第11話「間者の影と囁かれる裏切り」
森の国と呼ばれるようになった小さな集落は、日ごとに形を変えていた。
畑には青々とした作物が芽吹き、川辺には木組みの水車が立てられ、子どもたちは笑い声を上げて走り回る。
追放者のアルトが長として認められ、辺境に新しい秩序が芽生えつつあった。
だが、その繁栄の影に、暗い波が忍び寄っていた。
ある夜、見張りの傭兵が焚き火の灯りの中に一人の男を連れてきた。
痩せこけ、衣服はぼろ布のように裂け、足取りは覚束ない。
「旅の途中で道に迷い、行き倒れていたそうです」
男は必死に頭を下げた。
「ど、どうか……食を少しでも……命を繋ぐだけでいいのです」
その声に、孤児たちが不安げにざわめく。
アルトはしばし考え、やがて頷いた。
「分かった。森の国に来た者は拒まない。ここで休むといい」
老農夫が彼に食を与え、カエルは竪琴で子守歌を奏で、リィナは鋭い視線で遠巻きに見張った。
リィナは後にアルトに囁いた。
「気をつけろ。奴の匂いは王都の兵に近い」
「……間者かもしれない、ってことか」
アルトは唇を噛んだ。だが、追い出すことはできなかった。
もし彼が本当に飢えた旅人なら、また誰かを「無能」や「異端」と決めつけて見捨てることになる。
それだけは繰り返したくなかった。
翌日、集落に小さな亀裂が走り始めた。
「森の力は危険ではないか」「祠を操るアルトは、神か悪魔か」
そんな声が人々の間に囁かれ始めたのだ。
老農夫は強く首を振った。
「アルト様がいなければ、この畑は荒れたままだった!」
だが、旅商人のひとりは不安そうに言い返した。
「王都では“異端”と呼ばれていると聞いた。森喰らいを従えたとも……もし本当なら」
不安の種は広がり、人々の間に小さな疑念を芽生えさせていった。
カエルはそれを察して竪琴を奏でたが、音色は不安の声をすべては掻き消せなかった。
夜。アルトは祠の前に座り込み、土に手を当てていた。
掌に宿る光は穏やかで、人を癒やす力を示している。だがそれがかえって人々の恐怖を呼んでいるのかもしれない。
「俺の力が……みんなを分けてしまうのか」
星を仰ぎながら呟いたとき、リィナが背後に現れた。
彼女は槍を抱え、焚き火の赤を背にしていた。
「愚か者め。力に恐れるのは人の性だ。だが群れに必要な牙を、誰が捨てる?」
「でも、このままじゃ……」
「信じさせろ。祈るだけじゃなく、示すんだ。おまえが異端ではなく、共に生きる者だと」
リィナの金色の瞳は真っ直ぐだった。
アルトはその視線を受け止め、胸の奥に小さな炎を灯した。
翌朝、祠の前に人々を集めたアルトは静かに言った。
「俺は王都に追放され、“無能”と呼ばれた。今は“異端”と呼ばれている。
だが、俺はただみんなと同じように、生きたいだけだ。
この森の力は俺だけのものじゃない。祈れば、誰の手にも宿る」
そう言って彼は孤児のひとりに手を差し出し、祠の土へ触れさせた。
すると、小さな掌から淡い光が漏れ、芽が震えるように伸びた。
人々は息を呑み、ざわめいた。
老農夫は膝をついて涙を流し、傭兵は剣を掲げ、旅商人ですら目を潤ませて頷いた。
「……これが真実だ。俺だけじゃない。森は、みんなを生かす」
その言葉に、人々の疑念は少しずつ溶け、代わりに強い決意が生まれ始めた。
だが、焚き火の影でその様子を見つめる目があった。
例の旅人——王都から送り込まれた間者だ。
彼は小声で呟いた。
「なるほど……民を欺き、森を使っているか。報告せねば」
闇に紛れたその影は、静かに森の奥へ消えていった。