#010 『春を呼ぶ石』
『春を呼ぶ石』
三月半ばの北海道遠軽町は、まだ冬の背骨が完全に折れてはいない。
見上げる空は、表面を細かい紙やすりで削ったような、薄く濁った灰色のすりガラスだった。太陽はそこにあるはずなのに、輪郭を持たない白くぼんやりとした光の染みとして、ただ冷たく地上を見下ろしているだけだ。
屋根の庇からは、日中のわずかな温度上昇に耐えきれなくなった雪が重たい水滴となり、ポタ、ポタと単調で神経質なリズムを刻んでアスファルトを叩いている。その音は、いつ終わるとも知れない冬の命数が、少しずつ削り取られていくカウントダウンのようにも聞こえた。
私が店番をしている駅前の小さな古書店には、澱のように沈殿しているものがある。祖父の代から染み付いた石油ストーブの灯油の匂い。そして日焼けした古い紙が発する独特の埃っぽい匂いだ
ストーブの天板に乗せられたアルマイトの薬缶が、シューシューと細い湯気を上げている。
私はカウンターの奥で、カミュの『異邦人』の黄ばんだページを無意味にめくっては戻すという行為を、ここ数時間繰り返していた。活字は網膜を滑るだけで、脳には一文字も届かない。五年前に時間が止まってから、私の毎日はずっとこの薄暗い水槽の底のような場所で、息を潜めるように過ぎていった。
入り口のドアに取り付けられたカウベルが、カランと無防備で乾いた音を立てた。
午後三時を少し回った頃だった。普段なら、近所の常連の老人が時代小説を探しに来るか、学校帰りの高校生が雨宿りに入ってくるくらいの時間帯だ。
「……紬?」
薬缶の鳴る音に混じって落ちたその声は、私の心臓を不自然なリズムで跳ねさせた。いや、跳ねたというより、一瞬だけ完全に止まったのだと思う。
文庫本のページから顔を上げた私の視界に飛び込んできたのは、五年という歳月をかけて、完璧に「他所の街の人間」へと仕立て上げられた湊の姿だった。
「湊……? どうして」
声が掠れた。五年ぶりの再会だというのに、歓喜や驚きよりも先に私の意識を占めたのは、彼が羽織っている上質なカシミヤのコートだった。その滑らかで品の良い漆黒の質感が、この埃っぽく薄暗い古書店の空気からひどく浮き上がり、暴力的なまでの違和感を放っていたからだ。
彼が動くたびに、微かに漂う洗練された香水の匂い。乾いた木材と、かすかなスパイスを混ぜたような、冷たくて都会的な香り。私の記憶の中の彼は、いつも少しだけ柔軟剤の匂いがする、毛玉のついたネイビーのフリースを着て、前髪を無造作に伸ばしていたはずなのに。
今の彼は、私の知らない輪郭を持った、美しい「大人」だった。
「出張で北見に行ってね。帰りの特急に乗る前に、少しだけ時間ができたから。……もしかしたら、まだここにいるかなって」
湊は少しだけ困ったように、けれど昔と同じように右の眉を少し下げて笑った。その表情の作り方だけが、唯一私の知っている「湊」の残骸だった。
五年ぶりの再会は、ドラマチックな涙も、抱擁も、劇的な言葉も伴わなかった。
ただ静かに、雪解け水がコンクリートのひび割れに染み込むように、ひどく唐突に、そしてひっそりと始まった。
「ここで立ち話もなんだし、少し歩こうか」
彼のその提案に、私は無言で頷いた。狭い店内で、カウンター越しに向かい合うには、五年の空白はあまりにも重く、そして脆すぎたのだ。ストーブの火を弱め、店のドアに「しばらく留守にします」という手書きの札を下げて鍵をかけた。
私たちは、ざらめ状になった雪が残る歩道を、湧別川の河川敷に向かって並んで歩き始めた。
