お望み通り、貴方の前から消えて差し上げます
「君がいなければ、僕はもっと自由になれると思うんだ」
婚約者のレオニードは、そう言った。
王都でも指折りの名門、アーデル伯爵家。
その庭園にある白薔薇の東屋で、私は婚約者と向かい合っていた。
テーブルの上には、冷めた紅茶が二つ。
そして、彼の隣には妹のマリアベルが座っている。
私の妹ではない。
レオニードの妹だ。
「だから、セレネ。僕たちの婚約を解消してほしい」
「……そうですか」
私は紅茶を一口飲んだ。
驚くほど味がしなかった。
「それだけですか?」
「え?」
「理由です」
レオニードは少し困った顔をした。
「君は……僕のことを管理しすぎる」
「管理?」
「朝の予定、社交界で会う相手、領地の収支。僕が何をしているか、いつも確認しているだろう」
「婚約者として当然だと思っていました」
「そういうところだよ」
彼はため息をついた。
「君は正しい。でも、正しすぎるんだ」
その隣で、マリアベルが悲しそうに俯く。
「お兄様……」
「マリアベル、もう僕のことで悲しむ必要はないんだよ」
レオニードは妹を慰めるように言った。
「彼女は僕に何も強制しない。ただ笑ってくれる。僕は、妹のような女性と一緒にいたいんだ」
なるほど。
つまり私は、重かったらしい。
私は三年間、この人の婚約者として彼の家を支えてきた。
彼が領地経営に興味を持たなかったから、代わりに帳簿を確認した。
彼が社交界の付き合いを苦手としていたから、必要な夜会を選んだ。
彼が商会との契約書を読まなかったから、危険な条項を一つずつ説明した。
彼が「面倒だ」と言った税制改革についても、領民の負担が減るよう何度も計算した。
全部、婚約者として当然だと思っていた。
でも。
「正しすぎる、ですか」
「……すまない」
レオニードが目を逸らす。
私はしばらく彼を見つめた。
それから、静かに笑った。
「では、婚約を解消しましょう」
「え?」
「よろしいですよ」
「本当に?」
マリアベルが驚いたように顔を上げた。
私は頷いた。
「あなたが自由になりたいのであれば、その自由を邪魔するつもりはありません」
「セレネ……」
「ただし、一つだけお願いがあります」
「何でも言ってくれ」
「今後、私に領地経営の相談をしないでください」
レオニードの顔が固まった。
「……え?」
「婚約者ではなくなるのですから。当然でしょう?」
私は立ち上がった。
「それでは、失礼いたします」
「待ってくれ、セレネ」
背後から声が飛んできた。
「明日の商会との契約については――」
私は振り返った。
「ご自分で判断なさってください」
「でも、君なら……」
「もう婚約者ではありませんから」
そう言って、私は東屋を出た。
その日。
私は三年間使っていた予定帳を開いた。
毎朝六時に起床。
七時、朝食。
八時、レオニード様への連絡。
九時、領地会議。
十一時、商会との打ち合わせ。
午後は社交。
夜は翌日の予定確認。
ページいっぱいに書かれていた彼の予定を、私は一枚ずつ破り捨てた。
最後に残った一ページ。
そこには、
『レオニード様の誕生日』
と書いてあった。
私はそれも破いた。
破いて、机の奥にしまい込んだ。
もう2度とみないように。
そして新しい手帳を開く。
最初のページに、一行だけ書いた。
――今日から、自分の予定を書く。
◇◇◇
それから三日後。
レオニードから使者が来た。
「セレネ様。当家よりお呼び立てがあります」
「どなたからですか?」
「レオニード様です」
「お断りします」
「しかし……」
「婚約者ではありませんので」
使者は困った顔をした。
私は微笑んだ。
「お伝えください。もう私の予定を勝手に増やさないでください、と」
その翌日。
また使者が来た。
「商会との契約について、レオニード様がセレネ様の意見を――」
「お断りします」
翌日。
「領地の税収について――」
「お断りします」
その翌日。
「マリアベル様の社交界デビューについて――」
「お断りします」
一週間。
二週間。
一か月。
私は一度も彼のところへ行かなかった。
すると、不思議なことが起きた。
アーデル伯爵家の領地経営が、少しずつ傾き始めたのだ。
私が婚約者だった頃に整理していた帳簿がなくなり、商会との契約更新が滞った。
税の計算を間違えた。
使用人の給金支払いが遅れた。
そして、例年なら黒字だった領地が赤字になった。
それでも私は何もしなかった。
なぜなら。
もう、私の領地ではないから。
「セレネ」
ある日の夕方。
父が私の部屋を訪ねてきた。
「アーデル家から正式な申し入れが来ている」
「何でしょう?」
「レオニード殿との婚約を、もう一度考え直してほしいそうだ」
私は思わず笑った。
「なぜ?」
「君が戻れば、領地は立て直せるからだろう」
「なるほど」
父が苦い顔をする。
「断るだろう?」
「もちろんです」
「……わかった」
父はそれ以上何も言わなかった。
流石に父もあの婚約破棄には思うところがあったのだろう。
少しして、ようやく苦い顔をやめて、少しだけ嬉しそうに笑った。
