第2話:幽霊の朝は早い
「……ねぇ。いつまで寝てるのよ、一馬。このままだと、あんたのなけなしの脳細胞が全部腐って、本当の『エロ馬』になっちゃうわよ」
鼓膜を直接、氷の指先で弾かれたような、ひんやりとした声。それと同時に、鼻先をかすめる甘ったるい白粉の香りで、僕の意識は強制浮上させられた。
重い瞼をこじ開けると、視界のすべてを「白」が支配していた。
それは朝の光の白さではない。時代から切り離されたような、どこか浮世離れした冷たい白。そして、目を開けて最初に見えたのは、吸い込まれそうなほど澄んだ、けれど生命の灯火を感じさせない大きな瞳だった。
「うわっ……!? びっくりした……!」
跳ね起きようとした僕の額に、お菊さんの冷たい鼻先が「コツン」と当たる。
彼女は僕の枕元に膝をつき、まるで新種の珍獣を観察する子供のように、僕の寝顔を至近距離で覗き込んでいたらしい。
「お、お菊さん……。心臓に悪いから、寝起きに顔を近づけるのはやめてくれ……。まだ朝の六時半だよ。大学生の朝を舐めないでほしいな。一限がない日は、昼の十二時までが『深夜』なんだから……」
「何言ってるのよ。お天道様が昇ったら起きる。これが人間の……あ、いや、この部屋の主である私のルールなの。さっさと起きて、窓を開けなさい。空気が淀むと、私の体が余計に透けちゃう気がするんだから。ほら、早く!」
お菊さんはプイと顔を背け、宙を泳ぐようにして窓際へと移動した。
彼女の足――実際には畳から数センチ浮いているのだが――が、軽やかに空を蹴る。
昨日の今日で、まだ実感が湧かない。
家賃一万円という「安さ」に釣られて入居した僕の城には、自称・人間(実体化する幽霊)の同居人がいる。
お菊さんはカーテンの隙間から差し込む朝日を浴びると、その輪郭がさらに淡くなり、まるで真昼の空に浮かぶ月のように今にも消えてしまいそうに見えた。だが、本人はいたって元気そうで、眩しそうに手で目を覆いながら、「やっぱり朝の光はいいわね」と、生前と変わらぬ仕草で微笑んでいる。
彼女は自分が死んでいることを忘れている。あるいは、無意識のうちに拒絶している。
その「生」への無邪気な執着と、時折見せる年相応の少女のような表情が、僕にはたまらなく危うく、そして……少しだけ、放っておけないものに見え始めていた。
「……一馬。お腹空いたわ。あんた、何か作りなさいよ。私への『貢ぎ物』、兼、同居の挨拶として相応しいやつをね」
お菊さんはキッチンのカウンター(小さい棚)に腰掛け期待に満ちた目で僕を見下ろした。
「お菊さん、食べられるの? 幽霊……じゃなかった、『体が軽い人』は、消化器官とか機能してるのかな。食べたものが、そのまま畳にボトボト落ちたりしない?」
「失礼ね! そんな下品なことにならないわよ。……まあ、正直に言うと、固形物を飲み込む感覚はもうないんだけど。でもね、雰囲気は楽しめるわ。……それに、あんたが何かを作ってる音や、漂ってくる匂いを嗅いでいると、なんだか私の胸の奥……この辺りが、じわっと温かくなる気がするのよ」
彼女は自分の胸――昨日、僕の手が触れてしまった場所――に手を当て、少しだけ不思議そうな顔をした。僕は一瞬、昨日の感触を思い出して顔が熱くなったが、慌てて冷蔵庫を開けて誤魔化した。
一万円の家賃で浮いたお金は、すべて学費と最低限の生活費で消えるだろう。
冷蔵庫にあるのは、タイムセールで死守した半額の食パンと、賞味期限間近の卵、それから僅かなベーコンだけだ。
「よし、超豪華・佐藤家特製モーニングセットを作るよ」
「期待してるわよ、一馬シェフ」
パンをトーストし、フライパンに火を入れる。
ジュウジュウという小気味いい音と共に、ベーコンの脂が弾ける香ばしい匂いが狭い部屋に広がっていく。卵を割り入れ、絶妙なタイミングで蓋をする。
お菊さんはその様子を、身を乗り出して、目をキラキラさせて見つめていた。
「すごいわ、一馬。美味しそうな色に変わっていく……。卵を突いても良いかしら?」
ベーコンを焼き油が染み出してくる頃に生卵を入れてやる。じっくり火を通すと卵も色が変わり実に美味しそうな色艶,そして香りを放つ。
「ダメだよ、黄身を崩すのは僕の特権だ。ほら、できた。お菊さんの分は……皿に盛っても、触れないんだよね?」
