第0話:ひまわり荘の101号室
「……残り、三千四百八十二円。これでどうやって次のバイト代まで生き延びろっていうんだ」
四月。大学のキャンパスが新入生の希望と桜色に染まる中、二年生になった僕、佐藤一馬の心は、シベリアの永久凍土よりも冷え切っていた。
奨学金とバイト代でギリギリの生活を送っていた僕は、先月、それまで住んでいた学生寮が老朽化で急遽取り壊されるという不運に見舞われた。
引越し費用。敷金礼金。新生活の準備。
それらが僕のなけなしの貯金を情け容赦なく食い潰し、結果として残ったのが、手元の通帳に記されたこの絶望的な数字だった。
「佐藤さん。あなたの予算と条件(初期費用ゼロ・保証人なし・即日入居可)で紹介できる物件は、もうこれしかないよ。……というか、普通はないんだよ、こんな物件」
駅前の古びた不動産屋で、タバコ臭い営業の男が、一枚の黄ばんだ間取り図をテーブルに滑らせてきた。
『ひまわり荘 一〇一号室。四畳半、風呂トイレ付。家賃一万円』
「い、一万円!? ネットカフェの連泊より安いじゃないですか! ここにします! 今すぐ契約書にハンコ押します!」
僕が食い気味に身を乗り出すと、営業の男はひどく同情するような、あるいは可哀想な生贄を見るような目で僕を見た。
「あのねぇ、佐藤さん。家賃が安いのには理由があるんだよ。……ここは、いわゆる『出る』部屋だ。前の住人は三日で夜逃げした。その前は一週間。不動産業界じゃ、ちょっとしたブラックリスト入りしてる『ガチ』の事故物件なんだよ」
「幽霊、ですか」
「そう。ラップ音がするとか、物が勝手に飛んでくるとか、そういうポルターガイスト現象が絶えないらしくてね。……やめとくかい?」
営業の男が間取り図を引っ込めようとした瞬間、僕はその手をガシッと掴んだ。
「住みます。幽霊が出ようが、悪魔が出ようが関係ありません。家賃が払えなくて橋の下で凍死するより、屋根のある部屋で幽霊に脅かされる方がマシです!」
僕のあまりの必死さに、営業の男は「……そうか。まあ、命あっての物種だからな。死なないように気をつけなよ」とため息をつき、契約書を用意してくれた。
こうして僕は、極貧という名の呪いに背中を押される形で、その日のうちに『ひまわり荘』へと足を踏み入れることになったのだ。
「あら。あなたが新しい一〇一号室の住人? ずいぶんと可愛らしい男の子じゃない」
『ひまわり荘』は、昭和の時代から時間が止まっているような、ツタの絡まる木造モルタル二階建てのアパートだった。
その一階、管理室と書かれたドアの前で、竹箒を持った女性が僕に声をかけてきた。
彼女が、このアパートの管理人である「よし子」さんだった。
体にフィットした薄手のタートルネックニットに、スリットの入ったタイトスカート。三十代だろうか、特有の熟れた果実のような色気と大人の余裕を漂わせている。とてもこんなボロアパートの大家には見えない。
「あ、佐藤一馬です。今日からお世話になります」
僕がペコリと頭を下げると、よし子さんはふわりとジャスミンの香りを漂わせながら近づいてきて、僕の胸元に鍵を押し当てた。
「ふふ、よろしくね。私は大家のよし子。……一〇一号室はね、少し『賑やか』かもしれないけど、男の子なら少しくらい刺激があった方が楽しいでしょ?」
よし子さんは僕の耳元でそう囁き、妖しくウインクをした。
美女にこんな至近距離で微笑まれ、僕の心臓は別の意味で跳ね上がった。
「し、刺激って……やっぱり、幽霊とか、そういう……」
「さあ、どうかしら。でも、もしどうしても怖くて眠れなくなったら、夜中に私の部屋に来てもいいわよ。……たっぷりと、お姉さんが慰めてあげるから」
よし子さんはクスクスと笑いながら、管理室へと戻っていった。
(……なんだか、色んな意味ですごいアパートに来てしまったぞ)
僕はゴクリと唾を飲み込み、軋む廊下を歩いて『一〇一号室』のドアの前に立った。
渡された古い鍵を鍵穴に差し込み、回す。
ガチャリ、と重い音がして、ドアが開いた。
