貴方が運命の相手を見つけるまで、私はお飾りの婚約者です
「……はぁ、はぁっ……」
華やかな音楽と大人たちの談笑が響くガーデンパーティーの喧騒から少し離れた、庭園の生垣の裏側。
そこで、一人の少年が壁に背を預け、苦しそうに肩で息をしていた。
(かわいそうに……あんなに顔色が悪くなるまで、大人たちの相手をさせられていたのね)
生垣の隙間からその様子を見つけてしまった私は、胸がギュッと締め付けられるのを感じた。
私の名前はアニエス。没落しそうな男爵家の娘だ。
つい数日前、私はひどい高熱を出して三日三晩寝込み、その最中に突然「前世の記憶」を思い出した。
私の前世は、日本という国で普通の会社員をしていた。ちょっとお節介焼きで、後輩の仕事をつい手伝いすぎてしまうような、どこにでもいる平凡な大人。連日の残業と無理がたたって過労で倒れてしまい、そのまま短い人生を終えたらしい。
そんな前世の記憶が蘇ってしまった私にとって、無邪気な子供たちの輪に入って遊ぶ気にもなれず、今日は庭園の隅で静かに休んでいたのだ。
このまま見なかったふりをして立ち去るのが、一番賢い選択だろう。
しかし、目の前で息絶え絶えになっている10歳の少年――この夜会を主催する侯爵家の嫡男、ルファス様を、私はどうしても見過ごすことができなかった。
完璧な跡取りとしてのプレッシャーに潰されそうになっている彼の姿が、前世で無理をして倒れた自分と重なってしまい、放っておけなかったのだ。
私は足音を忍ばせて彼に近づき、そっとハンカチを差し出した。
「ルファス様。少し、お加減が悪いのではありませんか?」
「っ……!お前、誰だ。僕に構うな、向こうへ行け!」
突然声をかけられたルファス様は、びくっと肩を揺らし、鋭い視線で私を睨みつけた。十歳の子供とは思えないほど警戒心に満ちた、傷ついた仔犬のような目だった。
「私は男爵家の娘、アニエスと申します。……あちらへ行けと仰いますが、今お一人になれば、すぐに倒れてしまわれますよ」
「僕がどうなろうと勝手だろう!完璧な跡取りでいなければ、僕は両親から……っ!」
強がる言葉とは裏腹に、彼の足元がふらついた。
その時、生垣の向こうから「ルファス様?どこへ行かれた?」という、彼を探す大人たちの足音が近づいてきた。
ルファス様の顔から、さらに血の気が引く。
ここで見つかれば、「パーティーを抜け出してサボっていた」と思われてひどく叱られるのは確実だ。
(ええい、こうなったら……!)
数秒思考を巡らせた私は、彼を庇うためのひとつの作戦に出た。
ルファス様の目の前で、わざと自分の足をもつれさせ、ドンッ!と派手に転んでみせたのだ。
「いっ……たぁっ!」
(うぅ、思っていたより勢いよく転んじゃった……!膝がじんじんする……っ)
「なっ、お前、急に何を……!」
驚くルファス様に、私は口の前に人差し指を立てて見せ、涙目でドレスの裾を少しだけ捲った。膝からは、狙い通り(少し多めに)血が滲んでいる。
「おや、ルファス様、そこにいらっしゃいましたか」
生垣から顔を出した大人たちが、座り込んでいる私と、その傍らに立つルファス様を見つけて目を丸くした。
「これは……どうされたのですか?」
「申し訳ございません……。私が不注意で転んで怪我をしてしまい、見かねたルファス様が、介抱してくださっていたのです」
私が本気で涙目になりながら大人たちを見上げると、彼らは「なるほど」と表情を和らげた。
「おやおや、それはお可哀想に。しかしルファス様、怪我をした淑女を見捨てずに付き添われるとは、侯爵令息として大変ご立派な振る舞いですな」
「……あ、えっと、僕は……」
突然褒められ、嘘をつくのが下手なルファス様が戸惑って言葉に詰まってしまった。私はすかさず、彼を庇うように微笑んで口を開いた。
