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第1話「追放、そして森へ」

 王都の空は、いつになく高かった。

 玉座の間から押し出されるようにして外へ出たとき、アルトは自分の手のひらを見た。汗で湿っている。けれど、震えはない。怒りも、涙も、何ひとつ湧いてこなかった。


「アルト=フェルド。お前は本日をもって宮廷務めを解かれ、辺境へ追放とする」


 先ほど告げられた言葉が、耳の奥で再生される。国王はわざわざ立ち会わず、宰相が淡々と宣言した。周囲に並ぶ文官の唇が、同じ形の嘲笑で歪んだのを、アルトはたしかに見た。


 無能。

 それが、宮廷における彼の呼び名だった。


 魔法は初級の《光》がやっと。剣術は門番に勝てもしない。政務の計算は遅く、礼儀作法はぎこちない。そう評され続け、最後には「宮廷の恥」とまで言われた。

 養父である老文官フェルドが亡くなってからは、庇ってくれる者もいなくなった。仕方のない結末だ、とアルトは思う。自分でも、何も役に立てないことは、嫌というほど知っていた。


 護衛の兵が二人、通用門まで付き添った。与えられたのは、ぼろ布のような外套と、干からびた黒パンがひとかけら、そして古びた水袋。金貨は一枚もない。

 門が閉じる音が、背中で鈍く響く。振り返らない。振り返ったところで、帰る場所はないのだ。


 王都を囲う外壁の影が長く伸びる道を、アルトはひとりで歩き出した。行き先は、地図の端に煤けた文字で記されていた——“黒樫の森”。そこに古い小屋があり、追放者はそこで一夜を明かしてから各々の行く末を選ぶのが常だという。

 人の視線を避けるようにフードをかぶると、世界は一段暗くなった。街道沿いで商人が声を張り上げ、子どもらが短い影を跳ねさせて走り去る。彼らの笑い声は軽やかで、アルトの足取りは土の匂いを確かめるように重い。


(フェルド様。俺は、結局、何もできませんでした)


 養父の名前を心の中で呼ぶ。返事は風だけだ。

 黒パンを少し齧る。歯が欠けそうな固さに笑ってしまい、噛み切れた欠片をゆっくり唾液で溶かし込む。味はほとんどない。けれど、空腹が思考を濁らせる前に、歩き出さなくては。


 王都を離れるほどに街道は細くなり、草の丈は高く、鳥の声は近くなった。

 やがて地平線の向こうに、黒々とした樹海の縁が見えてくる。視界を食むように迫るその影は、夏だというのに冷気を孕んでいた。黒樫の森。名の通り、幹が煤で染められたような古樫がうねり、枝と枝が絡み合って空を塞ぐ。

 森の手前で一度立ち止まり、水袋の口を開く。喉を湿らせるほども残っていない水を、唇にだけ触れさせてから、アルトは深く息を吐いた。


「行くしかない、か」


 森に一歩、足を踏み入れた瞬間、世界の音が変わった。

 葉のざわめきが低くなり、遠くで小川が囁く。苔の匂い。湿った土の冷たさが靴底越しに伝わる。

 道らしい道はない。動物の通り道を辿り、ところどころ枝を払いながら、アルトは日が傾くのと競うように先へ進んだ。彼の頭には、養父から聞かされた古い伝承がよぎる。黒樫の森の奥には、小さな祠がある。祠を荒らさなければ、森は旅人を飲み込みはしない——。


 しかし、森は人間の都合に頷くほど甘くはない。

 足を滑らせ、苔の濡れた石に膝を打つ。息を呑むほどの痛みが走った。外套の裾が泥に汚れ、手のひらに浅い擦り傷が浮かぶ。立ち上がろうとしたとき、右足首に鈍い痛みが残っていることに気づいた。ひねったらしい。

