第3話:夕暮れの四畳半
三月も終わりに近づき、外の空気は少しずつ冬の刺すような冷たさを脱ぎ捨て、春の柔らかさを帯び始めている。
だが、築八十年の『ひまわり荘』一〇一号室の中だけは、まるで時間が琥珀の中に閉じ込められたかのように、ひっそりと静まり返っていた。
お菊さんは、畳の上にちょこんと座り、窓から差し込む夕灰色の光を眺めていた。
彼女にとって、時間は「流れるもの」ではなく「耐えるもの」だった。一馬が大学へ出かけてから、もう何度、柱時計の止まった針を見つめただろうか。
(……一馬さん、遅いわね。もうすぐ日が沈んじゃうわ)
彼女は独り言を呟き、自分の透き通った手を、夕日の光にかざしてみる。
光は彼女の掌を何ら抵抗なく通り抜け、畳の上に歪な影すら落とさない。彼女がそこに「在る」ことを証明してくれるのは、時折通り抜ける風に揺れる髪の感触と、部屋に漂うかすかな白粉の匂いだけだった。
八十年。あるいは、もっと長い時間。
彼女はこの四畳半という箱庭の中で、たった一人だった。
かつてここを通り過ぎていった住人たちは、みんな彼女を「瑕疵」と呼び、その姿を認識した瞬間に悲鳴を上げて逃げ出した。誰も彼女の瞳を真正面から見ず、誰も彼女の名を愛おしそうに呼ばなかった。
だが、佐藤一馬は違った。
彼は彼女に触れ、彼女の名を呼び、そして「行ってきます」と、当たり前のように再会の約束を残していった。
その約束が、今の彼女にとってどれほど眩しく、そして同時にどれほど恐ろしいものか。
もし、彼がこのまま帰ってこなかったら。外の世界にいる
「生きた、温かくて、実体のある女の子」に夢中になって、このカビ臭くて薄暗い部屋のことなんて忘れてしまったら。
そうなれば、自分を繋ぎ止める唯一の「観測者」を失い、自分は今度こそ、ただのホコリになって消えてしまうのではないか。
ガタガタ、と不安に呼応するように、窓ガラスが小さく震える。
彼女は慌てて自分の頬を叩いた。冷たい。けれど、一馬が今朝触れてくれた場所だけが、まだ微かに熱を持っているような……そんな温かな錯覚を覚える。
「……信じて待つって、意外と体力がいるのね。幽霊なのに、お腹が空く気がしちゃうじゃない」
彼女は気分転換に、お気に入りの定位置である押し入れの上に飛び乗った。そこから玄関のドアを、まるで忠犬のようにじっと見つめ続ける。
その時。
カチャリ、と鍵が回る音が、静まり返った部屋に響いた。
「ただいま。……遅くなってごめん、お菊さん。スーパーが混んでてさ」
ドアが開いた瞬間、止まっていた部屋の空気が一気に爆発するように動き出した。
一馬だ。リュックを背負い、少し肩を落として疲れを見せながらも、真っ先に部屋の隅々を見渡し、私の姿を探している「同居人」。
「一馬!!」
お菊さんは、重力を無視した蝶のように、押し入れから玄関へと飛び降りた。
勢い余って一馬の胸に飛び込みそうになり、寸前で昨日の「アクシデント」を思い出し空中でピタリと足を止める。彼女の放つ冷気が、一馬の安物のコートを白く凍らせそうになる。
「遅い! 遅すぎるわよ! 門限は何時だと思ってるの? 私、退屈すぎて、壁のシミの数を三回も数え直して、最後にはシミに名前までつけちゃったんだから!」
「ごめんって。講義が長引いたのと……あと、約束のものを探してハシゴしてたら時間がかかっちゃってさ」
一馬は苦笑しながら、手にしたビニール袋を誇らしげに掲げて見せた。
袋の中からは、ひんやりとした冷気と、バニラとチョコが混ざり合った魅惑的な甘い香りが漏れ出している。
「あ……! それ、もしかして……!」
「約束通り、新作のコンビニスイーツ。ハシゴして見つけた一番人気の『特製・濃密生チョコケーキ』と、お菊さんが好きそうな『期間限定・苺のふわふわ大福』だ」
