1-8
夜の村は、昼間とはまるで別の場所のように静かだった。
電灯は少なく、灯りの届かない場所には黒い闇が広がっている。
足元を照らす懐中電灯の光は心もとなく、山道の影を不自然に揺らしていた。
和泉春人は一人で、神社へ向かっていた。
家を出るとき、母は既に寝ていた。父の気配もなかった。
まるで――わかっていたように。
春人がどこへ向かうのか、なぜその夜に限って物音を立てても咎められなかったのか。考えたくはなかったが、胸のどこかが冷たくなった。
山の麓に差し掛かる頃には、辺りに霧が立ち始めていた。
春の夜はまだ冷える。
草の匂いと湿った土の気配が、鼻先をかすめていく。
それでも、春人は進んだ。
神社への道は、村の外れにある古い参道だ。
普段は誰も通らないその道は、雑草に覆われ、木の根が石段を持ち上げるようにせり出している。
足を踏み外せば、転がり落ちかねないほどに荒れていた。
そして、視界の先――木々の隙間から、大きな鳥居が見えてきた。
真っ黒な木でできた鳥居。腐敗の気配こそないが、時間の重さをそのまま飲み込んだような色をしていた。
鳥居の中央には、異様に低い位置にしめ縄が張られている。
くぐるには身をかがめなければならない。まるで、それが“通ってはいけない”という無言の拒絶であるかのように。
春人は一歩、二歩と近づいた。
手のひらが汗ばみ、喉の奥が渇いた。
それでも、鳥居の下をくぐろうとしたそのときだった。
「やっぱり、来たじゃん」
不意に、後ろから声がした。
びくりと振り返ると、そこには――真希が立っていた。
腕を組み、いつものように呆れた顔をして。
春人は息をのんだ。
「なんで……」
「まったく、あんたってほんとに馬鹿。楓が心配してたよ。私もだけど」
「楓は、来てないのか?」
「来てない。あの子はちゃんと家で寝てる。私は……あんたを放っとけなかっただけ」
真希は乱れた息を吐きながら、春人の目を見た。
「なんでそんなに、神社のこと気にするのよ」
「……知りたいんだよ」
春人はポケットの中で、拳を握りしめた。
「ずっとさ。なんでみんな、あそこを避けてるのか。誰も説明しないくせに、“行くな”って、言うだけで」
真希の顔が曇った。
「それでも、あんた一人で行こうとしてたの?」
「止めたじゃん、昼間も。だから、お前が来ないなら……俺だけで行こうって」
「……ほんと、バカ」
ぽつりと、真希はそう言った。
でもその声には、怒気も呆れもなかった。
ただ、どこか寂しげで――震えていた。
「ねえ、春人……」
真希は一歩、春人に近づいて、うつむき加減に言った。
「もし、あんたが……戻ってこなかったら、どうすんのよ」
「……戻ってくるよ。俺は、ただ確かめたいだけなんだ。なにが、あそこにあるのか」
「私……やだよ。あんたがいなくなるの」
そう言った真希の瞳には、強がりとは違う、本音が宿っていた。
春人は戸惑った。こんな真希の顔を、見たことがなかった。
返す言葉が見つからないまま、春人はわずかにうなずいた。
「……ありがとう。でも、行くよ。来なくていい」
「っ……!」
真希は何かを言いかけたが、結局、言葉にならなかった。
そして、口をへの字に結び、春人から背を向ける。
「もう、知らない。……バカ」
その一言を残して、真希は山道を駆け下りていった。
春人はその背中を、しばらく見つめていた。
けれど、迷いはもうなかった。
しめ縄をまたぎ、鳥居の中へ――春人は、踏み込んだ。