「あら残念……いいのよ、そこに置いて。……さあ、いただきましょう」
お菊さんは、僕の向かいの席に、当たり前のように座った。
彼女はテーブルに両肘をつき、出来立ての目玉焼きから立ち昇る、白く細い「湯気」を、いとおしそうに、そして深く、深く胸いっぱいに吸い込んだ。
「……ふぁ。あぁ……いい匂い。醤油の焦げた匂いと、バターの甘い香り……。一馬、これよ。これが『朝』の匂いよね」
「……匂いを吸うだけで満足なの?」
「満足よ。私にとってこの温かい湯気は一番のご馳走なの。……ねぇ、ちょっとだけ、そのパンを私の近くに寄せて。熱気を直接、肌で感じたいの」
僕は言われた通り、皿を彼女の目の前まで押しやった。
お菊さんは、その熱い皿の縁に細い指を添えようとして――一瞬だけ、指先がピクリと止まった。
触れようとしても、熱を感じることはできても、その「質量」を完全に掴むことができない。彼女の指は、皿の陶器の感触に触れた瞬間、霧のようにわずかに乱れ、実体としての重みを持たないことを露呈してしまう。
彼女は一瞬だけ、言いようのない悲しみに瞳を曇らせた。
自分がこの「暖かい朝食」という当たり前の営みから、物理的に隔絶されていることを、本能が悟ってしまったのか。
「……お菊さん?」
「……あ! ちょっと、何ジロジロ見てるのよ! 早く食べなさいよ、冷めちゃうじゃない。ほら、卵の黄身、ちゃんとトロトロ? 私、焼きすぎたのは嫌いなのよ」
お菊さんはすぐに満面の笑みを作ると、僕の食べている姿をじっと見つめ始めた。
その瞳の奥には、自分がこの「食卓」という輪の中に、どれだけ努力しても完全には入り込めないことへの、無意識な孤独が澱のように沈んでいた。
僕は、彼女の分だと思って、いつもより丁寧にトーストを噛み締めた。
「……うん。完璧な半熟だよ。世界一旨い」
「そう。よかったわね。……あんたが美味しいって思ってるなら、私の口の中にもその味が広がってる気がするわ。……ねぇ一馬、明日の朝は何を作ってくれる?」
彼女の言葉はどこまでも明るい。
けれど、僕は気づいてしまった。彼女の「物理干渉」が一馬にだけ働くのは、もしかしたら一馬が彼女を「そこにいる」と強く認識しているからではないか、と。
朝食を終え、僕が大学へ行く準備を始めると、お菊さんは昨日以上の勢いで、僕の生活に干渉してきた。
「ちょっと! その脱ぎっぱなしの靴下は何よ! 部屋の主である私に対する反逆罪ね。あと、教科書は背表紙を揃えて立てなさい。……一馬は本当に、私がいないとダメなんだから。……イチ……?……いや、なんでもないわ」
「……今、なんて言った? イチ?」
「え? 別に。ただの聞き間違いじゃない? 滑舌が悪いのよ」
お菊さんはフイと目を逸らしたが、その顔には一瞬、戸惑いの色が浮かんでいた。
彼女の記憶は、深い霧の向こうにある。
長い年月、彼女はこの四畳半で何を思い、誰を待っていたのか。
「……なんだか、ずっと前から、こうして誰かの世話を焼いて、小言を言ってた気がするのよね。……それが誰だったのか、どこだったのかは、全然思い出せないんだけど。……でも、あんたを叱っていると、なんだか懐かしい気持ちになるの」
お菊さんはふと、自分の記憶の断片を掴もうとするように、空を仰いだ。
彼女はこの四畳半で、気が遠くなるほどの時間を一人で過ごしてきたはずだ。存在を認識されないという、死よりも残酷な孤独。
「……一馬。あんた、私のこと、本当は邪魔だと思ってない?」
鏡の前で髪を整えていた僕の背中に、彼女の声が突き刺さった。
振り返ると、お菊さんは畳の上に座り込み、自分の透ける手をじっと見つめていた。
「家賃一万円で静かに暮らしたかったんでしょ。なのに、こんな口うるさい、得体の知れない幽霊が居座っちゃって。……あんた、本当は困ってるんじゃないの?」
その声は、朝の光に溶けてしまいそうなほど、細く、頼りなかった。
僕はリュックを背負い、彼女の前にしゃがみ込んだ。
「正直に言うよ。……めちゃくちゃ困ってる。深夜に天井から足が生えてくるなんて、どんなホラー映画より心臓に悪いし、家賃一万円の価値がポルターガイストの修繕費で消えそうで毎日ヒヤヒヤしてるよ」