「……っ! 許してあげるわ! 今すぐ、無罪放免にしてあげる! さあ一馬、早く! お茶の準備をしてちょうだい! お鼻の準備は万端よ!」
お菊さんの瞳が、夕闇の中で宝石のようにキラキラと輝いた。
さっきまでの孤独で消え入りそうな表情はどこへやら、彼女は一馬の周りをくるくると浮遊しながら、キッチンへと急かす。その足取りは、もはや怨念を抱えた幽霊のそれではなく、ただの「学校帰りの恋人を心待ちにしていた少女」そのものだった。
四畳半の中央。
小さなローテーブルを挟んで、一馬とお菊さんは向き合って座った。
一馬の前には、プラスチックの容器に入った艶やかな生チョコケーキ。お菊さんの前には、真っ白な粉を纏い、苺の赤がうっすら透けて見える大福が、一番綺麗な皿に載せられて置かれている。
「いただきます、の儀式よ。……一馬、心の準備はいい? 」
「大袈裟だな……。良いよ。いただきます」
一馬がプラスチックスプーンを差し込み、濃厚なチョコの塊を掬い取って口に運ぶ。
お菊さんはそれを、瞬きもせずに食い入るように見つめている。
彼女の「食事」は、一馬が食べる様子を観察し、その咀嚼音や表情、そして彼が感じる「幸福感」を霊的な共鳴を通じて共有することだ。
「……どう? 甘い? 苦い? 舌の上で、とろーって溶ける感じ?」
「……すごいよ。チョコがすごく濃厚で、中に生キャラメルが入ってる。口に入れた瞬間に、こう、甘さと香りが爆発する感じかな。……うん、これは旨い」
「……んんっ、わかるわ! なんだか、私の口の中でもキャラメルが踊ってる気がする! もっと、もっと詳しく教えて! 喉を通る時の感触は? 鼻に抜ける香りは!?」
お菊さんは、これ以上ないほど目を輝かせ、ローテーブルに身を乗り出した。
しかし、その距離感はあまりにも無自覚だった。
「お、お菊さん。……ちょっと、身を乗り出しすぎじゃないかな。近いよ」
「何言ってるのよ。チョコの芳香を! 1ミリでも近くで吸い込みたいのよ、幽霊は鼻が命なんだから!」
彼女はさらにテーブルへ覆いかぶさるように、ぐいっと重心を預けた。
その瞬間、一馬の視界には、甘いスイーツよりも遥かに刺激的な「毒」が飛び込んできた。
お菊さんは、大正・昭和初期風の銘仙の着物を着ているが、その着こなしは彼女なりにアレンジされており、襟を少しだけ「抜き気味」に合わせている。
それが、前傾姿勢になったことで、災いした。
テーブルに身を乗り出したことで、レースの半襟が重力に引かれ、その奥にある――白粉を叩いたような、けれどそれよりもずっと生々しく透き通るような白さの、鎖骨から胸元にかけての境界線が露わになったのだ。
さらに、テーブルの縁に押し付けられた胸が、柔らかな生地の上からでもハッキリと分かるほど、むにゅりと形を変えている。
(……っ!?)
一馬は反射的に、手に持っていたスプーンを落としそうになった。
相手は幽霊だ。足はないし、影もない。体温は氷点下に近い。
わかっている。頭では死ぬほど理解しているのだが、至近距離にあるのは、どう見ても「たおやかで、柔らかな女の子の肉体」そのものだった。
「どうしたのよ、一馬。さっさと食べなさいよ。それとも何、美味しすぎて失神しそうなわけ?」
「……いや。美味しすぎてというか、目に毒というか……。お菊さん、いいから一回座りなよ。……行儀が悪いぞ」
「行儀なんて、八十年前の親の小言でお腹いっぱいよ! ほら、早く次の、その大福もいきなさいよ!」
お菊さんは、一馬の動揺など露知らず、テーブルに胸を押し付けたまま、挑発するように小首を傾げた。
大きな瞳が至近距離で一馬を射抜く。白粉の甘い香りが、チョコの匂いと混ざり合って、一馬の脳の理性回路をショートさせていく。
(落ち着け、佐藤一馬。彼女は歴史の遺物だ。……でも、この質感はどう見ても……昨日触れたあの柔らかさは……!)
