金曜日
金曜の夜。妹の帰宅は午前二時だった。
俺はまだ起きていた。PCの前で、ネットを漂流していた。特に目的もなく。
玄関のドアが開く音。鍵がうまく開かない。何度か試す音。
ようやく開く。よろめく足音。
リビングに行くと、妹が壁にもたれて床に座っていた。ソファにすら辿り着けなかったらしい。
「酔ってるの?」
「ううん。飲んでない。飲み会だったけど、ウーロン茶だけ」
声はしっかりしている。酔っていないのは本当らしい。
「じゃあ、なんで」
「疲れた」
彼女は顔を上げない。うつむいたまま、呟く。
俺は、彼女を観察する。表情。仕草。呼吸。そこから、彼女の心理状態を推測しようとする。
彼女は、俺をどう見ているのだろう。今、この瞬間。
床に座り込んだ彼女と、立っている俺。
この構図を、彼女はどう感じているのだろう。
「お兄ちゃんって、疲れてないの?」
同じ質問。三ヶ月ぶり。
前回、俺は「疲れるわけがない」と答えた。
今度は?
「疲れてるよ」
彼女は顔を上げる。驚いたような顔。
「何もしてないのに?」
「何もしてないから、だろうな」
何もしていないことの疲労。それは、存在していることの疲労だ。価値がないと思い込んでいる自分が、それでも存在し続けなければならないことの疲労。
彼女は笑った。疲れた笑い方だった。
「それ、分かる」
分かる?
「お兄ちゃんは、何もしてないけど、何かしてる。私は、何かしてるけど、何もしてない」
彼女の言葉が、理解できない。禅問答みたいだ。
「昇進の話があるんだって」
唐突な話題転換。でも、彼女の話し方は、いつもこうだ。疲れている時は特に。
「おめでとう」
社交辞令。でも、他に何と言えばいい。
「嬉しくない」
彼女は床を見つめている。
「昇進したら、もっと働く。もっと会議。もっと報告書。もっと数字。でも、何のために?」
俺は答えられない。
「この前、ふと思ったの。私、何作ってるんだろうって」
彼女の声が震えている。
「製品? 違う。私は営業だから。売上? 数字? それって、作ってるって言えるのかな」
彼女は俺を見る。
「お兄ちゃんは、毎日、ご飯作ってるよね。私のために。それって、作ってるよね。形があるよね」
形がある。
その言葉が、心に刺さる。
「形があるって、大事だと思う。食べられる、触れる、そこにある、っていう実感。私の仕事には、それがない」
彼女は立ち上がろうとして、ふらつく。俺が手を差し伸べる。彼女はそれを掴んで、立ち上がる。
「ありがと」
彼女は自室に消える。
俺は一人、リビングに残される。
形があるもの。
俺が作っているものは、何だ?
パスタ? 洗濯された服? 替えた電球?
それらは、確かに形がある。
でも、それは労働なのか。
お金をもらっていない。だから、労働ではない。
そういうことになっている。
でも、本当にそうなのか。
窓の外を見る。空が少しずつ白んできている。
もうすぐ朝だ。
俺は、まだ眠くない。




