無・懐旧之情な貴方と恋がしたい~女教師が転移したら普通の成長を羨望されました~
小学校教諭歴四年目の三井山 奈緒子は毎日の理不尽に疲弊していた。思い通りにいかない児童とのやり取り、サービス残業、保護者のクレーム対応などなど……
ある日ほんの些細な出来事で異世界に転移してしまう。そこで出会った青年に一目惚れするのだった。
しかし、彼とその世界にはある秘密があって……?
これは少し変わった異世界ラブファンタジーの序章である。
どうして小学校の先生になろうと思ったの?
自分が教師だという事を伝えるとほとんどの確立でこう尋ねられる。その質問の背景には尊敬という言葉もあるだろう。しかし決まって憐れんだ表情をしているのだ。
理由はわかりきっている。給料安い、サービス残業、児童の目配せ、保護者へのクレーム対応、行事の準備、テストやプリントの作成などなど……片付けても片付けても仕事が終わらない。つまりそんな大変な職業をよく選んだのだと言いたいのだ。実際その通りだし憂鬱な毎日だ。
とにかく笑顔を忘れず! 感情的にならない! 気持ちを切り替えろ!
大学時代教育実習で先輩教師から言われた事だ。教師という仕事はほぼ理不尽からできている。児童や保護者から安心してもらうために自己犠牲は絶対条件だと。
予想はできていた。だから仮面の如く笑顔を張り付けて振舞うようにしたし、感情を押し殺して児童ひとりひとりと接した。努力とスルースキルの甲斐あって、職歴四年目の二十六歳になった今は中堅の域に達していると思う。
とは自分で言ったものの……
私は現在五年生の担任を受け持っている。その日の給食でデザートの冷凍ミカンを男子児童が、友達とキャッチボールの要領で遊び始めた。そのとき私は様子を見るにとどめていたが、女子との言い争いが勃発。見兼ねた学級委員長が私の元にやってきた。その児童が私を苗字ではなく下の名前で呼んだ事、『男子が話を聞かない』と曖昧な表現で仲裁を求めた事。それを懇切丁寧に説いた事でさらに争いの炎は燃え盛った。私は間違った事をしていないのに。これだから小学生は……
我に返ると、いつの間にか教室を飛び出し階段を下っていた。『児童生徒の態度に怒り教師が教育を放棄する』という事柄を友人から聞いてはいたがまさか自分がしてしまうなんて……
児童は今頃呆然として話し合っている頃だろうか……しかし今の私には教室に戻って弁解する気力がなかった。なぜならもう教師という職業に限界を感じていたからだ。
私が実際に授業を受けていた頃とは全く違い、ネットで拾ってきたであろう知識を披露し、私が質問してするとすぐに逃げる。小学生でもスマートフォンを持つ子が多くなり、持っていない子とのいじめも把握していないだけであるのではないかと勘ぐってしまう日々。なんだかもう疲れてしまった……
いっその事子供から一気に大人へと成長してくれれば……
瞬間、私の足元がドーナツの穴のようにぽっかりと大きな口を開けている。それは墨汁をこぼしたような黒そのもので、そうと認識した頃には頭の先まで私の全身をすっぽりと呑み込んでしまった。最後に謝ればよかったな……
……
ウォータースライダーの要領で、下半身に摩擦を感じながら急に開けた下界に放り出された私は上空から真っ逆さまに落ちていった。今度はバンジージャンプですか。でも紐なし。イコール……死。
「あぁあああああああああ!」
カラオケでも出さない声が己の口から洩れた。きっと火事場の馬鹿力というやつだろうか。筋肉を行使してるわけでないから力……なのか? などと現実逃避している間にも地面まであと数十メートルといったところだ。私が教師となったきっかけの祖父母の顔を思い浮かべる。私はちゃんとした教師になれなかったよ……意地張って結婚しない馬鹿な孫でゴメン。
地面までの距離あと10メートル程に差し掛かったとき、私はせめてもの抵抗として両腕で顔を防御した。これで衝撃を避けられるとは思えないが反射行動というやつだ。
そして……
痛……く……ない? 私は一瞬にしてあの世に逝ってしまったのか……? でも……感触があるような?
