音楽室のドンナ・アンナ
女子高生・朱音には二つの顔がある。
一つは、卓越した演奏技術をもつピアニストの卵。
もう一つは、手当たり次第に不純異性交遊を重ねる貞操破綻者。
たったひとり彼女の「特別扱い」を受ける同級生の男子・碧弥は、危なっかしい彼女のために行動を起こすことを決意する。それは朱音の交友関係を正常に戻し、音大への進学を手伝い、憧れの彼女が大成するのを見守ること。けれどもそれは、碧弥自身の望む「幸せ」とは決して両立させることのできない代物だった──。
「調査書の用意に必要だから」といって、担任教師はA4の紙を配って回った。どこの大学に願書を提出するのか、提出期限も含めて記載するように──。紙面に並んだ几帳面な格子模様が、白紙同然の頭を急かす。
あの子はどうしているだろう。
斜め向こうの席を見やれば、彼女はすでにシャープペンシルを紙に立てていた。迷いのない筆致がキュッと走って、止まって、また走り出す。消しゴムをペンケースから取り出すこともなく、立ち上がった彼女は教壇へ紙を持っていった。
「これだけでいいのか、安中。一般受験の予定はないのかね」
「必要ありません。受かるし」
担任の懸念を薙ぎ払うように彼女は断言した。
クラス一の才女、安中朱音。彼女がプロのピアニストを目指し、有名音大を受験することは、この狭い学級では周知の事実だった。
朱音は特別な少女だ。
学業でも、美貌でも、ピアノの腕でも、誰も彼女には敵わない。
進路希望表を担任に押し付け、朱音は退屈そうな顔で席に戻る。その長い指がおもむろにスマホを取り出して、画面の上で踊った。ぶる、とおれのスマホが震えた。
【放課後、音楽室】
朱音からのメッセージが届いた。
目を上げると朱音がこちらを見ていた。見るものすべてを威圧するような彼女の鋭利な眼光が、おれを刺して、すぐに長い睫毛の下へ隠れた。
「……言われないでも、いつもここに集合してるでしょ」
音楽室の床にカバンを置きながら嘆息すると、「まあね」と朱音はグランドピアノに頬杖をついた。いつもしゃなりと背筋を伸ばしている朱音が、気だるげに姿勢を崩しているのは傍目には新鮮な光景だろう。
校舎四階の音楽室には日暮れの光が差し込んでいた。この高校のオーケストラ部は週五回の活動を謳っていて、水曜日には練習がない。それでも朱音は自主練と称して、毎週のように職員室から鍵を借りてきて音楽室を開ける。おれの役目は、そのお供。
「あんたはなんて書いたの、さっきの紙」
「まだ何も」
「あたしと同じ大学にしろって言ったじゃん」
「それこそ何度も言ってるだろ。おれには常盤音大なんか無理だって」
「無理な理由なんかバカでも並べられんのよ。それでも男なわけ?」
「……男だなんて思ってないくせに」
投げやりに投げ返した文句は、朱音の耳には届かなかったようだ。「何?」と彼女が凄んだので、電子ピアノの電源を入れながら「何でも」と首を振った。
取り出した楽譜を朱音が譜面台に並べてゆく。二週間前、ピアノコンクールへ出場した時の曲目だ。入試の実技試験でも同じ曲をやるのかと尋ねたら「そんなわけないでしょ」と彼女は唾棄した。会話は途絶え、二人分のピアノの音粒が音楽室に散らばり始めた。
おれ──太田碧弥がピアノを始めたのは小三のときだ。
そのころ通っていたピアノ教室で、初めて朱音と知り合った。
朱音は園児の頃から教室に通い、すでに数々のコンクールで目覚ましい成績を上げていた。同じ舞台に立つどころか、劣等感を抱くことすらできない雲の上の子。まだ幼かったおれは、小六で教室を卒業するまで、ただ朱音を無邪気に尊敬するばかりだった。
音大進学なんて当たり前。あの調子なら、高校受験でも芸術系の学校を選ぶだろう。下手をしたら日本にいないかもしれない。──そう思っていたから、高校で朱音と再会したときには驚きを隠せなかった。彼女は何の変哲もない地元の公立高校を選んだのだった。美貌はいっそう輝きを増し、学力でも周囲を突き放し、人間離れしたピアノの腕にも磨きがかかっていた。ただ、瞳の色だけがいやに黒ずんでいたのを憶えている。
「……ねぇ」
朱音が手を止めた。きん、と甲高い余韻を引きながらピアノは沈黙した。
「本当に考えないわけ、音大」
「だから無理だって。おれは朱音みたいに上手じゃないし」
「そうかもね。あんたの演奏じゃ審査員が席を立って出ていきそう」
その通りであるだけに言い返しようもない。ぐっと文句を飲み込んでいると、「つまんないの」と畳み掛けられた。彼女は窓の外を見つめていた。ガラス窓に跳ね返って届いた声に、少し棘が混じっている。
「あんたがいなかったら誰が付き合ってくれんの、あたしの練習」
「そんなの音大に行けばいくらでも見つかるだろ」
「友達なんか作る気ない。面倒くさい。女子同士の腹の読み合いとかきっついし。碧弥も分かってんでしょ、あたしがそういうの苦手だって」
