土曜日
土曜日。二人とも家にいる。
午前十一時。俺が起きると、妹も起きてきた。珍しい。彼女は普段、休日でも朝八時には起きる。
「おはよう」
「おはよう」
俺たちは久しぶりに、同じ時間を共有している。
朝食を一緒に食べる。トーストとコーヒー。
俺は、彼女を観察する。表情。動き。言葉の選び方。そこから、彼女が俺をどう思っているかを推測しようとする。
でも、今日の彼女は、いつもと違う。疲れているのは変わらないが、何か、吹っ切れたような表情をしている。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃんは、なんで仕事辞めたの?」
初めて聞かれた。直接的に。
「疲れたから」
「何に?」
「全部」
曖昧な答え。でも、他に言いようがない。
満員電車。蛍光灯。上司。同僚。仕事内容。
そして、何より。
何より、誰の役に立っているのか分からなかったこと。
妹は頷く。追及しない。
「私もね、最近思うんだ。これ、いつまで続けるんだろうって」
「辞めたいの?」
「分かんない。辞めたいわけじゃない。でも、続けたいわけでもない。ただ、続けてる」
彼女はコーヒーカップを両手で包む。
「お兄ちゃんはさ、今、幸せ?」
難しい質問だ。
「分からない」
正直な答え。
「私も分かんない。仕事してる時は、幸せじゃない。でも、仕事してないと、不安」
沈黙。
「ねえ、お兄ちゃんの部屋、見せて」
突然の提案。
「汚いぞ」
「いいよ」
俺の部屋。妹が入るのは、何ヶ月ぶりだろう。
彼女は部屋を見回す。本棚。PC。ベッド。窓際に置かれた小さな植物。多肉植物。
「これ、生きてる」
「まあ、水はやってるから」
「いつから?」
「二ヶ月くらい前」
彼女は植物を見つめる。じっと。
「お兄ちゃん、何もしてないって言うけど、してるよね」
「これ、暇つぶしだよ」
「暇つぶしでも、続けることって、すごいことだと思う」
すごいこと。
またその言葉。
彼女は壁の時計を見る。永遠の十一時。
「この時計、止まってない?」
「ああ、電池切れてる」
「替えないの?」
「別に。スマホあるし」
彼女は何か言いたそうな顔をする。でも、何も言わない。
代わりに、彼女は自分の部屋から、ノートを持ってくる。日記らしい。
「これ、読んで」
彼女の日記を。
「いいの?」
「うん」
ページを開く。最近の日付。一週間前。
『時計を見るたびに、息ができなくなる。
お兄ちゃんは時間から逃げた。羨ましい。でも心配。
でも、最近、分かってきた。
お兄ちゃんも疲れてる。私とは違う疲れ方で。
昨日、お兄ちゃんが作ってくれたパスタ、美味しかった。
温かくて、トマトの匂いがして、確かに、そこに、あった。
食べた。満たされた。
会社で私が作るもの。
報告書。画面の中。印刷しても、誰も読まない。
プレゼン資料。発表が終われば、消える。
エクセルの数字。来月になれば、意味がない。
何も残らない。
誰の顔も、浮かばない。
喜んでくれた人、いたかな。
お兄ちゃんが電球替えた時の、田中さんの笑顔は、覚えてる。
見えた。確かに。
私は、誰かの笑顔、最後に見たのいつだろう。
お金もらってるのに。
お兄ちゃん、お金もらってないのに。
おかしいよね。』
日記を読み終える。
俺は、何も言えない。
妹も黙っている。
しばらくして、彼女が口を開く。
「お兄ちゃんの言う通り、私たち、両方とも疲れてるね」
「そうだな」
「でも、疲れ方が違う」
「どう違う?」
「私はね、会社で『お疲れ様です』って百回くらい言われる。でも、全部、空っぽなの。音だけ」
彼女はコーヒーカップを見つめる。
「でも、お兄ちゃんが作ってくれたパスタ食べる時は、ちゃんと、温かいの。胃だけじゃなくて、ここ」
彼女は胸に手を当てる。
「お兄ちゃん、なんで、人の反応、そんなに気にするの?」
突然の質問。核心を突かれた。
「...気にしてる?」
「気にしてるよ。私のこと、じっと見るし。田中さんと話す時も、相手の反応、すごく観察してる」
気づかれていた。
「怖いの? 嫌われることが」
沈黙。
認めるしかない。
「...怖い」
「私もそうだった。上司の顔色ばっかり見てた。お客さんの顔、見てなかった」
妹は俺を見る。
「お兄ちゃん、怖いんでしょ。自分を認めることが」
心臓を撃ち抜かれた気分だ。
「会社では、誰が喜んでるのか、見えなかった。でしょ?」
図星だ。
「でも、今は、見えてる。田中さんの笑顔。お母さんの安心した声。私の、本当の『ありがとう』」
「...社交辞令だろ」
「違う」
妹は首を振る。
「田中さんの『助かるよ』。あれ、本物だよ。私、営業だから分かる。本物の感謝と、お世辞の違い」
「...」
「お兄ちゃん、めちゃくちゃ人助けてる。毎日。でも、認めない。なんで?」
「だって...」
「お金もらってないから?」
妹は少し考えてから、続ける。
「会社でね、大きな契約取った時、ボーナス出たの。すごく嬉しかった。でも、家帰って、お兄ちゃんのパスタ食べた時の方が、満たされた」
彼女は笑う。自嘲的じゃない笑い。
「おかしいよね。数十万のボーナスより、タダのパスタの方が」
おかしくない、と俺は思う。
「お兄ちゃん、気づいてないの? 私、お兄ちゃんに、めちゃくちゃ助けられてる。毎日」
妹は立ち上がる。
「私、決めた。時計、直す。七分進んでるの、やめる」
「なんで?」
「七分先の未来じゃなくて、今を見たいから」
彼女は俺の部屋の時計を見る。永遠の十一時。
「お兄ちゃんも、時計、動かしなよ」
「...分かった」