「私の不注意でお引き止めしてしまい、ごめんなさい。でも、ルファス様がいてくださってとても心強かったです。……あの、大した怪我ではありませんので、ルファス様、もう少しだけここでお側にいていただいてもよろしいですか?」
私が健気にお願いすると、大人たちは感心したように深く頷いた。
「ええ、我々はあちらに戻っておりますので、ルファス様、どうかゆっくり休ませてあげてください」
足音が完全に遠ざかったのを確認し、私は「ふぅ」と安堵の息をついて立ち上がった。
「えへへ、ちょっと派手に転びすぎちゃいました。でも、これでルファス様がここに留まる『立派な理由』ができましたよ。私が足手まといになっているせいで、貴方は仕方なくここにいるんです。だから、今のうちにゆっくり深呼吸して休んでくださいね」
痛む膝をパンパンと払いながら笑いかける私を、ルファス様は呆然と見つめていた。
「お前……僕を庇うために、わざと転んで怪我をしたのか……?」
「この程度の擦り傷、洗えばすぐに治りますから!それよりも、ルファス様が無理して倒れちゃったら……私、すごく悲しいですから」
本心からそう告げると、ルファス様はふいっと顔を逸らし、ぽつりとこぼした。
「……君は、変な奴だな」
「よく言われます!」
「普通、僕に近づく人間は甘い言葉ばかりかけてくるのに。君は、自分の膝を擦りむいてまで僕を庇った」
「その方が、確実にルファス様をお休みさせられますからね」
私がえっへんと胸を張ると、ルファス様は初めて「ふっ」と小さく吹き出した。彼が纏っていた張り詰めた空気が、ふんわりと緩んだのがわかった。
「……僕は、この家が息苦しいんだ」
ぽつりぽつりと、彼が話し始めた。
完璧を求める両親。家の利益のためだけに心にもない相手と結婚させられ、一生を終えるのだという絶望。
「僕は将来、誰とも結婚なんてしたくない。愛情なんて信じられないし、家族を持つのが怖いんだ」
そんな悲しいことを言う彼は、前世で大人だった私からすれば、ただ抱きしめて守ってあげたくなるような、不器用で孤独な男の子だった。
私は彼の言葉を静かに聞きながら、なんとか彼が安心して息を吸える方法はないかと一生懸命に考えた。
そこで、ひとつの「名案」を思いついた。
「それなら、私がルファス様の『お飾りの婚約者』になりましょうか?」
「……は?」
「私は没落気味の男爵家の娘です。侯爵家との身分差がありすぎるため、ルファス様が私を婚約者に選べば、ご両親は間違いなく猛反対するでしょう?そうすれば、ご両親を説得するという名目で、結婚の話題をずっと先延ばしにできます!」
私は、彼が少しでも長く休めるようにと考えた提案を、目を輝かせて口にした。
「もし万が一、婚約が成立したとしても、私は貴方に愛情を押し付けたりしません。社交の場でのエスコートなど、婚約者としての役割はきっちりこなしますが、それ以上のことは求めないとお約束します。……そして」
私は、驚いたように瞬きをする彼の緑色の瞳をまっすぐに見つめて、優しく微笑んだ。
「大人になって、ルファス様が『本当に心から安心できる、大好きな人』を見つけたら、私は綺麗に身を引きます。それまで、私が貴方の盾になりますよ!」
私が得意げに提案すると、ルファス様は目を見開いたまま、ピタリと固まってしまった。
やがて彼は、何かを耐えるようにギュッと拳を握りしめ、耳まで真っ赤にして俯いた。
「……君は、馬鹿なのか」
「えっ、名案だと思ったんですけど……」
「自分の利益が何もないじゃないか!僕の盾になるなんて……そんなこと、普通は言わない……っ」
「利益ならありますよ。私、ルファス様には笑っていてほしいんです。それに……困っている男の子を助けるのは、年上の特権ですから!」
(中身の話だけどね)と心の中で付け加えながら私がきっぱりと断言すると、ルファス様はきょとんとした顔をした。
「……年上?何を言ってるんだ、君は僕と同い年の十歳だろう?」