 アルトは苦笑した。無能は、こういうときに顕になる。誰も頼れない森の中で、わずかな怪我が致命になる。


 小川の音が近くなった。木々の切れ間から差す光に、小さな水面が銀色の舌のように覗く。

 膝を引きずり、アルトは川べりに腰を落とした。冷たい水で手の汚れを流し、傷口にそっと触れると、ぴり、とした痛みが指先から肩へ走る。

 そのときだった。

 水面が、風もないのに波打った。陽光が反射して白くはぜる。思わず目を細めたアルトの掌に、冷たさではない何かが触れた。

 ぬるい光。

 言葉にしがたい柔らかなものが、掌から腕へ、胸の奥へ染み込むように流れ込んでくる。


「……え?」


 次の瞬間、傷の痛みが遠のいた。

 手のひらの擦り傷は、薄い皮膜で覆われている。血も止まっている。足首の鈍痛も、気づけば軽い違和感に変わっていた。

 アルトは周囲を見回した。誰もいない。鳥のさえずりが、討議の合間に囁く書記の声のように遠い。

 掌を見つめる。何もない。けれど——


 川面に、光が集まっている。

 ひとひら、ふたひら。初夏の雪のように白い粒子が、ゆっくり渦を巻き、やがて川底へ吸い込まれていく。

 胸の奥が、なぜか懐かしく疼いた。昔、誰かの手に包まれて眠りに落ちる直前の、あの温度に似ている。


(俺が、やったのか?)


 まさか。そんな力が自分にあるはずがない。

 けれど、事実として痛みは引いた。

 アルトは首を振って立ち上がり、荷を背負い直す。理由はあとで考えればいい。森の夜は、考えることに時間をくれない。


 川沿いに少し歩くと、古い石積みが見つかった。腰の高さほどの低い石垣が、半ば苔に飲まれながら円を描いている。中央に、崩れた祠。雨に削られた石板には、古い文字のような刻み目が残っていた。

 アルトは祠の前に膝をつき、自然と手を合わせる。誰に教わったわけでもなく、手はそう動いた。

 目を閉じると、川の音がひとつ深くなった気がした。

 祈りの言葉は出てこない。けれど、胸の内で形にならない想いを静かに置く。——赦してほしい、という言葉に近い何か。自分の無力を、これまでの不格好な日々を、すべて抱えて頭を垂れる。

 すると、石板の隙間から、ひと筋の風が漏れた。森の風とは違う、乾いた清浄な空気。手の甲に触れたそれは、幼い子の指のように細く、そっと撫でていった。


「ありがとうございます」


 アルトは小さく呟いて、祠の周りを片付けはじめた。崩れた石を積み直し、枯葉や枝を払い、石板の前を清める。足元の土をならすと、そこだけ色が濃くなったように見えた。

 ふと、土の中から白いものが顔を覗かせる。芽だ。いつの間にか、祠の前に、小さな芽がいくつも呼吸している。

 驚きと畏れが同時に胸に湧いた。さっきの光といい、この芽といい、森は生き物だ。当たり前のことを、当たり前として受け取りたくなる。


 夕暮れが森の縁を朱に染め、闇が枝の間から滲み出す。

 アルトは祠から少し離れた場所に、夜を過ごすための簡易な寝床をこしらえた。倒木の下に枝を組み、苔を敷く。火打石はないが、乾いた蔓に石を擦りつけるうち、運よく火の粉が落ちた。枯葉がぱちりと音を立て、細い炎が夜の最初の灯りになる。