「だからってこれからも、そういうのに依存し続けるのか」
質問を質問で返したら、彼女は無言で首を垂れた。膝丈のプリーツスカートから覗く二本の足が陽光を浴びて、白鍵のような肌にはうっすらと汗が光っている。その艶めかしい玉肌に触れてもいいと言われたら、男なら誰でも陥落する。
ほっといてよ、と朱音はつぶやいた。
「……あたしが自由にできるものはこれしかないんだから」
止めないよ、とは言えずにおれはピアノへ向き直った。唇がうっすら震えて、その震えが指づたいに鍵盤にも伝わっている気がした。おれが何も言わないので朱音も練習を再開した。相変わらず、楽しくなさそうにコンクールの課題曲を淡々と弾き続けていた。
朱音とは校門の前で解散した。
陽は落ち、足元には街灯の火が水たまりのように落ちていた。
立ち去ってゆく彼女の背中は、制服越しでも分かるほどに骨ばっている。ダイエットをしていると聞いたことはない。どんな食生活を送っているのか、どんな家庭で暮らしているのか、気にならないといえば嘘になる。でも、朱音は何も話してくれないだろうという確信もある。
──安中朱音はパパ活に手を染めているらしい。
去年、そんな噂が誰からともなく校内に広まった。
金銭と引き換えに男性と逢瀬を重ねるような真似事を、あの朱音がするはずがない。何かの間違いだと思って朱音に尋ねたら、朱音は違うといって首を振った。金銭は受け取っていない、ただのセフレだと。
三年間のあいだに朱音は変わっていた。
おれの知っていた朱音は、知り合った不特定多数の男性と身体を重ね、欲望のままに生きるような少女ではなかった。
パパ活の噂が流れて以来、同級生たちはうっすら朱音から距離を取っている。だが実際には同級生の中にも数人、朱音と関係をもったことのある男子がいるらしい。朱音が何を思ってそんなことをしているのか、おれはいまだに訊けずにいる。彼女の無謀な逢瀬を止めず、忠告もせず、ただの部活仲間として接し続けている。それが彼女のためになろうがなるまいが、おれにできることはそれだけだった。安中朱音にとっておれは、どんなに近くにいても男性として扱われることのない村人Aなのだった。
朱音からのメッセージは丑三つ時に突然やってくる。
ぼうと光ったスマホの眩しさで目を覚ますと、絵文字のない文面が暗闇に浮かんでいる。
【決めた。試験で演奏する曲】
何を、と尋ね返すと一瞬で既読がついた。
【〈ドン・ジョヴァンニの回想〉】
【フランツ・リストの?】
【なんだ、知ってるわけ】
舐めんな、とおれは肩をすくめた。かの天才作曲家・モーツァルトは生涯に複数のオペラを作曲しているが、そのひとつが女たらしの貴族の末路を描いた喜劇「ドン・ジョヴァンニ」。そして、その旋律をモチーフにして後年発表されたピアノ曲が〈ドン・ジョヴァンニの回想〉だ。制作者はピアニスト兼作曲家のフランツ・リスト。どんな曲も所見で弾きこなす超絶技巧の持ち主で、その腕前は「ピアノの魔術師」とまで称された。
【どういう風の吹き回し?】
尋ねるまでもないと思ったが、一応、尋ねた。友達に勧められたのだと朱音は答えた。その友達とこんな時間まで何をしていたのかは、訊く気になれなかった。
いいんじゃない。
朱音の腕なら心配ないだろうしさ。
眠気で呆けてゆく目をこすりこすり、返信を打った。朱音の実力と楽曲の難易度を客観的に比較することなど、どだいおれには無理な話だった。続きは明日、音楽室で聞けばいい。そう思ってスマホを伏せようとした瞬間、朱音からの返信が目に入った。
【なに他人事みたいに言ってんの。あんたもやるんだよ】
【何を?】
【連弾。この曲、ピアノ二重奏だから】
【は?】
──困惑が口をついて溢れた。音大の入試で連弾が認められているなんて聞いたこともない。よしんば認められていたとしても、デュエットの相手がおれに務まるはずがない。
音大に行く未来をフイにする気か。
そう尋ねたら、朱音は一瞬、返信をためらった。
【……別に行けなくてもいいし】
それきり、既読はつかなくなった。カーテンの隙間から差し込む月明かりにおれは目を細めた。少し雲がかかっているのか、真円の輪郭がおぼろげだ。命令口調のくせして肝心なことは何も言わない、天邪鬼な朱音のすがたが脳裏をよぎった。おれの言うことは聞かないくせに、セフレの安直な提案は安易に飲むのだな。そう思ったら、じわりと心の隅が腐った。
青白い月が街を照らしている。しんしんと注ぐその光が、朱音のもとまで届いていればいいのにと思う。もしも彼女の生き様が一種の破滅願望によるのなら、いったいその連鎖を誰が断ち切れるのだろうか。不必要に身体を重ねることも、背伸びをすることもなく、のびのびとピアノを弾いていた朱音をおれはまだ覚えている。
すこし悩んで。
【楽譜、送って】
そう返信してスマホを伏せて、布団をかぶった。