「えっ!?あ、ええと……ほら、私の方が少しだけ生まれ月が早いかもしれませんし!なにより精神年齢の問題です!」
「……なんだそれ」
私がしどろもどろになって誤魔化すと、ルファス様は呆れたように深くため息をついた。
そして、どこか熱を帯びた、吸い込まれそうな眼差しで私を真っ直ぐに見つめ返してきた。
「……わかった。その契約、乗る。よろしく頼むアニエス」
「はい!パートナーとして、精一杯サポートさせていただきますね!」
こうして、私たちが十歳のころ、私とルファス様の「偽装婚約」は成立した。
彼が心から安心できる『運命の相手』を見つけるまでの、仮初めの関係。
私は前世で培った事務処理能力と少しのお節介をフル活用して、彼を守り抜こうと心に固く誓ったのだった。
―・―・―
あれから三年。十三歳になった私とルファス様は、貴族の子弟が通う王立学園に入学していた。
この三年間で、ルファス様は誰もが振り返るような見目麗しい少年に成長した。
と同時に、彼は社交界や学園で密かに「氷の貴公子」と囁かれるようになっていた。
その理由は明白だ。彼は私以外の人間に対して、徹底的に冷たく、そして厳しい態度を崩さないからである。
侯爵家の完璧な跡取りである彼には、地位や権力、あるいは美しい容姿を目当てにすり寄ってくる貴族が後を絶たない。十歳の時のあのお茶会で限界を迎えていた彼は、自分自身と、そして「仮の婚約者」とはいえ、側にいる私を守るために他者を安易に寄せ付けない壁を築き上げたのだ。私が盾になると言ったのに婚約のこと以外は守ってもらっているのは、申し訳ないと思う。
ただ、そんな彼も私の前でだけは、年相応の穏やかな顔を見せてくれる。
「ルファス様、休憩の時間ですよ。根詰めて勉強しすぎると、またお身体に障りますからね」
学園の図書室。私が温かい紅茶と少しの焼き菓子をテーブルに置くと、難しい顔で分厚い専門書を読んでいたルファス様が、ふわりと目元を和らげた。
「ありがとう、アニエス。君が淹れてくれる紅茶が一番落ち着くんだ」
「ふふ、侯爵家の素晴らしい茶葉のおかげですよ」
私はあくまで「お飾りの婚約者」だ。前世の経験を活かして侯爵家の領地経営や複雑な実務に口を出すような出過ぎた真似はしない。
ただ、彼のスケジュールをそっと把握し、「今は無理をしているな」と思ったらこうして休ませたり、彼が探している資料を先回りして用意したりと、彼が少しでも快適に過ごせるよう細やかなサポートに徹していた。
「……アニエスは、本当に僕のことばかり見ているな」
「はい!ルファス様が安心できる環境を整えるのが、私の大切なお仕事ですから」
「……仕事、か」
私が胸を張って答えると、ルファス様はなぜか少しだけつまらなそうに目を伏せ、紅茶のカップに口をつけた。
そんな穏やかな放課後が過ぎた、ある日のこと。
ルファス様が教師に呼ばれて席を外している間、学園の中庭で一人本を読んでいた私の前に、数人の令嬢が立ち塞がった。
「ごきげんよう、アニエス男爵令嬢。侯爵家のご嫡男であるルファス様の隣に並ぶには、随分と地味でいらっしゃいますわね」
扇で口元を隠しながら、ツンと澄ました顔で私を見下ろしてきたのは、伯爵令嬢のベアトリス様だった。
華やかな縦ロールの金髪に、気の強そうなつり目。彼女は入学当初から、身分の低い私がルファス様の婚約者であることを快く思っておらず、度々こうして嫌味を言いに来ていた。
「あの完璧なルファス様が、貴女のような方をいつまでも側に置くなんて、未だに信じられませんわ。きっとお情けで婚約者にしていただいたに違いありませんわ。身の丈に合わないお立場にいつまでもすがりつくなんて、みっともないと思われませんこと?」
周りの取り巻きの令嬢たちも「そうですわ!」と同調する。
しかし、私は彼女たちの刺々しい言葉を受けても、怒りや悲しみを感じることはなかった。