「……お邪魔、します」
中は、何の変哲もない四畳半の和室だった。
畳は少し日に焼けているが、掃除は行き届いている。カビの匂いもしない。
ただ、部屋に入った瞬間、春の陽気とは不釣り合いな、背筋をゾクッと撫でるような「ヒンヤリとした空気」が漂っているのを感じた。
「(……気のせいだ。木造の一階だから、底冷えしてるだけだ)」
僕は自分に言い聞かせながら、少ない荷物を部屋に運び込んだ。
段ボールを開け、生活用品を配置していく。
ふと、部屋の奥にある押し入れを開けた時だった。
「……ん? なんだこれ」
押し入れの上段、奥の方に、一つだけ見慣れない物がポツンと置かれていた。
それは、鈍く光る銀色で縁取られた、アンティーク調の『手鏡』だった。柄の部分には、モダンな幾何学模様が彫り込まれている。
「前の住人の忘れ物か? 不気味だな……」
僕は気味悪く思い、手鏡には触れずに押し入れの戸をピシャリと閉めた。
その日の夜。
荷解きを終えた僕は、段ボールをひっくり返して机代わりにし、スーパーの特売で買ったカップラーメンをすすっていた。
時計の針は、深夜の二時を回ろうとしている。
「……よし。これで当面はしのげる。バイトを増やして、まずは生活費を安定させないと……」
通帳を広げながら今後のサバイバル計画を練っていた、その時だった。
パチンッ。
突然、天井の豆電球が弾けるような音を立てて消えた。
部屋が完全な暗闇に包まれる。
「えっ……停電?」
僕がスマホのライトを点けようと手を伸ばした瞬間。
部屋の温度が、急激に下がった。
いや、違う。「冷気」じゃない。これは純粋な「恐怖」に対する、僕自身の生物的な悪寒だ。
空気が異様に重くなり、耳の奥でキーンという耳鳴りが響き始める。
ガタッ。
ガタガタガタッ!!
部屋の隅に積み上げていた空の段ボール箱が、不自然に揺れ始めた。
それだけではない。
僕が読んでいた大学の分厚い教科書が、まるで透明な糸で吊り上げられたかのように、フワリと宙に浮いたのだ。
「う、嘘だろ……ポルターガイスト……!?」
僕が息を呑んだ次の瞬間、教科書はものすごいスピードで僕の顔面めがけて飛んできた。
「うわあっ!!」
間一髪で避けると、教科書は後ろの壁に激突してバサバサと床に落ちた。
続いて、ペン立てからボールペンが機関銃のように飛び出し、僕のリュックが空中でメリーゴーランドのように回転し始める。
完全な超常現象。幽霊の手による、明確な「物理的排除」の意志。
『……出ていきなさい』
背後から、鼓膜の奥を直接凍らせるような、恐ろしく低く、冷たい女の声がした。
心臓が止まるかと思った。
ゆっくりと、ギシギシと悲鳴を上げる首を回して振り返る。
僕の背後。さっき閉めたはずの押し入れの戸が、少しだけ開いていた。
そして、あのアンティークの『手鏡』が、青白い光を放ちながら空中に浮かんでいる。
その光の中から、ズルリ……と這い出してくる「何か」がいた。
「ひっ……!」
長い黒髪。血の気が一切ない青白い肌。
大正から昭和初期を思わせる、モダンな幾何学模様の銘仙の着物。
その女の幽霊は、ふわりと白粉の甘い香りを漂わせながら、音もなく畳の上に降り立った。
『ここは、私の部屋。……見知らぬ男の、醜い生気など持ち込まないで……今すぐ荷物をまとめて、出ていきなさい!』
幽霊の女が顔を上げ、僕を睨みつける。
その目は深淵のように暗く、底知れない「怨念」が渦巻いているように見えた。
彼女が手を振り上げると、今度は僕の食べていたカップラーメンが宙に浮き、中身のスープごと僕の頭上へひっくり返ろうとする。
(幽霊! ガチの幽霊だ! 物理攻撃してくるタイプのやばいやつだ!!)
僕の頭の中で、逃走本能のサイレンが鳴り響く。
このままここにいたら、間違いなく呪い殺されるか、カップラーメンの汁で火傷させられる。
「ご、ごめんなさい! すぐに出ていきます! 命だけは……!」
僕は畳を這いずりながら玄関へと向かい、ドアノブに手をかけた。
ガチャガチャ!