一馬は震える手でケーキをもう一口、無理やり口に運んだ。
お菊さんは、一馬が飲み込む瞬間を逃すまいと、さらにグイと顔を近づけてきた。その拍子に、彼女の冷たい吐息が、一馬の唇の端を掠める。
「……っ、うぐっ、ふ、フガッ!」
「あら? 喉に詰まらせたの? 本当にどん臭いわねぇ、一馬は。……ほら、ちゃんと私の目を見て。味を共有するんでしょ? あんた、さっきからどこ見てるのよ。……え、私の服に、チョコでも付いてる?」
お菊さんは不思議そうに自分の胸元を見下ろし、それから一馬の視線が注がれている場所と、自分のあまりに無防備な姿勢に……ようやく気づいた。
「…………あ」
静寂。
次の瞬間、お菊さんの顔が、青白い光を放つように急速に赤らんだ。
「あ、あ、あ、あんた……!! どこ見てるのよ、このエロ一馬! 変態! 不潔! 物の怪! 下衆の極み!」
「見てない! いや、視界に入ってきたんだよ! 君が無防備すぎるんだよ!」
「わ、私は幽霊よ!? 物理的な体なんて、もう失ってるのよ! それなのに!それなのに!?」
お菊さんは慌てて身を引き、胸元を両手で隠すようにして、畳の上で丸まった。
彼女の羞恥心に呼応するように、ポルターガイスト現象が暴発する。
部屋の中のカーテンがバサバサと激しく揺れ、棚に置いてあった参考書がパラパラとページをめくり始め、電球がチカチカと明滅した。
「……悪かったよ!でも、見ちゃうんだよ。お菊さんが、あんまりにも……その、綺麗だから」
「……っ、き、綺麗だなんて……そんな、お世辞言っても許さないわよ……」
お菊さんの怒鳴り声が、ふっと消えた。
彼女は膝を抱えたまま、顔を伏せてしまう。
「……一馬のバカ。……幽霊相手に、何をドキドキしてるのよ。……私、死んでるのよ? 触っても冷たいし、心臓だって、もう動いてないのよ?」
「関係ないよ。……僕にとっては、今ここで怒ったり照れたりしてるお菊さんが、大学のどの女の子よりも一番『生きてる』感じがするんだ」
スイーツの甘い香りが、少し室内に残っている。
お菊さんは顔を上げないまま、消え入りそうな細い声を漏らした。
「……………………ねぇ。今の、もう一回言って」
「え?」
「綺麗だって……言ったやつ。……もう一回、ちゃんと言いなさいよ。部屋の主の命令よ」
一馬は困ったように頭をかき、耳まで赤くしながら呟いた。
「……お菊さん。君は、すごく綺麗だよ。……だからあまり、今のみたいな格好をしちゃダメだよ?」
「………」
お菊さんはようやく顔を上げると、まだ赤らんだ顔で、フイと視線を逸らした。
その横顔は、夕闇の中で透き通るように白く、やはりどこか、この世のものとは思えないほど幻想的に美しかった。
「……続き、食べなさいよ。せっかくのケーキが台無しだわ」
「ああ。……今度はちゃんと、味に集中して食べるよ」
「……当たり前よ。もう二度と、サービスなんてしてあげないんだから!」
そう言いながら、彼女はチラリと一馬を盗み見ている。一馬がケーキを食べる時の表情、喉の動き、幸せそうな吐息を、一つも見逃さないように凝視している彼女の姿は、どう見ても「乙女」のそれだった。
「次は……この『苺のふわふわ大福』だね。……これ、お菊さんの分だけど、僕が食べていいんだよね?」
「当たり前でしょ。私の分まで、あんたが味わうのよ。さあ、その柔らかそうな白いお餅を、思いっきり噛み切りなさい!」
言い方が少々物騒だが、お菊さんは期待に満ちた顔で、胸の前で手を組んでいる。
一馬が大福を大きく頬張ると、モチモチとした柔らかな食感と共に、中から甘酸っぱい苺の果汁と滑らかなあんこが溢れ出した。
「……モチモチだ。苺がすごくジューシーで、あんこの甘さを中和してる。……お菊さん、これ、絶対に君が好きな味だよ。上品だけど、どこか懐かしい感じ」