なぜなら、前世の記憶を持つ私には、ベアトリス様の態度に隠された「焦り」が手にとるようにわかったからだ。
彼女はいつも完璧に身なりを整えているが、よく見れば目の下にはうっすらとクマがあり、扇を握る指先は緊張で白くなっている。
(きっと彼女も、ご家族から「なんとしても侯爵家と繋がりを持て」と、強いプレッシャーをかけられているのね……)
十歳の頃のルファス様と同じだ。彼女もまた、家という重圧に苦しむ、まだ十三歳の不器用な女の子なのだ。
そう思うと、なんだか無性に放っておけなくなってしまった。
「ベアトリス様。ルファス様を高く評価してくださって、ありがとうございます」
「は……?なにを……」
「でも、少しお疲れではありませんか?最近、夜遅くまでお勉強を頑張っていらっしゃるのでしょう?」
私がそっと尋ねると、ベアトリス様はビクッと肩を震わせた。
「な、なぜそれを……っ」
「指先にペンダコができていらっしゃいますし、お顔の色も少し優れません。……よろしければ、これ、おひとついかがですか?」
私はポケットから、可愛らしい小袋に包まれたレモンキャンディーを取り出し、彼女に差し出した。
「甘くて少し酸っぱいので、頭がすっきりしますよ。ご家族の期待に応えようと頑張るのは素晴らしいことですが、どうかご無理だけはなさらないでくださいね」
私が優しく微笑むと、ベアトリス様はキャンディーと私の顔を交互に見比べ、顔を真っ赤にして扇を震わせた。
「だ、誰が貴女の施しなんて……っ!べ、別に私は、頑張ってなんていませんわ!」
彼女はキャンディーを受け取らず、しかし先程までの威勢はすっかり消え失せ、逃げるようにその場を去っていった。
取り巻きの令嬢たちも慌てて彼女の後を追っていく。
(ふふっ。素直じゃないところも、年頃の女の子らしくて可愛いわね)
私がその後ろ姿を微笑ましく見送っていると、背後から氷点下のような冷たい声が響いた。
「アニエス。あいつら、また君に何か言っていたのか?」
振り返ると、教師との話を終えたルファス様が、ベアトリス様たちが去っていった方向を、今にも凍りつかせそうな鋭い目で睨みつけていた。
私は慌てて彼の前に立ち、その視線を遮った。
「違いますよ、ルファス様!ベアトリス様は、少しお疲れのようだったので、私がお菓子をお勧めしていただけです」
「……嘘だ。あいつは入学式の日から、君のことを見下していた。僕の婚約者に危害を加えるなら、たとえ伯爵家だろうと容赦は……」
「ルファス様!」
私は少しだけ背伸びをして、彼の両頬を両手でむにっと挟んだ。
「んむっ!?」
「そんな怖い顔をしないでください。私はちっとも傷ついていませんし、ベアトリス様はただ、ご家族の期待を背負って一生懸命なだけです。誰も悪くありませんよ」
私がなだめるように言うと、ルファス様は目を丸くした後、毒気を抜かれたように小さく息を吐いた。そして、私の手をそっと自分の手で包み込み、頬から離させた。
「……君は、本当に人が良すぎる。他人の事情まで汲み取って、自分への悪意すら許してしまうなんて」
「それに、あの方たちの言葉なんて気になりません。私にとって一番大事なのは、ルファス様が安心して学園生活を送れるようにすることですから」
「そういう意味じゃ……」
ルファス様は何か言いかけたが、やがて諦めたように「ははっ」と力なく笑った。
「君には敵わないな。でも、アニエス。君がいくら平気だと言っても、僕は君が傷つくのを見過ごせない。だから、君に悪意を向ける者がいるなら、僕は誰からどう思われようと、決して容赦するつもりはないからな」
そう言って私を見る彼の緑色の瞳は、ひどく熱く、甘い色をしていた。
私はその真っ直ぐな瞳を見て、深く納得した。
(ルファス様は本当に責任感が強くて、誠実な方ね。私のような仮の婚約者にも、こんなに一生懸命に守ろうとしてくださるなんて……!)
