードから使者が来た。


「セレネ様。当家よりお呼び立てがあります」

「どなたからですか?」

「レオニード様です」

「お断りします」

「しかし……」

「婚約者ではありませんので」


 使者は困った顔をした。


 私は微笑んだ。


「お伝えください。もう私の予定を勝手に増やさないでください、と」


 その翌日。

 また使者が来た。


「商会との契約について、レオニード様がセレネ様の意見を――」

「お断りします」


 翌日。


「領地の税収について――」

「お断りします」


 その翌日。


「マリアベル様の社交界デビューについて――」

「お断りします」


 一週間。


 二週間。


 一か月。


 私は一度も彼のところへ行かなかった。


 すると、不思議なことが起きた。

 アーデル伯爵家の領地経営が、少しずつ傾き始めたのだ。


 私が婚約者だった頃に整理していた帳簿がなくなり、商会との契約更新が滞った。


 税の計算を間違えた。

 使用人の給金支払いが遅れた。

 そして、例年なら黒字だった領地が赤字になった。


 それでも私は何もしなかった。


 なぜなら。

 もう、私の領地ではないから。


「セレネ」


 ある日の夕方。

 父が私の部屋を訪ねてきた。


「アーデル家から正式な申し入れが来ている」

「何でしょう?」

「レオニード殿との婚約を、もう一度考え直してほしいそうだ」


 私は思わず笑った。


「なぜ?」

「君が戻れば、領地は立て直せるからだろう」

「なるほど」


 父が苦い顔をする。


「断るだろう?」


「もちろんです」


「……わかった」


 父はそれ以上何も言わなかった。

 流石に父もあの婚約破棄には思うところがあったのだろう。 

 少しして、ようやく苦い顔をやめて、少しだけ嬉しそうに笑った。


「お前が自分で決めたのなら、それでいい」


 その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。


 私はずっと、自分で決めているつもりだった。


 けれど本当は違った。


 婚約者だから。

 伯爵令嬢だから。

 将来、彼の妻になるから。


 そういう理由を並べて、自分の時間を誰かに渡していた。


 だから。

 今度こそ自分で決めよう。


 私は王都の地図を広げた。

 向かったのは、王都の南にある小さな町。


 そこには、十年前に閉鎖された旧鉱山がある。


 父が以前言っていた。


「誰も使わない土地だ。危険だから近づくな」


 けれど、私は知っていた。


 その鉱山の地下には、まだ大量の魔石が眠っている。


 私が幼い頃、父の書庫で偶然見つけた古い記録。

 著者も分からないそれに、走り書きで追記されていた内容。

 ずっと気になっていた。


 もしこれが本当なら。

 私は、誰かの婚約者でなくても生きていける。


 いや。

 誰かに必要とされなくても、生きていける。


 私は父に頼み、鉱山の調査許可を取った。


 最初は誰も信じなかった。

 けれど三か月後。


 鉱山の奥から、巨大な魔石脈が見つかった。


 王都中が騒然となった。

 その鉱山の採掘権を巡って、多くの商会が動いた。


 私は父と共に契約をまとめた。


 そして一年後。


 私の名義で設立した商会は、王国内でも有数の規模になっていた。


 そんなある日。

 王城で開かれた夜会。

 久しぶりにレオニードと会った。

 彼は以前より痩せていた。


「セレネ」

「お久しぶりです」

「……君は変わったね」

「そうでしょうか?」

「綺麗になった」


 私は少し笑った。


「ありがとうございます」


 彼は何かを言いかけて、やめた。

 代わりに尋ねた。


「まだ、僕のことを怒っているか?」

「いいえ」

「本当に?」

「はい」


 私は答えた。


「もう、あなたのことを考える時間がありませんから」


 レオニードの顔が曇った。


「……そうか」

「はい」

「セレネ。僕は、あの時間違えた」

「何がでしょう?」

「君を失ってから、初めて分かったんだ」


 彼は拳を握った。


「君が僕の人生にどれだけ必要だったか」


 私は少しだけ考えた。

 そして言った。


「それは、あなたが考えることです」

「……」

「私はもう、考えなくていいのでしょう?」


 レオニードは答えなかった。


 私は一礼して、その場を離れた。


 その夜。

 自室に戻った私は、昔の手帳を、破り捨てたそれらを取り出した。


 1枚1枚確認する。

 そこには、彼の予定ばかりが並んでいる。


『レオニード様、八時に起床』

『レオニード様、十時に商会』

『レオニード様、夜会』


 そして。

 ふと目に止まったとあるページ。


 私はそこに書かれていた言葉を見つけた。


『レオニード様が幸せになりますように』


 私はしばらく、その文字を見つめた。

 いつ書いたものかもわからない。

 その時何を思って書いたのかも分からない。

 それをしばらく眺めていた。


 そして、ペンを取った。


 その下に新しい言葉を書き足す。


『私も、幸せになりますように』


 そのページだけは今の手帳に挟んでおくことにしよう。

 私は他のページを片付けながらそう思ったのだった。




 ◇◇◇


 翌朝。

 王城から一通の書状が届いた。


 レオニードからではない。

 王国魔石商会からだった。


 正式な共同事業の申し込み。


 私は書状を読み終えると、窓を開けた。

 朝の風が部屋へ吹き込んでくる。

 以前なら、この時間には彼の予定を確認していただろう。


 でも今は違う。


 今日は商会との会議。

 午後は鉱山の視察。

 夜は新しい屋敷の設計士と打ち合わせ。


 そして。


 その全部が、私自身の予定だ。


 私は新しい手帳を開く。

 一ページ目から今日まで、ずっと続いている私の予定。

 最後のページを開いて、私は一行を書いた。


 ――私は、もう誰かの人生のために生きない。


 そのとき。

 屋敷の使用人が慌てて部屋へ入ってきた。


「セレネ様! アーデル家から、また使者が……」

「何と言っていました?」

「レオニード様が……」


 使用人が言いにくそうに口を閉じる。


 私は微笑んだ。


「大丈夫。もう何を言われても平気よ」


 それを聞き安心したように使用人がとある事を伝える。

 私は少し考えてから――


「では、こう伝えてください」


 窓の外を見る。

 青い空が広がっていた。


「――お望み通り、私はあなたの人生から消えて差し上げます、と」


 使用人が目を丸くする。


 私は続けた。


「ただし」


 ペンを置く。


「私の人生から、あなたを消すことはしません」

「……?」

「忘れる必要なんてないもの」


 私は笑った。


「あなたに捨てられたことも」

「あなたが私を必要としなくなったことも」

「そのおかげで、私は自分の人生を始められたことも」


 全部、覚えておく。


 だって。


 それも私の人生だから。


 私は手帳を閉じた。

 もう、誰かの予定は書かれていない。


 そこにあるのは。

 私が選んだ明日だけだった。


 ――お望み通り。


 あなたの人生から、私は消える。

 けれど。


 私の人生から、私自身が消えることはない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。