第1話:星を拾った夜(後編)
山を下り、夜明け前の静まり返った札幌の街に戻る頃、和也のスマートフォンの通知音は鳴り止まないオーケストラのようになっていた。
「……おい、エリス。これ、単位が『円』だよな? 見間違えじゃないよな?」
画面に表示されているのは、和也が一生かかっても、いや、数千回人生を繰り返しても稼げないような額の数字だった。
エリスは空中に小さなホログラムを出し、退屈そうに爪を磨く仕草(実際にはただの光の演出だが)をしながら答えた。
『世界の株式市場、暗号資産、先物取引……それらすべての「誤差」を拾い集めただけです。マスター、今の貴方はこの国の長者番付のトップ10を、指先一つで入れ替えられる立場にあります。これを、この星の言葉で「自由」と呼ぶのでしょう?』
「自由……。ああ、そうだな。少なくとも、明日会社に行って上司の罵倒を聞く必要はなくなった」
和也は、慣れ親しんだ(そして心底嫌気がさしていた)ボロアパートの前で立ち止まった。
だが、今の彼にはそのドアを開ける理由さえ見当たらない。エリスが言う通り、彼はもう、かつての佐藤和也ではなかった。
『マスター、感傷に浸っている暇はありません。貴方の「再興計画」に不可欠なピースが、ちょうど向こうからやってきましたよ』
「ピース? 誰のこと――」
その時だった。
アパート前の狭い路地に、深夜には場違いな、重厚なエンジン音が響いた。
現れたのは、黒塗りの最高級セダン。
車体は泥に汚れ、フロントガラスには石でも投げられたかのような大きな亀裂が入っている。明らかに「普通ではない」状況で逃げ込んできた車両だった。
セダンは和也の目の前で急ブレーキをかけ、止まった。
運転席から転がり出てきたのは、黒いスーツを着た大柄な男。だが、その脇腹は赤く染まっている。
「……っ、お嬢様、早く……!」
男が後部座席のドアを開けると、そこから一人の女性が降り立った。
和也は思わず息を呑んだ。
乱れた夜会巻きの黒髪、引き裂かれたドレスの上から羽織った男物のジャケット。そして、絶望的な状況にあってもなお、鋭い光を失わない意志の強い瞳。
彼女こそが、のちに和也と共に世界の産業構造を覆すことになるヒロインの一人、**如月怜奈**だった。
「助けて……とは言いません。ですが、追っ手が来るまであと三分。この男の手当てと、電話を一台貸して。報酬は……望むだけ払うわ」
彼女の言葉は、懇願ではなく「取引」だった。
和也は呆然としたが、脳内にエリスの冷徹な分析が流れ込む。
『個体識別:如月怜奈。如月重工、代表取締役社長。日本の軍需・重工業を支える名門の現当主ですね。どうやら親族間の内紛、あるいは海外資本による「物理的な買収工作」に巻き込まれたようです。……マスター、彼女は使えますよ』
「使えるって……こんな時に不謹慎だろ」
『いいえ。貴方の技術を形にするには、巨大な「工場」と「サプライチェーン」が必要です。彼女はそれを持ち、今はそれを失いかけている。……助ける理由は十分です』
和也は意を決して、怜奈の前に一歩踏み出した。
背後の闇から、別の車のライトが近づいてくるのが見える。追っ手だ。
「電話ならありますよ。……ただ、そんな怪我人を放置して電話しても間に合わない。俺の言う通りにしてください」
「貴方……何者なの?」
怜奈が怪訝な顔をする。
和也は、エリスによって改造されたスマホの画面をタップした。
「ただの、冴えないエンジニアですよ。……ちょっと前までは」
和也が画面上の「防御プロトコル:展開」というボタンを押した瞬間。
アパートの前に、不可視の「壁」が構築された。
追いついてきた追跡車両が、和也たちの数メートル手前で、まるで目に見えない巨大なクッションに激突したかのように、不自然な音を立てて弾き飛ばされた。
「……え?」
怜奈が目を見開く。
追跡車は、エンジンの回転数だけを上げているが、そこから一歩もこちら側へ進めない。物理法則を無視したその光景に、彼女は言葉を失った。
『マスター、ついでにそこの護衛の止血も終わらせておきました。ナノマシンを散布したので、三分で傷口は塞がります』
エリスの声が(和也にしか聞こえない形で)誇らしげに響く。
和也は、呆然と立ち尽くす怜奈に向かって、不敵な笑みを浮かべて見せた。
「如月社長。……潰れかかったお宅の会社、俺が立て直してあげましょうか。代わりに、俺の『趣味』に付き合ってもらいますけど」
朝日が、札幌の街並みを照らし始める。
それは、世界を統べる新たな太陽の昇る瞬間だった。