ルファス様が運命の人に出会うその日まで、私も完璧に彼をサポートしなくちゃ。
繋がれた手の温もりを感じながら、私は改めて心に誓ったのだった。
―・―・―
あれからさらに五年。十八歳になった私とルファス様は、王立学園を卒業し、社交界でも一目置かれる存在となっていた。
ルファス様は、侯爵家の立派な跡取りとして誰の目にも完璧な青年へと成長した。相変わらず私以外の女性には冷ややかな態度を崩さないが、その誠実な仕事ぶりは多くの貴族から信頼を集めている。
私の方はというと、彼が書斎で夜遅くまで仕事をする時には、決まってこの温度のハーブティーを淹れる、という習慣がすっかり身についていた。
カップを置くタイミングや、彼が心地よく感じる室温の調整。言葉を交わさずとも、彼が何を求めているか手に取るようにわかる。それくらい、私達は仮の婚約者として、長い時間を共に穏やかに過ごしてきたのだ。
けれど、そんな日々にも、ついに終わりの時が近づいていた。
最近、社交界である噂が囁かれるようになったのだ。
『あの氷の貴公子であるルファス様が、王家にも連なる由緒正しい公爵令嬢セシリア様と、夜会で親しげに話していた』という噂である。
実際、私も遠くからその光景を見たことがある。
普段は女性から話しかけられても無表情であしらうルファス様が、公爵令嬢であるセシリア様を前にして、少し頬を赤らめながら真剣な表情でコソコソと何かを相談していたのだ。
(ついに……!ルファス様に、本当に心から愛せる運命の人ができたのね!)
その光景を見た瞬間、私の胸の奥がチクリと痛んだ気がしたが、それ以上に「彼がようやく心休まる相手を見つけた」という安堵と達成感で胸がいっぱいになった。
彼の隣で過ごしてきた八年間。私の最後の、そして最大の役目は、「愛し合う二人の邪魔にならないよう、綺麗に身を引くこと」だ。
私はさっそく、密かに書き溜めていた『ルファス様に関する覚書』の最終調整に入った。彼の好みの紅茶の温度、疲れた時に無意識に出る眉間のシワのほぐし方、彼が本当に心を許した時にだけ見せる小さな癖……。次の婚約者となるセシリア様が少しでも早く彼を理解できるよう、事細かに書き記していく。
そして迎えた、王宮での夜会の日。
ルファス様は「少し他の貴族へ挨拶に行ってくる。すぐに戻るから、ここで待っていてくれ」と言い残し、私の側を離れた。
壁際で一人、美味しい果実水を飲んで休憩していた私の元に、扇で口元を隠した令嬢たちが数人、ヒソヒソと嫌な笑みを浮かべて近づいてきた。
先頭に立つのは、学園時代から私を目の敵にしていた伯爵令嬢、ベアトリス様だ。
「ごきげんよう、アニエス男爵令嬢。今日もルファス様はお忙しそうですわね。……あちらで、セシリア様とお話しされているのかしら?」
「ええ、本当に。ルファス様にはセシリア様のような、お家柄も申し分ない美しい方こそがお似合いなのに、愛されてもいない貴女がいつまでも婚約者の座に居座るなんて、みっともないと思われませんこと?」
彼女たちは、私が泣き出すか、怒って言い返してくるのを期待しているようだった。
ルファス様の隣から離れる未来を想像して、ふいに押し寄せてきた得体の知れない寂しさをぐっと飲み込む。
ここで見苦しい姿を見せるわけにはいかない。私は果実水のグラスをそっとテーブルに置き、彼女たちに向かって、気丈に今日一番の満面の笑みを作ってみせた。
「ええ! 本当に、皆様の仰る通りですわ!」
「……は?」
予想外の肯定に、令嬢たちがポカンと口を開ける。
少しだけ震えそうになる声をなんとか抑え込み、私は一切の嫌味を含まず、心からの同意を込めて言葉を紡いだ。