「……やっぱり」
お菊さんが肩を落とした瞬間、僕は彼女の、あの
冷たい手を、昨日と同じようにぎゅっと握りしめた。
「っ……!」
驚いたようにお菊さんが顔を上げる。
僕の手のひらを通して、彼女の「冷たさ」が伝わってくる。
いや、それは冷たさというよりも、「温かさを切望する記憶」のような感触だった。
「でもね。一人でこのボロアパートに住むよりは、ずっといい。君がいてくれるおかげで、目覚まし時計の音よりも、ずっと確実に目が覚めるからね。……お菊さん、君は邪魔じゃない。この部屋の『主』なんだから、堂々としてなよ」
お菊さんの頬が、ほんのりと赤らんだ。幽霊に血の気が差すはずはないのだが、彼女の放つオーラが、一瞬だけ春の陽だまりのように和らいだ。
「……生意気ね、年下のくせに。……わかったわよ。そこまで言うなら、この部屋を居心地のいい場所に整えてあげるわ。あんたが大学で嫌なことがあっても、ここに戻ってくれば笑顔になれるくらいにね。……もちろん、私の小言付きだけど!」
お菊さんは強気な笑みを取り戻し、僕の胸をポカっと叩いた。
家を出る時間。僕はドアノブに手をかけた。
「じゃあ、行ってくる。……お菊さん、留守番頼むよ」
僕が何気なく言ったその言葉に、お菊さんの表情が再び強張った。
彼女は玄関の三和土の境界線に立ち、僕の方へ一歩踏み出そうとして――。
――バチン!
目に見えない火花が散ったような気がした。彼女の体が、玄関のラインを越えようとした瞬間、まるで見えない鎖に引き戻されるように、激しく揺らいだのだ。
「……あ」
お菊さんは、呆然と自分の足元を見た。
彼女はこの部屋から出られない。
この四畳半という空間が、彼女の世界のすべて。一馬がドアを開けて外の世界へ踏み出すとき、彼女は一人、取り残される。
数十年、あるいはもっと長い間、彼女はこうして去っていく誰かの背中を見送ってきたのだろうか。
「行かないで」と言えず、「待ってるわ」という言葉さえ届かないまま。
「……一馬。……行くの?」
その声には、先ほどまでの快活さは微塵もなかった。
今にも消えてしまいそうな、小さな子供のような怯え。
僕は、ドアを開ける手を止めた。
このまま無言で立ち去ることは、今の僕にはできなかった。
「大学だからね。夕方には帰るよ。……あ、そうだ。昨日のルールの二つ目、帰りにコンビニで一番美味しそうな新作スイーツを買ってくる。お菊さんは……そうだな、和洋折衷なやつとか好きそうだし、苺大福とかどう?」
僕が努めて明るく言うと、お菊さんは大きく目を見開いた。
「苺大福……。あ、あの、いちごが白いお餅に包まれてるやつ……? ……もちろん好きに決まってるじゃない!」
「よし、決まりだ。探してくるから。……だから、そんな顔しないで待っててよ」
「……誰がどんな顔してるってのよ! べ、別に寂しくなんてないわよ! むしろ、あんたがいない間に、この部屋を私の好きなように模様替えしてやるんだから!」
お菊さんは頬を膨らませて言い返したが、その瞳には、確かな安堵の光が宿っていた。
「……約束よ。絶対に、絶対に忘れないで。……もし忘れたら、この部屋の壁中に、あんたが持ってたあの『芸術的な写真集』を破り捨ててやるんだから!」
「それは勘弁してくれ! ……じゃあ、本当に行ってきます」
「……ええ。……いってらっしゃい、一馬」
ドアを閉めた瞬間、静寂が廊下に満ちた。
背中越しに、ドアの向こうでお菊さんが、去っていく僕の足音を、壁に耳を当ててじっと聞いているような気配がした。
階段を降りながら、僕は自分の右手の感覚を確かめた。
彼女の「冷たさ」は、今もなお、僕の皮膚の下に深く入り込み、消えることがない。
(……お菊さん。君は一体、どれくらい前からここにいたんだ?)
大学へ向かう道すがら、僕はスマホで「ひまわり荘」の歴史を調べようとしたが、検索結果には何も出てこなかった。
けれど、僕の胸の中には、昨日までの「孤独」はもうなかった。
待っている人がいる。
たとえそれが、自分が誰かも知らない、少しお節介で、寂しがり屋で、最高に可愛い幽霊だったとしても。
僕と、お菊さん。
四畳半から始まる、二人の「奇妙な同居生活」は、まだ始まったばかりだ。