一歩踏み出すごとに、ブーツの下で水分をたっぷりと含んだ雪がぐしゃ、ぐしゃと不満げな音を立てて潰れる。深く息を吸い込むと、肺の奥を刺すようなツンとした冷気の中に、アスファルトの濡れた匂いと、雪の下で目を覚まし始めた湿った土の匂いが微かに混じっているのがわかった。
「この町は、全然変わらないね」
湊が、白い息を長く吐き出しながら言った。
「そうね。信号機の数も、駅前の廃れた感じも、五年前と一緒」
「紬も、変わらない」
私はコートのポケットの中で、冷え切った指先をギュッと握り込んだ。
変わらないのではない。変われなかったのだ。
彼が東京という巨大な遠心力の中で、新しい服を着て、新しい言葉を覚え、新しい誰かと生きていく間、私はずっとこの町で、古本のページについた染みのように停滞していた。彼が部屋に置いていった、半分読みかけの文庫本と、マグカップを捨てられず、彼岸と此岸の境目のようなこの町で、ただ季節が通り過ぎるのを眺めているだけだった。
「湊は、ずいぶん立派なコートを着るようになったのね」
皮肉を言うつもりはなかった。しかし、口をついて出た言葉は、冷たい三月の風に吹かれて少しだけ棘を持っていた。
湊は歩みを止めず、ただ前方を見つめたまま答えた。
「……向こうでは、こういうのを着てないと舐められるからね。鎧みたいなもんだよ」
その声は、ひどく疲労していた。鎧、という言葉の響きが、彼の今の生活のすり減るような手触りを生々しく伝えてきた。
私たちは、湧別川の土手にたどり着いた。
春の雪解け水を大量に飲み込み始めた川は、黒々とうねりながら、暴力的なまでの水量を下流のオホーツク海へと押し流している。川幅いっぱいに広がる「ゴオオォォ」という圧倒的な重低音が、私たちの間に落ちそうになる気まずい沈黙を、乱暴に、しかし優しく埋めてくれた。
「ずっと、謝らなきゃって思ってた」
不意に、湊が川面を見つめたまま口を開いた。
冷たい風が彼の整えられた前髪を揺らす。私は何も言わず、ただ自分のブーツのつま先にこびりついた泥の跳ね返りを見つめていた。
「あの時、何も言わずに勝手に出て行って、ごめん。紬を置いていくのが……いや、違うな。自分の弱さを見透かされるのが、怖かったんだと思う」
五年前の二月の終わりの夜。
私が彼の古アパートを訪ねた時、部屋はすでにもぬけの殻だった。こたつ布団は畳まれ、本棚は空になり、ただちゃぶ台の上に一枚の便箋だけが残されていた。
『東京で勝負したい。ごめん』
たった一行の暴力的な宣告。私はその紙切れを握りしめ、氷点下十五度の夜道を、手袋もせずに泣きながら走った。冷たさを通り越して、指先から血の気が引く痛みが全身を駆け巡った。見送ることすら許されなかった私は、遠くで鳴る特急列車の汽笛を、ただ立ち尽くして聞くことしかできなかった。あの日、彼が持ち去ったのは自分の荷物だけではない。私の未来を信じる力そのものを、彼は根こそぎ奪っていったのだ。
「もういいよ」
私は五年分の痛みを飲み込み、ひどく静かな声で言った。
「そんな昔のこと。それに、あなたは勝負に勝ったじゃない。そのカシミヤのコートと香水が、ちゃんと証明してる」
「勝ってなんかないよ」
湊の横顔は、見上げる灰色の空よりも沈んで見えた。
「毎日、すり減ってるだけだ。周りに合わせて、自分を騙して、気がついたら自分が何のために息をしてるのか、わからなくなる時がある。誰も俺の本当の姿なんて見てない。そんな時、思い出すのはいつも……この町の、凍るような冷たい空気と、紬のことばかりだった」
言えなかった言葉。すれ違ってしまった感情。
それらが、五年という時間を経て、冷たい川風の中でボロボロとこぼれ落ちていく。