「私も、ルファス様にはセシリア様のような素敵な方こそがお似合いだと思っておりましたの。ですので、お二人がスムーズに結ばれるよう、すでに準備は完了しておりますわ」
「じゅ、準備……?」
「はい。まずはルファス様との婚約を白紙に戻すための書類の手配。それから、彼のお茶の好みや体調管理に関する覚書もまとめてあります。来週ルファス様と行く予定だった観劇の席はキャンセルし、代わりに彼のお気に入りである夜景の綺麗なレストランを『お二人様』で予約し直しておきました。セシリア様をエスコートしていただくのにぴったりでしょう?」
すらすらと手配した事実を述べていくうち、自分が本当に彼の隣からいなくなるのだという実感が湧き、泣きたくなるような感情が込み上げてきた。
それでも、私はその気持ちに蓋をして、悲しみを悟られないよう、なおもにっこりと微笑みながら続けた。だってこれは仮の婚約なのだから。
「これで、私がいついなくなっても、彼のご負担になることは一切ありませんわ。皆様、ルファス様とセシリア様の幸せな未来をご心配いただき、本当にありがとうございます!」
「なっ……あ、えっと……」
私が気丈な笑顔で事実だけを並べたことで、嫌味を言う隙を完全に失った取り巻きの令嬢たちは、顔を真っ赤にして狼狽えた。
「こ、婚約者が他の女性に目を向けているというのに、平然としているなんて絶対におかしいですわ!気味が悪い……。さ、ベアトリス様、私たちもあちらへ行きましょう!」
そう捨て台詞を吐いて、取り巻きの令嬢たちは逃げるように去っていった。
しかし、ベアトリス様だけは、その呼びかけに応じず、その場に呆然と立ち尽くしていた。
彼女の少し震える手元を見て、私はこっそりと懐から「レモンキャンディー」を取り出し、彼女に差し出した。五年前の学園の中庭と同じように。
「ベアトリス様。……もう、無理をして悪役を演じなくても大丈夫ですよ」
「え……」
「貴女がわざわざ私にきつく当たっていたのは、ご家族から『相手はただの男爵令嬢なのだから、お前が婚約者の座を奪え』とプレッシャーをかけられていたからでしょう?」
図星を突かれ、ベアトリス様が小さく息を呑む。私は彼女の手を優しく取って、キャンディーを握らせた。
「でも、ルファス様の新たな婚約者候補が、王家に連なる公爵家のセシリア様となれば、ご家族も勝ち目がないと完全に引き下がるしかありません。これでやっと、貴女も無理をしてまで彼に取り入ろうとしなくて済みますね。重い期待を背負って、ずっと一人で苦しかったでしょう?」
私が優しく語りかけると、ベアトリス様はハッとして私の顔を見た。その目からは、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「貴女って人は……昔から、本当に腹が立つくらいお人好しですわね……っ」
彼女は震える手でキャンディーをギュッと握りしめ、深く頭を下げた。
「……今まで、貴女にひどいことばかり言って、本当にごめんなさい。私の実家、最近少し持ち直して、身の丈に合った良い縁談が来ているんです。だから、もうあんな焦った真似、しなくていいのに……私、意地になって……っ」
「まあ、それは素晴らしいですわ!ご婚約の暁には、ぜひお祝いさせてくださいね」
私が心から喜ぶと、ベアトリス様は涙を拭いながら、「……ありがとう」と消え入るような声で呟き、今度は憑き物が落ちたような、本来の美しい淑女らしい足取りで静かに去っていった。
(ふふっ、良かった。これで私の周りの気がかりも、すっかり片付いたわね)
私はルファス様が戻ってくる前に、侍女に「体調が優れないため、先に馬車で帰りますとルファス様にお伝えして」と言伝を頼み、夜会の会場を後にした。
