終章
月曜日の朝。
午前七時。妹が起きる音。
今日、彼女は時計を正確な時間に戻すと言っていた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
俺は、声を返す。今まではしなかった。でも、今日はする。
午前十一時。俺が起きる。
いつもと同じ。でも、少しだけ違う。
今日、俺は、電池を買いに行く。
時計の電池を。
それは、小さな変化だ。でも、変化は変化だ。
ハローワークの封筒を手に取る。
まだ、開けない。でも、捨てもしない。
デスクの上に置く。見えるところに。
いつか、開けるかもしれない。開けないかもしれない。
でも、それでいい。
選択肢があるということ。それが、自由だから。
コーヒーを淹れる。今日は少し丁寧に。
午後、外に出る。
コンビニまで。電池を買うために。
店員は俺を見ても、何も言わない。ただ会計するだけ。
それでいい。
帰り道、田中さんが窓から手を振る。
俺も、手を振り返す。
今までは、気まずくて視線を逸らしていた。でも、今日は、振り返す。
家に着く。
時計に電池を入れる。
秒針が動き始める。
チクタク、チクタク。
時間は、再び動き出した。
止まっていたのは、時計じゃなくて、俺の方だった。
でも、今、俺は、動き出した。
どこに向かっているのか、まだ分からない。
でも、それでいい。
俺は思う。
労働とは、何か。
それは、もしかしたら、金銭を得ることではなく、
誰かの役に立つこと。
誰かを幸せにすること。
そして、その実感を得ること。
金銭は必要だ。生きていくためには。
でも、それは二番目の問題だ。
まず、価値を提供する。
そして、それをどう金銭に換えるかは、また別の技術として考える。
順番を間違えてはいけない。
お金のために、誰も幸せにしない仕事をするのは、本末転倒だ。
俺は、まず、自分が価値を提供できていることを認める。
次に、それをどう金銭化するか、考える。
焦らない。
まずは、認めることから。
妹は、彼女なりの答えを見つけようとしている。
俺も、俺なりの答えを、これから探していく。
答えはまだない。
でも、探し始めた。
昼食を作ろう。
今日は、妹のために、少し特別な何かを。
冷蔵庫を開ける。卵。ほうれん草。ベーコン。
手を動かす。フライパンを熱する。油の音。卵を割る。
作っている間、俺は考える。
田中さんの「助かるよ」という言葉。
あの時の、彼女の笑顔。
あれは、本物だったのかもしれない。
母の「ありがとう」という声。
電話越しでも、安心している雰囲気が伝わってきた。
あれも、本物だったのかもしれない。
妹の「美味しいよ」という言葉。
パスタを食べる時の、彼女の表情。
あれも、本物だったのかもしれない。
俺は、ずっと、それらを疑ってきた。
社交辞令だと。本心じゃないと。
でも、もしかしたら。
もしかしたら、俺は。
卵焼きが完成する。黄色い。湯気が立っている。形がある。
これを、妹は食べる。
そして、何かを感じる。
温かさ。満足感。あるいは、それ以上の何か。
それが、もしかしたら。
窓の外を見る。
田中さんが、窓から手を振っている。
俺も、手を振り返す。
彼女は笑っている。
その笑顔が、なぜか、俺を軽くする。
妹の「美味しい」という言葉が、なぜか、俺を支えている。
お金はもらっていない。
でも、何か、もらっている。
何と呼べばいいのか、分からない。
でも、確かに、何かが、ある。
時計を見る。午後零時十五分。
時間は、ちゃんと流れている。
俺も、ちゃんと生きている。
止まっていたのは、時計じゃなくて、俺の方だった。
でも、今、俺は、動き出した。
どこに向かっているのか、まだ分からない。
ハローワークの封筒は、まだ開けていない。
でも、それでいい。
焦らない。
まずは、認めることから。
俺は、何かを、している。
そして、それは、誰かに、届いている。
それで、今は、十分だ。