 空腹は相変わらずだった。黒パンの最後の欠片を噛み締め、川で汲んだ水を手ですくって飲む。火の明かりに、手の甲の色が戻っているのが見えた。


 眠りに落ちる直前、森の奥から低い唸りが聞こえた。

 獣の気配。

 アルトは身を起こし、火の近くに転がっていた太い枝を手に取った。剣の代わりにもならない粗末な棒きれだが、手ぶらよりはましだ。息を潜め、耳を澄ます。

 ガサリ、と茂みが揺れ、影が飛び出した。

 狼だ。いや、それにしては肩が高く、目が人間じみている。月明かりに光る双眸が、炎の縁で静止した。


「……ごめん、通りがかりなんだ。争う気はない」


 アルトが低く声を出すと、影は鼻を鳴らした。

 次の瞬間、彼の足元にどさりと倒れる音。柄にもなく棒を振り上げかけて、アルトは息を呑む。

 倒れていたのは若い少女だった。獣人だ。狼の耳と尾を持ち、毛皮の肩掛けの下から露出した脇腹には、鋭い爪痕が三本、赤黒く走っている。

 呼吸は浅い。額に汗。唇が乾き、ひび割れている。

 アルトの身体が、考えるより先に動いた。


「大丈夫か」


 返事はない。

 彼は少女をそっと仰向けにし、脇腹の傷を確かめる。深い。出血は一度止まっていたのだろうが、走ったせいか、また開いたようだ。

 火のそばに引き寄せ、外套を裂いて布を作る。川の水で濡らし、泥や葉を丁寧に拭い取る。

 そのとき、またあのぬるい光が掌に集まった。

 光は布ではなく、彼の指先から直接、少女の傷へ沈んでいく。

 アルトは息を止め、ただ見守った。

 傷口の縁がわずかに寄り、血の色が薄まる。少女の呼吸が少し深くなった。痛みに強張っていた額の皺がほどけ、肩が沈む。

 光は、彼女の体内へと静かに溶け、消えた。


「なんで……」


 自分の声が裏返る。

 助かったことの安堵と、理解の及ばない現象への恐れとが、胸の内でせめぎ合う。

 アルトは布で簡易の包帯を作って少女の脇腹に巻き、火に小枝をくべながら彼女の顔を見た。

 狼耳が、微かに震え、彼女はゆっくりと瞼を開く。

 金色の瞳が、まっすぐにアルトを捉えた。


「……匂いが、懐かしい」


 掠れた声。言葉の端に、獣の唸りにも似た響きが混じる。

 アルトは戸惑いながらも微笑んだ。


「怪我、少しは楽になったか?」


「おまえ、人間……なのに、森の匂いだ。いや……もっと……」


 少女は眉根を寄せ、言葉を探すように視線をさまよわせる。

 やがて、ふらふらと起き上がろうとして、すぐに顔をしかめた。アルトは慌てて肩を支える。


「無理するな。朝まで休めば、きっと——」


「追ってが、来る。匂いが、近い。ここは、危ない」


 少女の耳がぴんと立ち、尾が緊張で固くなる。

 アルトは火を見た。炎はまだ小さい。煙は枝の間に溶け、遠くからは見えづらいはずだが、獣人の嗅覚ならば逃れられないかもしれない。

 追手。彼女は誰に追われている? なぜ血まみれで森を駆けていた?

 問いは喉まで出かかったが、今はそれより先にやることがある。


「立てるか。安全な場所に移ろう」


「安全……? 森にそんな場所、あるのか」


 少女の皮肉に、アルトは苦笑した。

 祠のことが頭に浮かぶ。さっき清めた場所。あの風。あの芽。

 理由なく信じられるものが、世界にはいくつかある。祠の前の土は、彼にとってそのひとつに思えた。


「ある。俺が、見た」


 少女は金の瞳で彼を射抜き、短く頷いた。

 アルトは彼女の肩を支え、ゆっくりと立たせる。体温が腕に伝わる。獣の匂いが、焦げた木の匂いと混ざって鼻腔に満ちる。

 彼らは火に土をかけて消し、闇の濃い森の中を、祠のある小さな空き地へ向かった。

 枝が彼らの頬を撫で、足元の根が何度もつまずかせようとする。少女は歯を食いしばりながらも一言も弱音を吐かなかった。


 やがて、石積みが見える開けた場所に出る。

 祠の前に立った瞬間、空気が変わった。

 静けさが、一層深くなる。耳鳴りのように聞こえていた遠い虫の声が、幕の向こう側へ退いた。

 少女が目を見開き、囁く。


「……ここ、護られてる。古い、風の匂い」


「ここなら、少しは安全かもしれない」


 アルトは少女を祠の前の平らな石に座らせ、自分の外套を肩にかけた。

 すると、祠の石板の隙間から、今度ははっきりと風が吹いた。

 冷たさよりも、乾きを含んだ風。砂漠の夜風のような、星の光を撫でる手。

 少女の耳が一度だけ軽く揺れ、表情が緩む。


「名前は?」


「……リィナ。灰狼はいろうの族。おまえは?」


「アルト。追放された、ただの人間だ」


 ただの——と口にしたとき、胸の奥で小石が転がるような違和感がした。

 ただの、ではなかったのだろうか。さっきの光は何だ。祠の前で芽吹いた緑は?