侯爵邸に戻った私は、あらかじめまとめておいた小さなトランクを持ち、ルファス様の執務机の上に、綺麗に製本した『ルファス様に関する覚書』と、サイン済みの『婚約解消の同意書』をそっと置いた。
「今まで、本当にありがとうございました。ルファス様が心から笑って過ごせる日が来て、本当に良かったです……」
誰もいない部屋に向かって深く一礼し、私は少しだけ泣きそうになるのを堪えて、静かに侯爵邸を去ろうとした。
―・―・―
「――アニエスッ!!」
屋敷の玄関を出て、迎えの馬車に乗り込もうとしたその時。
背後から、ひどく焦ったような、切羽詰まった声が響いた。
振り返ると、そこには息を切らし、髪を振り乱したルファス様が立っていた。
いつも隙なく整えられている「氷の貴公子」の面影はどこにもない。その手には、私が先ほど執務机の上に置いたはずの『覚書』と書類が、くしゃりと握りしめられていた。
「ルファス様!?どうしてここに……夜会は?」
「馬鹿っ……!君が体調不良で帰ったと聞いて、飛んで帰ってきたに決まっているだろう!なんだこれは、婚約解消の同意書!?覚書!?」
彼は書類を掲げながら、今にも泣きそうな、ひどく傷ついた顔で私に詰め寄った。
「あの、落ち着いてください。セシリア様という素晴らしい運命の方が見つかったのですから、私はお約束通り、綺麗に身を引こうと……」
「セシリア嬢は、近々他国へ嫁ぐことが決まっている公爵令嬢だぞ!私はただ、彼女に『君に贈るプロポーズの指輪は、どんなデザインが一番喜ばれるか』を相談していただけだ!」
「……えっ?」
「宝石に詳しい彼女に、君の瞳の色に一番似合う石を見立ててもらっていたんだ!なのに、なんだこのレストランの予約は!どうして私が、愛する君以外の女性と食事に行かなければならないんだ!」
ルファス様の言葉に、私は雷に打たれたように固まった。
セシリア様は、新たな婚約者候補ではなかった……?あの親しげなやり取りは、私へのプロポーズの相談だったというの?それに愛する君って…?
頭が真っ白になる私を前に、ルファス様は握りしめていた『覚書』を胸に当て、熱を帯びた緑色の瞳で私を真っ直ぐに射抜いた。
「大体なんだこの覚書は!『この種類のハーブティーが一番落ち着く』だの、『無理をして眉間にシワが寄った時は、こめかみを優しく揉むと和らぐ』だの……これを、他の人間に引き継げるわけがないだろう!」
「あ……」
「君が淹れてくれるから美味しいんだ。君の手だから安心するんだ。……八年前、『本当に心から安心できる大好きな人を見つけて』と言ってくれたね。君があの日、私を苦しみから救ってくれた時から、私はあの日からずっと、君のことしか愛していない」
切実で、ひどく甘い声だった。
普段の冷涼な彼からは想像もつかないほど、熱く情熱的な響きに、私の心臓がドクンと大きく跳ねる。
「え……あ、ルファス様、でも私……ただの利害が一致しただけの、仮の婚約者として貴方をサポートしてきただけで……」
「仮初めの関係の人間が、こんなに私のことばかり見て、一冊のノートが埋まるほど私のことを理解してくれるものか。……アニエス、君は、誰よりも私を愛してくれているじゃないか」
その言葉に、私はハッとした。
(彼が心地よく過ごせるように。彼が心から笑ってくれるように)
そう願って、無我夢中で書き連ねたこの覚書の束。彼の些細な癖も、瞳の瞬き一つも、すべてを愛おしいと思わなければ、こんなにも細やかに観察し、理解することなどできるはずがなかった。
「……あ」
私は、自分がただの「お節介な盾役」などではなく、ずっと前からルファス様という一人の男性を深く、取り返しのつかないほど愛していたのだと、ようやく気がついた。