しかし、どれほど美しい後悔を並べても、私と彼の間に横たわる絶対的な距離は、もう二度と縮まることはないのだと、私は直感していた。
彼が懐かしんでいるのは、現在の「私」ではない。
彼自身がまだ何者でもなく、ただ純粋に自分の可能性を信じることができた「あの頃の安全だった自分」を、私という変わらない鏡を通して見つめようとしているだけなのだ。私は、彼にとっての都合の良い「聖域」に過ぎない。その残酷な真実が、凍りついていた私の脳の奥で、カチッと音を立ててパズルのように組み上がった。
「寒いね」
私が小さく身震いすると、湊は黙って土手の上の自動販売機へ向かい、二つの赤い缶コーヒーを買ってきた。
「ほら」
差し出されたスチール缶を受け取ると、それは手袋越しでも火傷しそうなほど暴力的な熱を持っていた。
プルトップを開ける。カシュッという小気味良い音と共に、酸化したような安いコーヒーの香りが鼻腔を突いた。一口飲むと、舌の付け根が痺れるような強烈な苦味と、べったりとした人工的な甘さが喉の奥を焼いていく。決して美味しくはなかったが、凍えきった内臓を芯から温め、曖昧になった現実感を取り戻すには、これくらい乱暴でチープな味が必要だった。
川岸の浅瀬には、まだ冬の残骸である薄い氷が岸辺の石にしがみつくように張っていた。 ふと、湊が足元の河原から、平べったい手頃な石を拾い上げた。
「覚えてる? 昔、よくここでやったやつ」
「……氷割りね」
まだ私たちが小学生だった頃。学校帰りにこの川岸に立ち寄り、二人で競うように氷に向かって石を投げていた。氷が割れる音を聞きながら、「これで僕たちが春を連れてきたんだ」と、湊は得意げに笑っていた。あのアホらしくて、無防備で、世界が永遠に続くと思っていた無敵の放課後。
湊は石を横に振りかぶり、川面に向けて力強く投げ放った。
石は水面すれすれを滑るように飛んでいき、浅瀬に張っていた薄い氷の真ん中に「パリンッ」という硬質な音を立てて命中した。ガラスが割れるような美しい音と共に、氷に放射状の亀裂が走り、その隙間から黒い川の水がじわじわと滲み出してくる。
「紬の番」
私は缶コーヒーを左手に持ち替え、右手で手頃な石を探して拾い上げた。雪解け水に濡れた石の表面のざらつきと、骨の髄まで突き刺さるような鋭い冷たさが、素手の指先に伝わる。 息を深く吸い込み、思い切り腕を振る。
私が投げた石は、湊が作った亀裂のすぐそばに落ち、さらに大きな音を立てて氷を完全に粉砕した。砕けた氷の欠片が、川の激しい流れに巻き込まれ、くるくると頼りなく回りながら、あっという間に下流へと流されていく。
「春を呼ぶ儀式」
湊が呟いた。
「これで、もうすぐ春が来るね」
私は流れていく氷の欠片を見つめながら言った。
二人で並んで安い缶コーヒーをすすり、川の氷を割る。ただそれだけの、ひどく子供じみた行為だった。けれど、その短い時間の中で、私たちの中に重く淀んでいた過去の澱のようなものが、割れた氷と一緒に少しだけ流れ去っていくような気がした。
私たちは、愛し合っていた過去を元通りに修復したわけではない。もうあの頃の二人に戻れないということを、ただ「終わったこと」として正しく受け入れ、弔うことができたのだ。
遠軽駅のホームには、川岸よりもさらに冷たく強い風が吹き抜けていた。
午後四時半。遠くから、ディーゼルエンジンの重たい唸り声が響いてくる。やがて、四角い顔をした特急『オホーツク』が、雪煙を微かに上げながらホームに滑り込んできた。
この遠軽駅は、全国でも珍しいスイッチバックの駅だ。