開かない。幽霊の念動力なのか、鍵が開いているのにドアが壁と一体化したようにビクともしないのだ。
『……私の眠りを妨げた罰よ。ここで恐怖に顔を歪めながら……!』
幽霊の女が、スウッと僕の目の前に瞬間移動してきた。
その冷たい指先が、僕の首筋に触れようとする。
「ああああああっ!!」
死ぬ。絶対に呪い殺される。
僕の脳裏に、これまでの短い人生が走馬灯のように駆け巡った。
しかし、その走馬灯の最後に現れたのは、両親の顔でも、初恋の人の顔でもなく――今日記帳したばかりの『通帳の残高(三千四百八十二円)』だった。
(……待てよ。ここから逃げ出しても、僕には新しく部屋を借りる初期費用なんて一円もない。実家は遠いし、友達の家を泊まり歩くのも限界がある)
ここで幽霊から逃げ切れたとしても、僕を待ち受けているのは『ホームレス生活』という、もう一つの社会的・肉体的な死だ。
「……っ!」
首筋を掴まれようとしたその瞬間。
僕は、恐怖を上回る「極貧の生存本能」で、ゆっくりと幽霊の女の方を振り返り、その目を見つめ返した。
『……? なぜ、悲鳴を上げないの』
幽霊の女が、少しだけ不思議そうに首を傾げる。
普通なら恐怖で気を失っているか、土下座して命乞いをするはずの人間が、震えながらも自分を真っ直ぐに睨み返してきたからだ。
「……家賃、一万円なんだよ」
『……は?』
「ここは、家賃一万円でネットも無料なんだ。……僕には、お金がない! 新しい部屋を借りるお金も、引越し業者を呼ぶお金も、何もないんだよ! だから、君がいくら物を飛ばそうと、脅かそうと……僕はここから出ていかない!!」
僕はガタガタと震えながら、半ばヤケクソで、泣き出しそうな声で宣言した。
あまりにも惨めで、情けない、金欠の生存宣言。
『……っ、生意気ね!ならば、ここで私に呪われて……!』
幽霊の女が激昂し、さらに強力なポルターガイストを起こそうと僕に顔を近づけた、その瞬間。
ピタリ。
僕の顔を至近距離で見た彼女の動きが、完全に止まった。
『……え?』
幽霊の女の青白い頬が、ほんのわずかに紅潮したように見えた。
彼女の瞳に浮かんでいた怨念と殺意が、激しい戸惑いと、どこか信じられないものを見るような色に変わる。
「……え?」
『……??……あなた、その顔……』
女は幽霊のくせに、ひどく混乱したように後ずさりした。彼女の指先が震え、僕の顔を指差している。
『……そ、そんなわ……け…………??あの人が、こんな……??……人違いよ、ただの他人の空似よ!』
一人で勝手にパニックに陥った幽霊の女は、両手で顔を覆うと、宙に浮いていた僕のリュックや教科書をドサドサと床に落とし始めた。
「(……なんだ? 急に態度が変わったぞ?)」
『き、今日のところは、これくらいで許してあげるわ! でも、勘違いしないでよね! 私が少し見逃しただけで、ここは私の部屋なんだから! 次に私の機嫌を損ねたら、ただじゃおかないわよ!』
幽霊の女は、捨て台詞のようにそう叫ぶと、逃げるように背を向け、再び青白い光を放つ手鏡の中へとスウッと吸い込まれて消えてしまった。
後に残されたのは、物が散乱した四畳半と、床に落ちたカップラーメン、そして腰を抜かしてへたり込んでいる僕だけだった。
「……助かった、のか……?」
震える手で自分の首筋を触る。
呪い殺されるかと思ったが、彼女が僕の顔を見て急に動揺し始めたおかげで、命拾いをしたらしい。
「なんだあの幽霊……。最初はめっちゃ怖かったのに、最後はなんか、ただのツンデレみたいになってたぞ……?」
部屋の電気のスイッチを押すと、チカチカと蛍光灯が点灯し、再び見慣れた四畳半の光景が戻ってきた。
幽霊の恐ろしい気配は、今はもう鏡の奥に引っ込んでいる。
僕は、床に散らばった教科書を拾い集めながら、深く、深くため息をついた。
「……ポルターガイストで物を飛ばしてくる、情緒不安定な和装の幽霊」
「……意味深なことを言う、三十代の色気ムンムンな大家」
僕は、ひまわり荘の異常性をたった数時間で思い知らされていた。
こんな部屋、まともな人間が住める場所じゃない。僕だって、できることなら今すぐ荷物をまとめて逃げ出したい。
だが、現実は残酷だ。
僕には、この部屋から逃げ出すための「資金」がないのだから。
「……見てろよ」
僕は顔をパンッと叩きながら、誰もいない部屋で、声に出して誓った。
「バイトを掛け持ちして、死ぬ気で貯金してやる! 敷金礼金、引越し費用……全部貯まったら、こんなイカれた心霊物件、速攻で解約して、絶対に引っ越してやるからな!!」
僕の悲痛な叫びは、四畳半の壁に吸い込まれ、虚しく響いた。
押し入れの奥で、アンティークの手鏡が微かに光った気がしたが、僕は気づかないフリをして布団を被った。
僕の目標は一つ。
金を貯めて、ここから引っ越すこと。
金が貯まるのが先か、僕が幽霊に呪い殺されるのが先か。
『ひまわり荘』一〇一号室での、僕とお菊さんの奇妙で騒がしい同居生活は、こうして絶望と極貧の中から幕を開けたのだった。
今日から本格的に連載スタートさせていただきます。
これから一馬に待ち受ける運命とは!?