顔がカッと熱くなり、目から涙が溢れそうになる。
私が言葉を失って立ち尽くしていると、ルファス様は書類と覚書をその場に放り出し、私を強く、けれどひどく大切に腕の中に抱き寄せた。
「観劇はキャンセルして、レストランを予約してくれたんだったな。……ありがとう、ちょうど君に指輪を渡す場所を探していたんだ。私の未来のスケジュールは、君がいないとすべて白紙になってしまう」
耳元で囁かれる低く甘い声に、膝から崩れ落ちそうになる。
彼はそっと私の頬を包み込み、涙で潤んだ私の目を、ひどく愛おしそうに見つめた。
「私には、君という……生涯を共にする、たった一人の伴侶が必要だ。両親にはずっと前から許しをもらっている。だからアニエス、どうかこれからも、ずっと私の隣で私を支えてくれないか?」
私を甘く縛り付けるような、真っ直ぐで不器用な愛の言葉。
もう、盾だの仮の婚約だのと誤魔化す必要はどこにもなかった。
「……はい。私でよろしければ、これからの予定も、ずっと一緒に組ませてください」
「ああ……愛しているよ、アニエス。十歳のあの日から、ずっと」
「……私も。私も、ルファス様を愛しています」
素直な気持ちを口にすると、ルファス様は安堵と喜びに満ちた表情で深く息を吐いた。
そして、宝物に触れるような優しい手つきで私の髪を撫で、そっと誓いの口づけを落とした。
私に触れる彼の体温も、吐息も、すべてが蕩けるほどに熱く、甘かった。
十歳のあの日からすれ違い続けた二人の想いは、今ここでようやく、優しく溶け合ったのだ。
―・―・―
腕の中で耳まで真っ赤にしているアニエスを抱きしめながら、私は愛おしさに胸を締め付けられていた。
執務机に置かれた『婚約解消の同意書』を見た時は、本当に血の気が引いたし、心臓が止まるかと思った。
だが、その隣にあった分厚い『覚書』をめくった瞬間、絶望は呆れと、それを遥かに上回る深い安堵に変わったのだ。
『ルファス様は、この種類のハーブティーが一番落ち着く』
『無理をして眉間にシワが寄った時は、こめかみを優しく揉む』
こんなにも私を観察し、理解し、愛情を注いでいる証拠を残していくなんて。
これまで私がどれだけ特別な贈り物をしても、どれほど熱を込めた視線を向けても、彼女はいつも「仮の婚約者にもこんなに優しい心遣いありがとうございます。」と斜め上の解釈をして躱してきた。
挙句の果てには、私がいそいそと彼女のための婚約指輪を選んでいるのを、別の女性へのプロポーズだと勘違いして、自らレストランの再手配までする始末だ。
私の婚約者は、とびきり有能で優しいけれど、自分のことになると致命的に鈍感らしい。
「……まったく、君には敵わないな」
「え?」
「なんでもない。ただ、君が愛おしすぎて困っているだけだ」
腕の中で不思議そうに首を傾げる彼女の頬に、もう一度軽く口づけを落としてから、私は密かに決意する。
これまでは「仮の婚約者」という名目に逃げられていたが、今日からはもう、一歩も逃がすつもりはない。
遠回しな好意で伝わらないなら、これからは朝目が覚めた時から夜眠るまで、何度でも直接言葉にして伝えよう。
呆れるほど愛を囁いて、とびきり甘やかして……私がどれほど君に夢中か、これからの長い生涯をかけて、たっぷりと教えてやろう。
この愛らしくて鈍感な私の伴侶が、二度と勘違いなんてできないくらいに。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
最近、普通の恋愛系のお話を書いていなかったので昔作っていた案をベースに書いてみました!
よろしければ評価してくださると励みになります。
よろしくお願いいたします。