「……ん、最高。……一馬、あんたの幸せそうな顔を見てると、なんだか私が『生きてた頃』のことを、ほんの少しだけ思い出しそうな気がするわ。……誰かとこうして、甘いものを囲んでいたような……」
お菊さんの声が、ふっと柔らかくなった。
彼女は自分の細い指先を、一馬の唇の端についたクリームに近づける。
触れたい。けれど、彼女が触れれば、その瞬間、一馬は凍えるような冷たさを感じるだろう。
お菊さんは一瞬躊躇し、寂しそうに指を引きかけたが――。
「……お菊さん」
一馬が彼女のその手を取り、自分の頬に添えた。
ひんやりとした氷の感触。けれど、その奥に、確かな「存在の熱」を一馬は感じ取っていた。
「……冷たいけれど、確かにお菊さんはここにいる。……僕が証明するよ。君が誰なのか、何を待っていたのかを思い出すまで、僕は毎日、必ずこの部屋に帰ってくるから」
「……一馬……あなた、不器用な癖に、たまにズルいこと言うわね」
お菊さんの頬が、ほんのりと青白い光を帯びて赤らんだ。
彼女は握られた一馬の手の甲に、自分のもう片方の手をそっと重ねた。
スイーツを平らげた後、一馬はレポートを書くためにパソコンを開いた。
お菊さんはその横で、画面から漏れる光に照らされながら、興味深そうにキーボードを叩く指を眺めている。
「……一馬さん、その不思議な光る箱、何が楽しいの? 文字が勝手に出てくるなんて、タイプライターもびっくりね」
「これはパソコン。これで勉強したり、世界中の情報を調べたりするんだよ。……例えば、ほら」
一馬はふと思い立ち、検索バーに『ひまわり荘』と打ち込もうとして――指を止めた。
彼女の過去を無理に掘り起こすことは、今のこの穏やかな時間を壊すことにならないだろうか。
お菊さんは、自分が死んでいることすら曖昧にしている。そんな彼女に、無機質な検索結果で「君はここでこうして死んだんだよ」と突きつけることが、果たして正解なのだろうか。
「……調べないの?」
お菊さんが、耳元で囁いた。
冷たい吐息が首筋をかすめる。彼女はすべてを見透かしたような、それでいて何も知らない子供のような純粋な瞳で画面を見つめている。
「……いや、今日はもう疲れたからさ。……お菊さん、約束覚えてる? 明日の朝食」
昨日お菊さんがテレビを見ているとフレンチトースト特集なるものを見つけてしまい、作る約束をさせられたのだ。
「当たり前じゃない! フレンチトーストよ。パンを卵と牛乳に一晩浸すと美味しくなるって、昨日テレビの人が言ってたわ。……今から準備した方が良いんじゃない?」
「はいはい。……準備が終わったら、今日はもう寝よう。お菊さんも、夜は掃除機かけるなって言うくらいなんだから、ちゃんと寝るんだろ?」
「寝るわよ。私は美肌と、この『透け感』を保つのに忙しいんだから。……一馬。あんたの布団、私のすぐ隣に敷きなさいよ。私が天然の冷房になって、冷やしてあげてもいいわよ?」
「それは勘弁してくれ。朝起きたら僕が幽霊になってるかもしれないから」
一馬がキッチンへ立ち、パンを卵液に浸す準備を始める。
その背中を、お菊さんはずっと、幸せそうに、そしてどこか切なそうに眺めていた。
たとえ自分が、名前も過去も失った「瑕疵」物件の住人だったとしても。
今、この瞬間、自分のために食事を準備し、自分の名前を呼んでくれる誰かがいる。その事実だけで、彼女孤独は、春の雪が解けるように消えていく気がした。
夜が更け、部屋の電気を消す。
暗闇の中、お菊さんの輪郭が青白く、優しく発光している。
「……おやすみ、お菊さん」
「……おやすみなさい、一馬。……明日も、ちゃんと私のこと、一番に見つけてね」
四畳半に、静かな寝息と、存在しないはずの心臓の鼓動が、重なり合うように響いていた。
外の世界の喧騒から切り離された、この小さな四畳半の宇宙の中で、彼らは確かに「存在して」いた。