「お前が自分で決めたのなら、それでいい」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
私はずっと、自分で決めているつもりだった。
けれど本当は違った。
婚約者だから。
伯爵令嬢だから。
将来、彼の妻になるから。
そういう理由を並べて、自分の時間を誰かに渡していた。
だから。
今度こそ自分で決めよう。
私は王都の地図を広げた。
向かったのは、王都の南にある小さな町。
そこには、十年前に閉鎖された旧鉱山がある。
父が以前言っていた。
「誰も使わない土地だ。危険だから近づくな」
けれど、私は知っていた。
その鉱山の地下には、まだ大量の魔石が眠っている。
私が幼い頃、父の書庫で偶然見つけた古い記録。
著者も分からないそれに、走り書きで追記されていた内容。
ずっと気になっていた。
もしこれが本当なら。
私は、誰かの婚約者でなくても生きていける。
いや。
誰かに必要とされなくても、生きていける。
私は父に頼み、鉱山の調査許可を取った。
最初は誰も信じなかった。
けれど三か月後。
鉱山の奥から、巨大な魔石脈が見つかった。
王都中が騒然となった。
その鉱山の採掘権を巡って、多くの商会が動いた。
私は父と共に契約をまとめた。
そして一年後。
私の名義で設立した商会は、王国内でも有数の規模になっていた。
そんなある日。
王城で開かれた夜会。
久しぶりにレオニードと会った。
彼は以前より痩せていた。
「セレネ」
「お久しぶりです」
「……君は変わったね」
「そうでしょうか?」
「綺麗になった」
私は少し笑った。
「ありがとうございます」
彼は何かを言いかけて、やめた。
代わりに尋ねた。
「まだ、僕のことを怒っているか?」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
私は答えた。
「もう、あなたのことを考える時間がありませんから」
レオニードの顔が曇った。
「……そうか」
「はい」
「セレネ。僕は、あの時間違えた」
「何がでしょう?」
「君を失ってから、初めて分かったんだ」
彼は拳を握った。
「君が僕の人生にどれだけ必要だったか」
私は少しだけ考えた。
そして言った。
「それは、あなたが考えることです」
「……」
「私はもう、考えなくていいのでしょう?」
レオニードは答えなかった。
私は一礼して、その場を離れた。
その夜。
自室に戻った私は、昔の手帳を、破り捨てたそれらを取り出した。
1枚1枚確認する。
そこには、彼の予定ばかりが並んでいる。
『レオニード様、八時に起床』
『レオニード様、十時に商会』
『レオニード様、夜会』
そして。
ふと目に止まったとあるページ。
私はそこに書かれていた言葉を見つけた。
『レオニード様が幸せになりますように』
私はしばらく、その文字を見つめた。
いつ書いたものかもわからない。
その時何を思って書いたのかも分からない。
それをしばらく眺めていた。
そして、ペンを取った。
その下に新しい言葉を書き足す。
『私も、幸せになりますように』
そのページだけは今の手帳に挟んでおくことにしよう。
私は他のページを片付けながらそう思ったのだった。
◇◇◇
翌朝。
王城から一通の書状が届いた。
レオニードからではない。
王国魔石商会からだった。
正式な共同事業の申し込み。
私は書状を読み終えると、窓を開けた。
朝の風が部屋へ吹き込んでくる。
以前なら、この時間には彼の予定を確認していただろう。
でも今は違う。
今日は商会との会議。
午後は鉱山の視察。
夜は新しい屋敷の設計士と打ち合わせ。
そして。
その全部が、私自身の予定だ。
私は新しい手帳を開く。
一ページ目から今日まで、ずっと続いている私の予定。
最後のページを開いて、私は一行を書いた。
――私は、もう誰かの人生のために生きない。
そのとき。
屋敷の使用人が慌てて部屋へ入ってきた。
「セレネ様! アーデル家から、また使者が……」
「何と言っていました?」
「レオニード様が……」
使用人が言いにくそうに口を閉じる。
私は微笑んだ。
「大丈夫。もう何を言われても平気よ」
それを聞き安心したように使用人がとある事を伝える。
私は少し考えてから――
「では、こう伝えてください」
窓の外を見る。
青い空が広がっていた。
「――お望み通り、私はあなたの人生から消えて差し上げます、と」
使用人が目を丸くする。
私は続けた。
「ただし」
ペンを置く。
「私の人生から、あなたを消すことはしません」
「……?」
「忘れる必要なんてないもの」
私は笑った。
「あなたに捨てられたことも」
「あなたが私を必要としなくなったことも」
「そのおかげで、私は自分の人生を始められたことも」
全部、覚えておく。
だって。
それも私の人生だから。
私は手帳を閉じた。
もう、誰かの予定は書かれていない。
そこにあるのは。
私が選んだ明日だけだった。
――お望み通り。
あなたの人生から、私は消える。
けれど。
私の人生から、私自身が消えることはない。