 考えは尽きないが、眠りは残酷なほど速やかに彼らを包んだ。

 リィナは祠にもたれ、浅い呼吸で眠りに落ちる。アルトは石積みに背を預け、棒を膝に渡したまま目を閉じた。


 夢を見た。

 白い手。幼い頃、熱に浮かされた夜に額へ置かれた、あの手。

 声は聞こえない。ただ、手の温度だけが確かだった。

 ——よく来たね。

 言葉にするなら、そんな意味だった。


 夜半、森の奥で木々が低く唸り、獣の足音が遠くを巡った。祠の前の空気は揺れず、風は一定に彼らの周囲を回り続けた。

 祠の石板に刻まれた古い文字の影が、月の移ろいとともに伸び縮みする。誰も知らないところで、芽は二つ、三つと増え、土はわずかに柔らかさを増した。


 明け方、鳥が最初の一声を上げる。

 アルトは薄い眠りから浮上し、祠とリィナと、そして自分の掌を見た。

 掌には何の印もない。けれど、皮膚の下で何かが微かに呼吸している気がした。

 追放の昨日と、森の今日の間に、境界線はない。ただ、世界が少しだけ正しい場所へ転がり始めた——そんな予感だけが、彼の胸に残っている。


「起きたか、アルト」


 リィナが目を開け、低く笑った。

 昨夜より声に力がある。包帯からは血が滲んでいない。

 アルトは安堵し、立ち上がって伸びをした。


「腹、減ったな」


「森の子に、腹が減るのはいつものことだ。けど、今日は……匂う。甘い、水の匂い」


 リィナの鼻先が、祠の前の土へ向く。

 そこでは、小さな芽が、さらにいくつも顔を出していた。夜明けの光を透かして、薄緑が輝く。

 アルトはしゃがみこみ、指でそっと土を掬う。ふかふかだ。昨日、手の甲を撫でた風の残り香が、土の奥に眠っているように感じられた。


「ここに畑を作れば、何かが育つかもしれない」


「育てるのか、人間。逃げるのではなくて?」


「逃げる場所なんて、俺にはもうないから」


 言葉は自嘲だったが、口の端が自然と上がった。

 昨夜、火のそばで噛み締めた黒パンの味よりも、いま鼻腔を満たす土の匂いのほうが、たしかで豊かなものに思えたからだ。


 それは、王都で「無能」と呼ばれた青年にとって、最初の選択だった。

 生き延びるためではなく、何かを育てるためにここに留まるという選択。

 祠は風で答え、芽は光で頷いた。


 そのとき、森の外側で、鈍い角笛の音がした。

 リィナが即座に耳を立て、低く唸る。


「追って、だ。灰狼の匂いを嗅ぎつけた人間の軍。昨日、私を仕留め損ねた連中が来た」


 アルトは棒を握り直した。心臓が波打ち、喉の奥が乾く。

 無能。

 その烙印は、たぶん簡単には剥がれない。

 けれど、昨夜の光と、いま芽吹く緑と、祠の風が、胸の奥にひとつの確信を芽生えさせていた。


「守ろう。ここを」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 リィナがちらりと彼を見る。その金の瞳に、昨夜はなかった色が宿っている。期待。いや、信頼と言って差し支えない微かな光。

 角笛が二度、三度と続き、森の縁がざわめく。

 夜が終わって朝が始まるように、アルトの物語もまた、ここから本当に始まるのだろう。


 王都の外で、無能と呼ばれた青年は、まだ自分の正体を知らない。

 神々の最後の寵児。

 その名にふさわしい力が、彼の掌の下、土と風と水のあいだから、静かに息を整えていることを——彼自身だけが、まだ知らない。

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