すべての列車は一度この駅で行き止まりとなり、進行方向を逆にして、運転士が前後を入れ替わってから再び出発していく。前へ進むためには、一度立ち止まり、向きを変えなければならない。それはまるで、私たちの人生のあり方そのもののように思えた。
「じゃあ、行くね」
湊が、開いた列車のドアの前に立って言った。
「うん。元気でね。……風邪、引かないように」
「紬も。店、無理しないで」
私たちは握手もしなかった。抱擁もしなかった。ただ、数秒間だけ互いの目を真っ直ぐに見つめ合った。
彼の瞳の奥にあった迷いや疲労の色は、先ほど古書店に現れた時よりも、少しだけ澄んでいるように見えた。彼もきっと、あの川岸に重たい荷物を一つ、置いていくことができたのだろう。彼には彼の戦うべき、あの冷たい都会という場所があり、そこへ戻っていくための儀式が今日の私との再会だったのだ。
そうでなければ北見から遠軽に来るわけがない。だって、空港は北見近くの女満別なのだから。
ドアが閉まり、鈍い金属音と共に列車がゆっくりと動き出す。
やってきた時とは逆の方向へ。 私はホームに立ち尽くし、カシミヤのコートを着た彼が、四角い窓の向こうで次第に小さくなり、やがて風景の中に完全に溶けて消えていくのを最後まで見送った。
別れは、悲しくなかった。
五年前に彼が去った時は、自分の世界の半分が不当にもぎ取られたように感じ、夜通し泣き叫んだのに。今はただ、ひとつの美しい季節が、正しい順序で終わっていったような、静かで確かな納得だけが胸の中にあった。
駅を出て、一人で店へと向かう帰り道。
気温はさらに下がり、足元のざらめ雪は再び凶暴な硬さを取り戻し始めていた。
ギュッ、ギュッ。
自分の足音だけが、薄暗くなり始めた町に響く。
右手のポケットには、すっかり冷え切って、ただの鉄の塊のようになった空のコーヒー缶が入っていた。
私はふと立ち止まり、深く、深く息を吸い込んだ。
冷たい風の刃が喉を通り抜け、肺の奥底までを満たす。
その時、鼻腔を抜けたのは、冬の冷気だけではなかった。
アスファルトの隙間から、顔を出したばかりの黒い土の匂い。
太陽の光をわずかに吸い込んだ、微かな有機物の匂い。
それは、間違いなく「春の匂い」だった。
五年もの間、私の時間はあの冬の夜に凍りついたままだった。彼という美しい幻影に囚われ、自分はもうどこへも行けないのだと諦め、古書の埃の中で息を潜めていた。
しかし、彼と再会し、並んで川の氷を割り、そして彼がやってきたのとは違う方向へ帰っていくのを見送った今。
私の中の分厚い氷にも、確かにパリンと亀裂が入ったのだ。その亀裂から、新しい時間が少しずつ滲み出し始めている。
「……春か」
一人きりで呟いたその言葉は、白い息となって空気に溶け、透明に消えていった。
ポケットの中の冷たい空き缶を、近くの自動販売機の横にあるゴミ箱に捨てる。
カラン、という軽い音が響いた。過去を一つ、物理的に手放した音だった。家に帰ったら、あの日彼が置いていった文庫本も、マグカップも、すべて捨ててしまおう。
私は顔を上げた。
灰色の雲の切れ間から、夕闇に完全に染まる前の、薄く透き通ったブルーの空が顔を覗かせていた。
古書店に戻ったら、明日は入り口のガラスをきれいに磨こう。そして、ずっと手を付けていなかった、春の詩集の棚を整理して、新しい本を面陳列にしよう。
ブーツの底でしっかりと大地を踏みしめ、私は前を向いて歩き出した。
スイッチバックの駅のように、私はここで五年という長い時間立ち止まり、そして今、自分の意志で新しい方向へと動き始めたのだ。
足元の雪解け水が、私の歩幅に合わせて小さく、喜ぶように跳ねた。