恐る恐る目を開くとそこは地面だった。地面なのに柔らかい……? 手のひらで軽く押してみると、低反発枕の如くぷにょぷにょしている。底なし沼……? しかし自分の着ている服は土埃がついている程度で泥にまみれいていない。
「あの、大丈夫ですか?」
無様に這いつくばっているところに一つの声が降り注いだ。それは私が推しているアニメの男性キャラクターそっくりで、その言葉で再び空想の世界に飛び込みそうになった。しかし今になって襲ってきたむち打ちのような鈍痛が私に現実を教えてくれる。力を入れようにも、ぷにょぷにょの地面に足を取られなかなか立ち上がることができなかった。すると声の主が私の目の前まで来たと思うと跪いた。不思議な事に彼はふらつきもなく、袈裟のような出で立ちで平然と歩いているその様は一国の王子だった。
私は改めて男性の顔を見る。血色の良い白い肌、長いまつげ、スッと通った高い鼻、薄い唇。何より印象的だったのは結われた銀色の長髪と同色の瞳だった。吸い込まれそうなほど綺麗……歳は私より年上だろうか。
青年は地面に手を付け何やら呪文のようなものを唱え始めた。すると今までの動きにくさはどこへやら。アスファルトのようにカチカチになった地面を四つん這いの形で支えていた。こうして私はようやく二本脚での直立が叶った。ふと冷静になって考えた。
この方は外国の人なのだろうか。でも先ほど日本語で話していたような。
私があーでもないこーでもないと思考を巡らせていると向こうの方から口を開いた。
「この言葉で合っていますよね? 失礼ですがあなたの情報を読ませていただきました」
「え、情報……?」
まるで脳が言葉の意味を理解していない。すると青年は細くてしなやかな手を私の頭にそっと乗せてきた。すると脳内に心地よい青年の声が流れてきた。
『ここはあなたが住んでいる地球ではありません。そこから遥か遥か遠くの星です。幸いここは空気、水、食べ物は体内にいれても害がありません。また、あなたのように違う世界から来る人はいまして、それはおいおい紹介いたします』
ここで音声は途切れた。青年は押さえていた手を離すとニコリと微笑んだ。職員室でさんざん見た事務的なものでなく心からの笑顔だ。深呼吸を一つする。うん、意識せずにいたが普段の呼吸と大差ない。私は思い切って話を切り出した。
「ここは異世界で間違いありませんか?」
「はい。あなたが住んでいるところからしたらここは異世界という事になります。この一帯は上空から向かい入れた人達を受け止めるクッションのような役割をしていまして、発見した僕のような現地住民が説明をしているんです」
「あなたは魔法使いですか? 地面を固くするのに呪文を唱えていましたから」
「この世界に魔法という言葉はありませんが『地球にはない不思議な力』……と思っていただいて構いません」
「……ふふっ。なんだかいろいろな事があり過ぎておかしくなってきました」
まるで絵本の世界に飛び込んだようなふわふわした感覚に思わず吹き出してしまった。教師生活で疲れた心にじんわりと温かさが灯る。
「クロウザーせんせー!」
どこからともなく五歳ほどの少女がこちらに駆け寄ってきた。彼女が興奮気味に話しかける。
「先生遅いよ! 待ちくたびれたよ」
「すみません。この方は先生なのでしっかり説明しなければならなくて」
「早く学校戻ろう! もうすぐご飯だよ!」
「では、ひとまず学校に向かいましょう。来ていただけますか? ミーヤマさん」
共に行動をすると言われ話を進められると考えるより先に体がついていってしまう。私は彼らと歩調を合わせ発言の意図を探っていく。ここが異世界かどうかはひとまず置いておいて。
『この方は先生なので……』
ん? というか普通に現地の言葉が通じるんですけど。数歩先を進む少女が駆け出した。歩くのがつまらなくなったのだろうか。そのタイミングで青年が立ち止まり私を待っていてくれた。尋ねるなら今しかない。
「あの……クロウザーさん。確かに私は教師ですがなぜ……」
「名前と職業のみですがオトナには皆、地球人の情報が目を通すと伝わるようになっているんです。あと先ほど頭に触れた時、現地の言葉を翻訳する機能をつけさせていただきました。体調に変化はありますでしょうか」
「いえ……今のところは……」
「ならよかったです。学校近くの集落には地球人が数人いらっしゃいますし、きっとこの世界に馴染むと思いますよ」
話の筋は通っている……のか? もう考えるのも面倒くさくなってきた。
目線を上げると雲一つない薄緑色の空が見える。遥か遠くにはドラゴンらしき動物が優雅に泳いでいた。
「なんだか懐かしいなぁ」
「え……?」
いつの間にか感情が言葉となって出ていたらしい。ずっと聞き役に徹していたから今度は私が話しても大丈夫な頃合いだろう。彼の表情が一瞬曇ったことも忘れ口を開いた。
「昔、こういうおとぎ話が流行っていたんですよ。森を彷徨っていた女の子が一国の王子に誘われて世界を救うっていう。私が小学生の頃だったからもう十年以上前か。あ、ゴメンなさい。一方的に喋っちゃって」
「いえ……思ったより混乱していないようで安心しました。こちらこそすみません。毎度の事とはいえこの話題についていけなくて」
青年ことクロウザーさんはそう言うと頭を軽く抑えた。銀色の髪がキラキラと輝きまるで宝石のようだ。彼が立ち止まり私の目をじっと見つめる。そして決意したように語りかけた。
「ナオコ・ミーヤマさん。僕、クロウザー・タイムはあなたのように成長したのではありません。ある装置で強制的にオトナへと変化させられたんです」
「え? 何言って……」
「お願いです。教師として働きながら、僕と共に謎を解明していただけませんか?」