隣の席の日比谷さんが、ある日ペンギンになっていた
隣の席の日比谷さんは、ちょっと変わった女の子だ。だけどまさか、こんなことになるとは思っていなかった。
――ある日突然、日比谷さんがペンギンになっているだなんて。
初夏の早朝。人のいない高校の教室で。
僕の隣の席には、なぜかペンギンが腰掛けていた。教室に足を踏み入れた僕を、そのペンギンはなぜだかジッと見つめてくる。
「え……えっと、ペンギン?」
「キュー!」
「え、えぇぇ……」
困惑したまま、僕は周囲を確認する。
このクラスには動画配信者をしている奴らがいるから、たぶんドッキリでも仕掛けたんだろう。どこかにカメラが設置してあって、僕の様子を撮影してる違いない。
奴らなら、いつか何かやらかすと思っていたけど、まさか高校にペンギンなんか連れてくるとは……なんて、少しうんざりした気分になっていると。
「キュー! キュー!」
ペンギンはぺたぺたと僕の方に歩いてきて、何かを主張するように左右の翼を広げた。
「あー……おはよう。君はどうしてこんなところにいるの?」
「キュー!」
「うーん……水族館から連れてこられたのかなぁ。とりあえず、先生に相談して行政に連絡してもらうよ。安全に、穏便に、君を仲間のところに帰してあげないといけないからね」
そうして僕が教室を出ようとすると、ペンギンはずいぶん慌てた様子で僕の進路を遮り、身体をいっぱい広げて跳ね跳び始めた。
――いや、跳ね飛ぼうとしているみたいだけど、床からまったく足が離れていない。なんだか動作もぎこちないし、不器用な子なのかなぁ。
「キュー!」
「うーん……なんて種類のペンギンなんだろうねぇ。僕はまったく詳しくないから分からないけど。フンボルトペンギンとかかなぁ」
「キュー! キュー!」
そうして、僕が教室を出られないまま困惑していると、ペンギンは何やら僕にお尻を向けてフリフリと振り始めた。ダンスだろうか。いや、可愛くはあるけど、ペンギンってこんなことする?
「うーん……尻文字?」
「キュー!」
「あ、うん。実は隣の席の日比谷さんが、つい昨日僕に尻文字クイズを出してきたんだよね。唐突に。なんだか君の様子が、日比谷さんとそっくりだったから、つい」
ちなみに、花の女子高生である日比谷さんが、どうして尻で文字を書いて男子に当てさせようとしてきたのかはまったく理解できなかったけど。
ただどことなく、このペンギンは日比谷さんに似ている気がするんだよね。なんというか、可愛いのに微妙に残念なところなんかがさぁ。
「そういえば、君がさっき座ってたのも日比谷さんの席だったんだよ」
「キュキュー! キュキュキュー!」
「わっ、どうしたの急に興奮して。とりあえずちょっと落ち着いてよ。いったい何がなんだか」
そんな風にして、僕はこの日唐突に、謎のペンギンに遭遇することになった。まさか、この先にとんでもなく騒がしい高校生活が待っているなど、僕には少しも想像できていなかったんだ。
◆ ◆ ◆
僕が日比谷さんと初めて出会ったのは、つい二ヶ月ほど前。高校に入学してすぐの頃だった。
「あのさぁ、ボイパってあるじゃん」
「うん?」
「ボイスパーカッション。声を使って楽器みたいな音を出すやつだよ。知らない?」
日比谷さんは小柄で、顔のパーツがお人形さんのように整っている可愛い女の子だったんだけどね。
いかんせん自己紹介よりも先にボイパの解説が始まったもんだから、僕はひたすら面食らっていた。
「自分じゃ完璧だと思ったんだよ。それで昨日、ちょっと自撮りで録音してみたんだけど……何度聞いても、普通に""擬音語を言ってる""って感じの仕上がりになっちゃってさぁ」
「そうなんだ」
「だから、ちょっと聞いてみてほしいんだ。どこをどう直したらボイパっぽくなるか、客観的にアドバイスをもらいたくて」
そうして僕が戸惑っていると。
日比谷さんはコホンと咳払いをする。
「ぶんつくぱーつくぶんつくぱーつく」
「…………」
「ぶんぶんつくつくぶんぶんぱー」
うん。これはどう反応するべきなんだろう。
「えっと……君の名前は?」
「私は日比谷加奈子」
「僕は黒崎真。よろしく。それで日比谷さんのボイパについてだけど――」
僕は「全然ダメ」と言いかけて、慌てて口を閉じる。
なにせ中学時代は、人の気持ちを考えずにズケズケとものを言い過ぎて、人間関係がしっちゃかめっちゃかになったからね。同級生の女の子に泣きながらビンタされて、さすがの僕も懲りたよ。
だから高校に入ってからは、ちゃんと人の気持ちを考えた発言ができるようになろうって、僕なりに決意していたんだ。落ち着いて、穏やかに。
「えーっと。日比谷さんのボイパは……伸びしろがいっぱいあると思う。むしろ伸びしろしか存在しないと僕は思うよ」
「え、本当? 黒崎くんってば優しいー! もしかして、実はすごくいい人?」
「優し……うーん? あんまり僕に優しさはないと思うけど」
うん。なるべく柔らかく伝えるように心がけはしたけど、少なくとも全く褒めてはいないしね。
それなのに、どういうわけか日比谷さんは満足げに頷いて、ニヤニヤしていた。まぁ、彼女が納得しているんなら僕は構わないけど。
「黒崎くん、そういえばさぁ。たしかうちの高校、文化祭は秋にやるんだったよね」
「え、まさかそのボイパを披露する気?」
「さすがに無理だよ、今年はね。でも来年くらいにはもうちょっと上手くなってる予定だから。そうしたらステージに上がってみたいなぁ……ぶんつくぱーつくぶんつくぱーつく」
そうか。少なくともここから下手にはなりようがないから、この先に待っているのは上達だけだ。モチベーションもあるみたいだし。一年半後って話なら、頑張ればいけるんじゃないかな。
「日比谷さんは、やる気と伸びしろの女だね」
「ふっふっふ。その二つには自信があるよ」
「まぁ、それは良いことじゃないかな」
これが僕と日比谷さんの出会いだった。
日比谷さんはそれから、毎日のように変なことにチャレンジしては、色々と失敗を繰り返していた。隣の席の僕は、その様子をずっと見ていたんだけど。
ある時は、トランプタワーを作るんだと息巻いて、五箱くらいトランプを買ってきたのに、最初の数枚で失敗し続けたりだとか。またある時は、じゃんけんの必勝法を見つけたと言って僕に勝負を挑んできて、半分くらいの勝率なのに「ほらね」と自慢げだったりだとか。
「黒崎くんは、私を見捨てずにずっと付き合ってくれるからね。すごく感謝してるんだよ」
「そう?」
「うん。だから、私の気持ちをこめて今日はこれを作ってきたの。受け取って……もらえるかな」
そんな風にして、なぜか「肩たたき券」をもらったこともある。十枚綴りのやつだったから、これまで三枚くらい使ったけど。
とにかく、僕にとっての日比谷さんは、なんとも形容しがたい不思議な女の子だったんだ。
◆ ◆ ◆
教室にいたペンギンは、自分こそが日比谷さんなんだと主張しているようだった。にわかには信じがたいけど。
「改めて聞くけど、君は本当に日比谷さん?」
僕の問いかけに、ペンギンは翼の先で十円玉を動かしていく。
今の僕がペンギンとのコミュニケーションに使っているのは、いわゆる「こっくりさん」で使うボードだった。
ボードの上の方に『はい』と『いいえ』、その下にひらがなの五十音が書いてあり、その下に0から9の数字が並んでいるという、急造の超簡単なものだけど。
ペンギンが動かす十円玉は、ボードの『はい』のところで止まった。やっぱりこのペンギンは、自分が日比谷さんだと主張しているらしい。
「日比谷さんは、どうして自分がペンギンの姿になっているのか、自覚している?」
『いいえ』
へぇ。彼女自身にも原因が分からないのか。
「それじゃあ、どうして早朝から高校の教室に来ていたの?」
『く』『ろ』『さ』『き』
「黒崎――僕に会いに来たってこと?」
『はい』
なるほど。よく分からないけど、日比谷さんは僕に会うためにこの教室にいたってことになるのかな。
そういえば、昨日の帰り道に日比谷さんから言われてたんだよね。大事な話があるから、朝早くから学校に来てほしいって。
普通だったら告白なんかを疑うところだけど、日比谷さんだからなぁと思って。僕は特に身構えずに、こうして早くから学校に来たんだ。
「何か僕に助けてほしいことがあるの?」
『はい』
「それはどういう」
『い』『え』『に』『か』『え』『る』
――家に帰る。
たしかに今の日比谷さんには、家に帰るのは難しいことかもしれないね。
ペンギンの身体では電車にも乗れず、おそらくは表を歩いているだけで警察がやってくる。最終的には、近くの水族館なんかに移送されるだろうし。
「分かった。それなら僕がこれから、日比谷さんを家に連れて行ってあげるよ」
「キュー?」
「乗りかかった船だしね。学校で授業を受けるより、今は君をどうにかするのが優先だろう」
そんな風にして。僕の高校生活は、日比谷さんの手によって、大きく変わり始める。
差し当たって、ペンギン化した日比谷さんをどう運搬しようかっていうのが課題かな。案がないこともないけど……果たしてうまくいくかな。